エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)

第14代ダービー伯爵
エドワード・スミス=スタンリー
Edward Smith-Stanley
14th Earl of Derby
Edward Stanley, 14th Earl of Derby.jpg
生年月日 1799年3月29日
出生地 イギリスイングランドランカシャー
没年月日 (1869-10-23) 1869年10月23日(70歳没)
死没地 イギリス、イングランド、ランカシャー
出身校 オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党 ホイッグ党保守党
称号 ダービー伯爵ガーター勲章士枢密顧問官
配偶者 エマ
親族 第15代ダービー伯爵(長男)
サイン Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby Signature.svg

在任期間 1852年2月23日 - 1852年12月16日[1]
1858年2月25日 - 1859年6月[1]
1866年7月6日 - 1868年2月25日[1]
女王 ヴィクトリア

内閣 グレイ伯爵内閣
第二次ピール内閣
在任期間 1833年4月3日 - 1834年6月5日
1841年9月3日 - 1845年12月23日

内閣 グレイ伯爵内閣
在任期間 1830年11月29日 - 1833年3月29日

在任期間 1844年 - 1869年[2]
1826年6月26日 - 1830年12月7日[2]
1831年2月10日 - 1832年12月12日[2]
1832年12月10日
選挙区 ストックブリッジ選挙区英語版[2]
プレストン選挙区英語版[2]
ウィンザー選挙区英語版[2]
ノース・ランカシャー選挙区英語版[2]
テンプレートを表示

第14代ダービー伯爵エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー英語:Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, PC1799年3月29日 - 1869年10月23日)は、イギリス政治家貴族

保守党とピール派の分裂後にロバート・ピールに代わって保守党党首となり、3度にわたって首相(第1次内閣:1852年、第2次内閣:1858年 - 1859年、第3次内閣:1866年 - 1868年)を務めた。しかしいずれも少数与党の短命政権であり、事実上選挙管理内閣だったため、庶民院院内総務の地位にあったベンジャミン・ディズレーリが政局を主導するところが多く、影の薄い首相だった。1868年に退任し、ディズレーリが保守党党首・首相の地位を継承した。

1834年から1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用し、1844年からビッカースタッフのスタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)、1851年からダービー伯爵に叙された。

概要

ダービー伯爵家の長男として生まれる。イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学する。

大学在学中の1820年に庶民院議員に初当選した。はじめはホイッグ党系の独立議員だった。1827年にトーリー党自由主義派のジョージ・カニングの内閣に陸軍・植民地省次官として参加した。1830年のグレイ伯爵のホイッグ党政権にもアイルランド担当大臣英語版、のち陸軍・植民地大臣として入閣したが、1834年にはグレイ伯爵のアイルランド国教会の歳入を社会保障に回す政策に反発して辞職した。

以降ホイッグ党を離れて保守党(旧トーリー党)へ接近し、1837年に同党に入党した。1841年の保守党政権ロバート・ピール内閣で陸軍・植民地大臣として入閣。1844年にビッカースタッフ=スタンリー男爵に叙されて貴族院へ移籍した。

1845年にピール首相が穀物法を廃止して穀物の自由貿易を行おうとしたことに反対した。最終的に穀物法は廃止されるも、ピールらがピール派を立ち上げて保守党を去ったため、その後を受けて保守党党首に就任した。

1851年に父の死でダービー伯爵位を世襲する。

ベンジャミン・ディズレーリを保守党庶民院院内総務に任じて、庶民院対策を一任し、1852年にジョン・ラッセル卿のホイッグ党政権を倒して第一次内閣を組閣した。しかし少数与党政権だったので、大蔵大臣として入閣したディズレーリの予算案に否決されたことで、同年のうちに総辞職することとなった。

1858年にホイッグ党政権パーマストン子爵内閣が議会で敗れたため、第二次内閣を組閣したが、やはり少数与党政権なので1859年には議会で敗北して総辞職に追い込まれた。

