イブン・スィーナー

イブン・スィーナー
生誕 980年
死没 1037年
時代 中世
地域 東方イスラム哲学
学派 イスラム哲学
テンプレートを表示
20ソモニ

イブン・スィーナーペルシア語: ابن سینا, پور سینا[1]‎、 全名アブー・アリー・アル=フサイン・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・スィーナー・アル=ブハーリー(ペルシア語: ابو علی الحسین ابن عبد اللّه ابن سینا البخاری‎ Abū 'Alī al-Husayn ibn Abdullāh ibn Sīnā al-Bukhārī、980年 - 1037年[2])は、ペルシアを代表する知識人で、哲学者医者科学者であった。ラテン名アウィケンナ(Avicenna、英語読みのアヴィセンナも普及している)。中央アジアブハラ出身で、イランの各地で活動した。当時の世界の大学者である[2]と同時に、中世ヨーロッパスコラ学に多大な影響を与えた。

タジキスタンで流通している20ソモニ紙幣に肖像が使用されている。

略歴

イブン・スィーナーは、980年ごろ、サーマーン朝の高官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子としてブハラ近郊のアフシャナに生まれ、ブハラで育った。幼いころからあらゆる分野の学問に天分を発揮し、10歳でコーランを暗誦し、16歳で医学を修めるなど、エリートの道を順調に歩んだ。10代の間彼は、ファーラービーの著作に触れて哲学を学ぶ一方、医学の分野においてもサーマーン朝の君主ヌーフ2世の治療に当たるなど事績を積み、やがて「18歳にしてほとんどの学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至った。

しかし999年にはサーマーン朝が滅亡、彼は祖国を去り放浪の旅に出る。この頃『医学典範』を執筆し始める。ブルガーンに居を定めた後1015年ブワイフ朝に高い地位で招聘される。1020年に『医学典範』の執筆を終え、同じころ『治癒の書』を書き始める。その後彼は政争に巻き込まれ、再び放浪の旅に出る。1021年イスファハーンに移り住み、その地の君主の庇護を受ける。君主に同行しハマダーンへ向かう旅の途上1037年にその生涯を終える。57歳であった。

学者としての業績

ティムール朝(15世紀初頭?)で書かれた『医学典範』(Kitāb al-Qānūn fī al-ṭibb)の写本

哲学者としての彼の主著『治癒の書』は、膨大な知識を集めた百科事典的なものである。この書は、後学のイスラーム知識層に多大な影響を与えたのもさることながら、アリストテレスの思想を保存、紹介したことにも大きな意義がある。12世紀以降イブン・スィーナーの著作はヨーロッパに紹介され始め、古代ギリシャの知識が失われていた中世ヨーロッパ世界に、特にスコラ学の大成に、イブン・ルシュドと共に大きな影響を与えた。

医学者として、彼はヒポクラテスガレノスを参考に理論的な医学の体系化を目指し『医学典範』を執筆した。『医学典範』は当時におけるギリシア・アラビア医学の集大成であり、ラテン語に翻訳[2]された後17世紀ごろまでヨーロッパの大学で使用され、またインドではさらに長く20世紀初頭まで使用されていた。

その他『指示と覚知』、『救済の書』、『科学について』等の他膨大な著作があるが、現在までにその多くが散逸している。

著作

研究

  • 五十嵐一 『東方の医と知  イブン・スィーナー研究』 講談社 1989年
  • 『ユーナニ医学入門  イブン・シーナーの<医学規範>への誘い』
サイード・パリッシュ・サーバッジュー編訳   ベースボール・マガジン社 1997年

ギャラリー

関連項目

脚注

  1. ^ English Wikipedia, the free encyclopedia (2010年11月1日). “Avicenna)”. 2010年11月1日閲覧。
  2. ^ a b c Gindikin, Semen Grigorʹevich; 三浦伸夫 訳 (1996), ガウスが切り開いた道, シュプリンガー・ジャパン, p. 10, ISBN 9784431707042 

外部リンク

Template:Link FA