オットー・フランク

オットー・フランク
Otto Frank
オットー・フランク Otto Frank
本名 オットー・ハインリッヒ・フランク
Otto Heinrich Frank
生年月日 (1889-05-12) 1889年5月12日
没年月日 (1980-08-19) 1980年8月19日(91歳没)
出生地 ドイツの旗 ドイツ国
Freestate of prussia flag 1920–1947.png プロイセン州
Flagge Preußen - Provinz Hessen-Nassau.svg ヘッセン=ナッサウ県
フランクフルト・アム・マイン
配偶者 エーディト・フランク
著名な家族 長女マルゴット・フランク
次女アンネ・フランク
備考

1947年に次女のアンネが書き残した日記をアンネの日記と題した本を公表した。

スイスの旗スイスで死亡。
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オットー・ハインリッヒ・フランクOtto Heinrich Frank1889年5月12日 - 1980年8月19日)は、「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクと姉マルゴー・フランクの父親である。アンネの死後の1947年、彼女の日記を公表した。

生涯

生い立ち

1889年、銀行家ミヒャエル・フランクとアリーセ・ベッティー・シュテルン夫妻の次男としてドイツ帝国の都市フランクフルト・アム・マインで生まれる。裕福なユダヤ系ドイツ人家庭の生まれであった。兄にローベルト、弟にヘルベルト、妹にヘレーネがいる。ギムナジウムで学んだ後、優秀な成績でアビトゥーアに合格した。美術や考古学が得意であったオットーは、1908年にハイデルベルク大学美術史科に入学した。ここでアメリカ合衆国プリンストン大学からの留学生であるネーサン・ストラウス・ジュニア(Nathan Straus jr)と親交を結んだ。このネーサン・ジュニアはニューヨークの巨大百貨店「メイシー百貨店」の所有者ネーサン・ストラウス(en:Nathan Straus)の御曹司で、ネーサン・ジュニアはオットーに「メイシー百貨店」で職を保証するのでニューヨークへ来ないか、と薦めた。オットーはこの申し出を受けてハイデルベルク大学を中退してニューヨークへ移住することとなった。しかし翌年の1909年には父ミヒャエルが死亡したため、急遽ドイツへ帰国することとなった。ミヒャエルの銀行の所有権は母アリーセに移ったが、銀行の実務の多くをオットーが握ることとなった。1910年からはデュッセルドルフにある金属工業会社の経営管理も引き受けることとなった。デュッセルドルフでの経営管理の仕事を主とし、片手間で銀行の経営を見て、ときどきニューヨークへ出張するという毎日が続いた。

第一次世界大戦

1914年の第一次世界大戦開戦後もしばらくこういった生活が続いた。しかしまもなく兄や弟とともにドイツ帝国軍に徴兵され、オットーは歩兵部隊の射距離測定員となった。1916年にはソンムの戦いに動員された。ドイツ軍は45万人もの戦死者を出した戦いだったが、オットーは生き残った。1917年2月にオットーは部隊長の推薦を受けて少尉(将校)となる。1917年後半にはカンブレーでイギリス軍の戦車軍団によるヒンデンブルク・ラインへの攻撃の防衛戦に射距離測定隊の一部隊を指揮して参加した。1918年には偵察活動を評価されて中尉に昇進した。また一級鉄十字章を受章した[1]

この戦争中にオットーがドイツ人であることとユダヤ人であることの間に葛藤をした形跡はほとんどない。当時の彼の家族への手紙からはほかの多くのドイツ人兵士たちと同様、祖国ドイツ帝国の勝利を信じ切っていた様子がうかがえる。後世にもオットーはこの時期のことを「当時、ユダヤ人であるという意識が全くなかったとは言えません。ただドイツ人であることの意識の方が強かった。そうでなければ大戦中に将校にも出世していなかっただろうし、そもそもドイツのために戦ってはいません。」と語っている。

ドイツ在住時代

第一次世界大戦末期、ドイツ革命が発生してドイツの帝政・王政は崩壊し、さらに新ドイツ共和国政府はドイツの降伏を受け入れた。オットーも兄弟も大きな負傷もなく戦争から生還することができた。しかし戦時中、母アリーセが戦時国債に手を出して失敗しており、さらに戦後のインフレでフランク家の銀行業は大きな打撃を受けた。フランク家は、経営の回復を目指してドイツ国外に活路を求め、1923年に「ミヒャエル・フランク&ゾーネン」の名称でオランダアムステルダムに支店を設立した。この銀行にはヨハンネス・クレイマンが雇い入れられて勤めていた。彼は後にオットーたちの隠れ家生活の支援者となる。しかしこの支店も結局うまくいかず、1924年には負債の清算に入った。1925年5月12日、アーヘンのユダヤ人資産家アブラハム・ホーレンダーの娘エーディト・ホーレンダーシナゴーグで挙式して結婚した。二人が知り合ったのは銀行業務を通じてだったといい、資産家の娘である彼女の実家からフランク家の銀行への経済支援を期待しての政略結婚であったようだ。しかしフランクとエーディトは気も合った。二人はともに裕福なユダヤ家庭に育ち、芸術や自然の愛好者であった。また両者ともユダヤ人ながらそれほどユダヤ教に熱心だったわけではなかった。二人のハネムーンイタリア旅行であった。二人ははじめフランクフルトのヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家で暮らしていたが、1927年には母元を離れて同じフランクフルトのマルバッハヴェークのアパートへ移住している。一階と二階にまたがる広々としたメゾネット式アパートだった。1926年2月16日に長女(マルゴット・ベッティー・フランク)、1929年6月12日に次女(アンネリーズ・マリー・フランク)をさずかった。