1865年にラッセル伯爵内閣が選挙法改正法案をめぐって議会で敗北したことで、第三次内閣を組閣した。第一次、第二次同様に少数与党政権であったが、ディズレーリの主導により第二次選挙法改正を達成した。ダービー伯爵はこの法案の貴族院の通過にとりわけ大きな貢献をした。

1868年に病気のため、ディズレーリに首相職を譲って退任、その翌年に死去した。

生涯

生い立ち

ダービー伯爵家の自邸ノウズリー・ホール英語版

ランカシャーのダービー伯爵家の自邸ノウズリー・ホール英語版に生まれる。父は後の第13代ダービー伯エドワード・スミス=スタンリー)(まだ家督前でこの頃はスタンリー卿の儀礼称号を使用していた)。母はウィニック教区牧師ジェフリー・ホーンビーの娘シャーロット[3][4]

イートン校オックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[5][4]。学生時代から作詞に熱心で、これは生涯にわたるエドワードの趣味となった[6]

ホイッグ党系独立議員時代

大学在学中の1820年ストックブリッジ選挙区から庶民院議員選挙に出馬して初当選[7]。ダービー伯爵家は代々ホイッグ党支持であり、エドワードも公式にはそう称していたが、彼は独自の判断で行動した。とりわけイングランド国教会を守りたいと思っていたのでホイッグ党とは相容れない部分もあった[8]

1824年にエドワード・ブートル=ウィルブリアムの娘エマと結婚し、彼女との間に長男エドワード(第15代ダービー伯爵)と次男フレデリック(第16代ダービー伯爵)、他一女を儲けた。

1827年トーリー党自由主義派のジョージ・カニング内閣に陸軍・植民地省次官として参加したが、その後、トーリー党保守派のウェリントン公爵が首相となったために辞職した。この際にエドワードは「私がトーリー党政権を代表するのはカニングのようなトーリー党リベラル派が政権を握ったときのみである」と宣言した[9]

1830年、半世紀にわたったトーリー党政権が倒れ、グレイ伯爵のホイッグ党政権が誕生すると、そのアイルランド担当大臣英語版として入閣した[9]連合法廃止を求めるアイルランド独立運動家ダニエル・オコンネル議員と庶民院において激しく激闘した[9]。一方でアイルランドに無宗派の学校を次々と創設することでプロテスタントとカトリックの教育をめぐる争いの解消を目指した[10]

1833年3月に陸軍・植民地大臣に栄転し、大英帝国植民地における奴隷貿易廃止に尽力した(イギリス本国における奴隷貿易は1807年に禁じられていたが、植民地では未だ合法であった。)[11]

しかし1834年5月にはアイルランド国教会の歳入を社会保障費に転換しようというグレイ伯爵の政策に反対して陸軍・植民地相を辞職した[12]

以降エドワードはホイッグ党から離れていくことになるが、これは彼の父スタンリー卿、祖父第12代ダービー伯爵からも賛同を得た上でのことであった。彼らスタンリー家三代によれば自分たちがホイッグ党の本道から離れたのではなく、ホイッグ党の方がホイッグ党の本道にいる自分たちから離れたのだという[13]

1834年10月に祖父である第12代ダービー伯爵が死去し、父が第13代ダービー伯爵位を継承したことで、以降エドワードはスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用するようになった。

1834年から1835年にかけての短期間の保守党政権をはさんで、1835年にメルバーン子爵率いるホイッグ党が政権を奪還すると、スタンリー卿も入閣を求められたが、メルバーン子爵がアイルランド独立運動家オコンネルに譲歩する構えだったのでスタンリー卿は入閣を拒否した[14]

保守党中堅議員時代

1837年12月に正式に保守党に入党した[11]

1841年に誕生したロバート・ピール保守党政権に再び陸軍・植民地大臣として入閣した[15]阿片戦争の最終局面を指導して南京条約を締結させることに成功した。また英領カナダアメリカ合衆国の緊張の高まりを緩和してアメリカとの戦争を回避することにも成功した[15]

スタンリー卿は保護貿易主義者であり、野党ホイッグ党や首相ピールが検討していた穀物法廃止には反対の立場であったが、植民地と本国間の関税を軽減することには賛成であり、カナダ産小麦の関税を下げるカナダ穀物法を通している[16]

1844年10月にビッカースタッフ=スタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)に叙されて貴族院へ移籍した[17]

1845年夏にアイルランドで発生したジャガイモ飢饉により、野党を中心にパンの値段を下げるため穀物関税を定めている穀物法廃止の機運が高まり、11月にピール首相も穀物法を廃止の方針を表明した[15]。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。ビッカースタッフ=スタンリー男爵もバクルー公爵とともに反対した。ピールは二人を説得できず、内閣は一度総辞職した[18]。しかし女王が大命を与えたホイッグ党のジョン・ラッセル卿が組閣に失敗したため、再度ピールに大命があり、12月にスタンリーとバクルー公爵の二人だけを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた(ビッカースタッフ=スタンリー男爵の後任はウィリアム・グラッドストンだった)[19][20]

以降ビッカースタッフ=スタンリー男爵は貴族院における反ピール運動の中心的人物となった[19]。一方庶民院でその運動を主導したのはベンジャミン・ディズレーリジョージ・ベンティンク卿だった[21]

保守党党首に

穀物法廃止法案は保守党内自由貿易派と野党のホイッグ党や急進派の賛成多数により可決されたものの、保守党内には埋めがたい溝ができ、ディズレーリやベンティンク卿は野党勢力と連携して1846年6月にアイルランド強圧法を否決することでピール内閣を総辞職に追い込んだ[22][23]

ロバート・ピール以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党してピール派を結成した。これによってウィリアム・グラッドストンなど閣僚や政務次官経験者はほぼすべてピール派に流れていった[24][25]

7月18日の保守党両院議員による晩餐会が開かれ、その席上でビッカースタッフ=スタンリー男爵が保守党全体の党首、ベンティンク卿が保守党下院院内総務と定められた[26]

ヴィクトリア女王は辞職したピールに代わってビッカースタッフ=スタンリー男爵に大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断してホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう助言し、その結果ジョン・ラッセル卿が組閣することとなった[27]

1851年春に父第13代ダービー伯爵が死去し、52歳にして第14代ダービー伯爵位を継承した[28]

第一次ダービー伯爵内閣

ホイッグ党政権は首相ジョン・ラッセル卿とラッセルに解任された外相パーマストン子爵の内紛にディズレーリが付け入る形で崩壊した。その後を受けて1852年2月にダービー伯爵が大命を受けた[29][30]

第一次ダービー伯爵内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか三人の内閣で後は全員新顔だった。そのため「誰?誰?内閣英語版」と呼ばれた[31][32][33]

1852年7月の総選挙英語版で保守党は議席を伸ばしたが、過半数には今一歩で届かなかったため、11月に議会が始まれば倒閣されることを覚悟せねばならなかった[34]

10月にオックスフォード大学総長(Chancellors of the University of Oxford)に就任した[35]

12月には庶民院でディズレーリの予算案が庶民院で否決され、内閣総辞職を余儀なくされた。ピール派のアバディーン伯爵内閣にとって代わられた[36][37]

第二次内閣までの野党時代

以降5年にわたって野党党首時代を送った[38]。この間、保守党庶民院院内総務ディズレーリは政権に対して徹底対決路線をとったが、一方ダービー伯爵はピール派を保守党に呼び戻したいという意図から徹底対決路線を避けようとした[39]

クリミア戦争についてはアバディーン伯爵がはじめからフランスを支持するとロシア皇帝に通達しておけば、恐らくロシアはバルカン半島への侵攻など企まなかったであろうと主張してアバディーン伯爵政権の優柔不断な外交を批判した。しかし開戦後は挙国一致体制のためとして原則として政府の戦争遂行を支持するという立場をとった[40]

首相がホイッグ党のパーマストン子爵に代わった後の1856年に勃発したアロー戦争については「私は弱者を擁護する者である。強大なイギリスに対して弱き中国のために一助を惜しまぬものである」として戦争反対を表明した[41]。一方ディズレーリは国民の愛国ムードを敏感に感じており、これを争点にしても勝ち目はないと正しく予見していたが、党首ダービー伯爵はアロー戦争反対で政府に闘争を挑むことを決定してしまった[42]

保守党、ピール派、急進派の賛成多数でパーマストン子爵を批判する決議が採択されると、パーマストン子爵は1857年4月に解散総選挙英語版に打って出た[43][44]。選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員が大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった[45][46]

あてが外れてダービー伯爵は意気消沈したという[40]

第二次ダービー伯爵内閣

この後、パーマストン子爵が殺人共謀罪をめぐる採決で敗れて総辞職したことで1858年2月にダービー伯爵に二度目の大命があった[47]。しかし保守党は庶民院の総議席の三分の一程度の議席しか有していなかったので、野党が団結したら即座に倒されてしまう不安定な内閣だった[48]

息子のスタンリー卿(後の第15代ダービー伯爵)を植民地大臣に任じ、前パーマストン子爵内閣が鎮圧したインド大反乱後のインドの統治システムの構築に取り組んだ。女王や野党との協議の末にインドをイギリス東インド会社統治からイギリス女王(実質的には「女王陛下の政府」)の直接統治へ移行した[49]

またユダヤ人キリスト教徒としての宣誓を行えないがために例え選挙で当選しても議場に入れない状態を解消すべく、庶民院院内総務ディズレーリとともに貴族院と庶民院でそれぞれ新しい宣誓の形を定めた[50][51]

さらにディズレーリの主導で選挙法改正に取り組んだ。ディズレーリは賃料価値に関わらず男子戸主全員に選挙権を与える制度を欲していたが[52]、保守党内の選挙権拡大慎重派を考慮して、10ポンド以上の賃料価値の住居の所有者、あるいは20ポンド以上の賃料価値の住居の間借人に選挙権を認めるとの改正を目指した[53]。選挙権拡大に慎重なダービー伯爵はさらに10ポンド以上のコンソル公債を所持しているか、あるいは60ポンド以上の銀行預金がある者という条件も加えさせている[54]

1859年2月にディズレーリが庶民院に選挙法改正法案を提出したが、保守派からは選挙権を拡大しすぎると批判され、一方急進派からは選挙権拡大が手ぬるすぎると批判されて4月1日に否決された。これを受けてダービー伯爵は解散総選挙英語版に打って出て、30議席ほど保守党の議席を上済みしたが、過半数には届かず、6月には議会で敗北を喫して総辞職する羽目となった[55][56]

この退任の際に女王より与野党の折衝の功を労われてガーター勲章を授与された[56]

第三次内閣までの野党時代

1865年のダービー伯爵

イタリア統一戦争については、はじめイタリア・ナショナリズムに強い不信感をもっていたが、徐々に理解を示すようになり、1864年4月にはジュゼッペ・ガリバルディ主賓になっているロンドンでの晩餐会に出席して話題となった[57]

プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動で始まったシュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争については中立の立場をとるよう政府に訴えた[57]

1865年7月の解散総選挙英語版に保守党の総力を挙げて臨んだダービー伯爵だったが、結局20議席を失う敗北を喫している[58][59]

1865年10月、選挙権拡大に慎重だった首相パーマストン子爵が死去し、代わってラッセル伯爵が首相となると、庶民院院内総務になったウィリアム・グラッドストンの主導で選挙法改正法案が提出されたが、保守党や自由党右派の反対で否決され、ラッセル伯爵内閣は総辞職に追い込まれた[58]

第三次ダービー伯爵内閣

第三次ダービー伯爵内閣の閣議。右から三人目がダービー伯爵。

ラッセル伯爵内閣の総辞職を受けて、1866年6月末に女王より大命を受けた[58]。この第三次ダービー伯爵内閣も少数与党政権であり、第一次や第二次と同様に選挙管理内閣の性質が強かった[60]

選挙法改正の挫折で国民の抗議デモや暴動が多発し、急進派のジョン・ブライトが国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった[61][62]。ダービー伯爵は基本的に選挙権拡大に反対の立場だったが、ディズレーリからの説得で最終的には早急に選挙法を改正する必要性を理解した[58]

ディズレーリの主導で1867年2月に選挙法改正法案が庶民院に提出された。都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る[注釈 1]、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった[64]

しかし保守的なインド担当大臣クランボーン子爵(後のソールズベリー侯爵)、戦争大臣ジョナサン・ピール英語版将軍、植民地大臣カーナーヴォン伯爵らは自由党が強い大都市選挙区に有利な改正になるとして反対し、ついには辞職した[65][66]

一方ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃していった結果、法案は6月15日に第三読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯爵が辞職をちらつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第二次選挙法改正が達成された[67][68][69]

可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。直接納税の条件は納税方式を直接納税のみにすることによって廃しており、2年の居住制限の条件は1年に減らされた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められていた。州選挙区の有権者資格については年価値12ポンド以上の土地所有者が選挙権を有することとなった[70][71]

この第二次選挙法改正によって有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった[64]。ダービー伯爵にとってもディズレーリにとっても予想外の選挙権の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切ったという[72]

第二次選挙法改正法案をめぐる議会での論争の際には、すでにダービー伯爵の持病の痛風は相当悪化していた。閣議もしばしばロンドンセント・ジェームズ・スクウェア英語版23番地にある彼の自邸で開かれるようになっていた[73]。1867年秋にはオランダ王妃を所領の自邸ノウズリー・ホール英語版に迎えたが、ダービー伯爵の衰弱した様子を見た王妃は「伯爵は今にも燃えつきそうです。熱っぽい目と青白い顔を見ていると身の毛がよだちます」とその印象を語っている[73]

1868年2月に新議会が招集されたが、ダービー伯爵はもはや議会に出席できない状態だった。彼はまだそれほどの高齢ではなかったので引退生活に入ることを渋っていたが、医者の薦めで辞意を固めた[74]。女王もすでにディズレーリを後任にと考えていた[74]

1868年2月24日に女王に辞表を提出した[75]。その際にディズレーリに大命を与えるよう助言している[76][74]

死去

1869年5月29日の『ヴァニティ・フェアー英語版』のダービー伯爵の戯画

退任後はノウズリー・ホール英語版で過ごすことがほとんどだったが、1869年3月には最後の力を振り絞って貴族院に出席し、自由党政権ウィリアム・グラッドストン内閣が提出したアイルランド国教会を廃止しようとする法案に反対する演説を行った(しかしこの法案は可決している)[75]

その後、1869年10月23日にノウズリー・ホールで死去した[77]。ダービー伯爵位は長男エドワードが継承した[78]

人物

ロンドンパーラメント・スクエア英語版にあるダービー伯爵の銅像。

貴族主義的な人物で、民主主義を嫌っていた。彼の理想とする社会は「貴族」による寡頭政治だった。ただし彼の言う「貴族」とは爵位をもつ者だけではなく、爵位のない地主層ジェントリも含んでおり、つまり地方ジェントルマン全般のことであった[79]。その貴族主義は徹底しており、大貴族として威張り、庶民を見下すことを好んだ。「成りあがり者のヘブライ人」ディズレーリのことも、その才能は認めていたが、好んではいなかった[80]

外交では孤立主義不干渉主義を基調として、イギリスの名誉が傷付かない限り、戦争には消極的であった[57]

性格は激昂しやすかったという[81]

クラシック音楽の愛好家であり、『イーリアス』を詩歌に翻訳したこともある[81][80]

競馬ダービーオークスを創設した12代ダービー伯の孫であり、競馬を愛し、競馬界のパトロンであった[81]。公務より競馬を優先することもしばしばあり、補佐役のディズレーリは頭を抱えたという[82]

父を亡くす直前の1851年に、第73回オークスを所有馬アイリス (Iris) で制した。同レースは第1回に創設者12代ダービー伯爵がブリジット (Briget) で、第16回にもハーマイオニ(Hermione)で制しており、伯爵家としては57年ぶりの勝利であった。 この45年後、息子第16代ダービー伯爵カンタベリーピルグリムによって勝利している。

栄典

家族

1825年初代スケルマーズデール男爵英語版の娘エマ・カロリーナ・ブートレ=ウィルブラハム閣下(Hon. Emma Caroline Bootle-Wilbraham)と結婚。彼女との間に以下の3子を儲けた[4]

脚注

[ヘルプ]

注釈

  1. ^ 地方税の納税方式には一括納税と直接納税があった。一括納税すると直接納税より安く済むため、多くの人がこちらの納税方式を選択していた。下層民が選挙権を得るためだけに高い税金に切り替えるとは思えないため、この条件は下層民から選挙権を排除する最大の安全装置であった[63]

出典

  1. ^ a b c 秦(2001) p.509
  2. ^ a b c d e f g HANSARD 1803–2005
  3. ^ バグリー(1993) p.282
  4. ^ a b c d e f g h i j Lundy, Darryl. “Edward Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby” (英語). thepeerage.com. 2013年12月1日閲覧。
  5. ^ バグリー(1993) p.292
  6. ^ バグリー(1993) p.292-293
  7. ^ バグリー(1993) p.293
  8. ^ バグリー(1993) p.295
  9. ^ a b c バグリー(1993) p.296
  10. ^ バグリー(1993) p.297
  11. ^ a b バグリー(1993) p.299
  12. ^ バグリー(1993) p.299-300
  13. ^ バグリー(1993) p.300
  14. ^ バグリー(1993) p.301
  15. ^ a b c バグリー(1993) p.303
  16. ^ バグリー(1993) p.303-304
  17. ^ バグリー(1993) p.304
  18. ^ ブレイク(1993) p.260
  19. ^ a b バグリー(1993) p.306
  20. ^ ブレイク(1993) p.261
  21. ^ ブレイク(1993) p.268-269
  22. ^ ブレイク(1993) p.280-282
  23. ^ 神川(2011) p.124
  24. ^ 神川(2011) p.125
  25. ^ ブレイク(1993) p.287
  26. ^ ブレイク(1993) p.288-289
  27. ^ 君塚(2007) p.52
  28. ^ バグリー(1993) p.308
  29. ^ ブレイク(1993) p.362-363
  30. ^ バグリー(1993) p.311
  31. ^ バグリー(1993) p.312
  32. ^ ブレイク(1993) p.364-365
  33. ^ モロワ(1960) p.195
  34. ^ バグリー(1993) p.313
  35. ^ バグリー(1993) p.317
  36. ^ ブレイク(1993) p.404-404
  37. ^ 神川(2011) p.151-153
  38. ^ ブレイク(1993) p.408
  39. ^ ブレイク(1993) p.414
  40. ^ a b バグリー(1993) p.318
  41. ^ バグリー(1993) p.320
  42. ^ ブレイク(1993) p.435
  43. ^ ブレイク(1993) p.435-436
  44. ^ 神川(2011) p.168
  45. ^ ブレイク(1993) p.436
  46. ^ 神川(2011) p.169
  47. ^ ブレイク(1993) p.441-443
  48. ^ ブレイク(1993) p.443
  49. ^ バグリー(1993) p.321
  50. ^ バグリー(1993) p.322
  51. ^ ブレイク(1993) p.302
  52. ^ モロワ(1960) p.214
  53. ^ ブレイク(1993) p.462
  54. ^ バグリー(1993) p.322-323
  55. ^ 神川(2011) p.176
  56. ^ a b バグリー(1993) p.323
  57. ^ a b c バグリー(1993) p.327
  58. ^ a b c d バグリー(1993) p.328
  59. ^ 神川(2011) p.206
  60. ^ ブレイク(1993) p.519
  61. ^ 神川(2011) p.221-222
  62. ^ 尾鍋(1984) p.111/114
  63. ^ 神川(2011) p.231
  64. ^ a b 村岡、木畑(1991) p.155
  65. ^ 神川(2011) p.226
  66. ^ ブレイク(1993) p.536
  67. ^ 神川(2011) p.232
  68. ^ ブレイク(1993) p.552
  69. ^ バグリー(1993) p.329-330
  70. ^ 尾鍋(1984) p.113
  71. ^ 神川(2011) p.240
  72. ^ ブレイク(1993) p.555
  73. ^ a b バグリー(1993) p.330
  74. ^ a b c ブレイク(1993) p.566
  75. ^ a b バグリー(1993) p.331
  76. ^ 尾鍋(1984) p.116
  77. ^ バグリー(1993) p.332
  78. ^ バグリー(1993) p.342
  79. ^ バグリー(1993) p.305
  80. ^ a b モロワ(1960) p.177
  81. ^ a b c ブレイク(1993) p.332
  82. ^ バグリー(1993) p.316

参考文献

  • 尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』清水書院清水新書016〉、1984年(昭和59年)。ISBN 978-4389440169
  • 神川信彦君塚直隆『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年(平成13年)。ISBN 978-4905497028
  • 君塚直隆『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”』中央公論新社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4121019165
  • ジョン・ジョゼフ バグリー『ダービー伯爵の英国史』海保真夫訳、平凡社、1993年(平成15年)。ISBN 978-4582474510
  • 『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』秦郁彦編、東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220
  • ブレイク男爵英語版『ディズレイリ』瀬尾弘吉監修、谷福丸訳、大蔵省印刷局、1993年(平成5年)。ISBN 978-4172820000
  • 『イギリス史〈3〉近現代』村岡健次木畑洋一編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300
  • アンドレ・モロワ『ディズレーリ伝』安東次男訳、東京創元社、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAOYH6

関連項目

外部リンク

公職
先代:
初代ラッセル伯爵
イギリスの旗 首相
1866年-1868年
次代:
ベンジャミン・ディズレーリ
先代:
初代ラッセル伯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1866年 - 1868年
次代:
第3代マルムズベリー伯爵英語版
先代:
第3代パーマストン子爵
イギリスの旗 首相
1858年-1859年
次代:
第3代パーマストン子爵
先代:
第2代グランヴィル伯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1858年 - 1859年
次代:
第2代グランヴィル伯爵
先代:
ジョン・ラッセル卿
イギリスの旗 首相
1852年
次代:
第4代アバディーン伯爵
先代:
第3代ランズダウン侯爵
イギリスの旗 貴族院院内総務
1852年
次代:
第4代アバディーン伯爵
先代:
ジョン・ラッセル卿
イギリスの旗 陸軍・植民地大臣
1841年-1845年
次代:
ウィリアム・グラッドストン
先代:
ゴドリッチ子爵
イギリスの旗 陸軍・植民地大臣
1833年-1834年
次代:
トーマス・スプリング・ライス英語版
先代:
サー・ヘンリー・ハーディング
イギリスの旗 アイルランド担当大臣英語版
1830年-1833年
次代:
サー・ジョン・ホブハウス准男爵英語版
党職
先代:
サー・ロバート・ピール准男爵
保守党党首
1846年-1868年
次代:
ベンジャミン・ディズレーリ
先代:
初代ウェリントン公爵
保守党貴族院院内総務英語版
1846年-1868年
次代:
第3代マルムズベリー伯爵英語版
学職
先代:
初代ウェリントン公爵
オックスフォード大学学長
1852年-1869年
次代:
第3代ソールズベリー侯爵
イングランドの爵位
先代:
エドワード
第14代ダービー伯爵
1844年 - 1869年
次代:
エドワード