フランク家の銀行経営は相変わらず軌道に乗っていなかったが、家族に金銭的不自由を掛けるほどではなく、フランク一家は週末にはよく旅行に出かけている。地元の名所遺跡やエーディトのアーヘンの実家などによく遊びに行っていた。スイスのオットーの従姉妹の別荘にアメリカの友達ネーサン・ストラウス・ジュニア(伯父イジドーが1912年タイタニック号沈没事件で死亡し、メイシー百貨店はイジドアの子供たちが継いでいた。ネーサンは代わりに「エイブラハム&ストラウス」社を経営していた)を招待して休暇を過ごしたりもしている。

しかしベルリンに次いでドイツでユダヤ人人口が多いフランクフルトは常にナチスの狂信的活動の場だった。彼らは『シオン賢者の議定書』など怪しげな書物をばらまいては反ユダヤ主義を吹聴して歩いていた。オットーたちのアパートの大家もこの手の怪しげな書物に洗脳された一人だった。おそらくその影響で1931年3月にオットーたちはアパートを出ている。ガングホーファーシュトラーセ24番地の新興住宅地のアパートへ移ることとなった。ここは前のアパートよりは狭かったが、広い裏庭があり、マルゴーとアンネの遊び場にするのにちょうどよかった。しかし世界大恐慌でフランク家の銀行のオランダ支店が閉鎖し、さらに弟のヘルベルトは外国証券の売買を禁止した法律に違反した容疑で逮捕され、フランクフルトの証券取引場は1931年夏にフランク家の銀行との取引を無期限に停止した。これによりフランク家の銀行は一気に経営が苦しくなってしまった。後にヘルベルトは1933年10月に再審で勝訴し、罰金刑の免除を受けているが、その頃にはもう手遅れであった(銀行は最終的にオットーのオランダ移住後の1934年1月に閉鎖している)。

いよいよフランク家はアパートの家賃を払うのが難しくなり、ヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家の同居に戻っている。ただ日常の生活はあまり変わらず、相変わらずフランク家は日帰り旅行や友人や親族の家に遊びに行っている。

オランダ亡命

1933年1月、ナチス党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。オットーはラジオ放送を通じてこれを知った。同年のフランクフルト市議会選挙もナチス党が圧勝した。フランクフルト市庁舎ではハーケンクロイツが壁いっぱいに掲げられ、ナチ党員が集まって「ユダヤ人は出ていけ」などと絶叫しながらナチス式敬礼をして気勢をあげていた。

狂気に包まれつつあるドイツやフランクフルトにこれ以上残るのは危険と考えたオットーは家族をより安全な国に逃がそうと決めた。スイスにいる義弟エーリヒ・エリーアス(ジャム作りに使うペクチンを製造する業者『ポモジン工業』の子会社『オペクタ商会』のスイス支社長)は、オットーにオランダアムステルダムに亡命して『オペクタ商会』のアムステルダム支社を起こさないかと薦めた。オットーはこの申し出をありがたく受けて1933年夏に故国ドイツを離れ、まず仕事と住居を安定させるため、単身アムステルダム市へと移住した(その間エーディトや娘達はアーヘンのエーディトの実家で暮らしていた)。ここで『ポモジン工業』の子会社としての『オペクタ商会』を開設するはずだったが、取締役に指定した人物との間に問題が生じたので、結局、オットーはエーリヒ・エリーアスから1万5000ギルダーの無利子貸付を受けて自ら会社を起こすことにした。「ペクチンをもっぱらケルンの『オペクタ商会』からのみから買い付け、『ポモジン工業』に利益の2.5%を支払う」という契約で代わりに『オペクタ商会』の商標を使う権利をもらい、『ポモジン工業』の子会社ではない『オペクタ商会』を経営することになった。ヴィクトール・クーフレルミープ・ザントルーシッツなど信用のできる人々を雇い入れ(彼らは後に隠れ家支援メンバーとなる)、仕事は軌道に乗ってきた。オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウトAmsterdam-Zuid)の新開発地区に一家四人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとマルゴット、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった。

1938年にはアムステルダムにもう一つの会社『ペクタコン商会』(Pectacon)を創立している。ソーセージの製造のための香辛料を扱う会社であった。銀行業務の時からの付き合いのヨハンネス・クレイマンを『オペクタ商会』と『ペクタコン商会』の監査役に迎え、また同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えた。ファン・ペルス一家はフランク一家の近くに住んでおり、家族ぐるみの付き合いをして、後に隠れ家でフランク一家と同居することとなる。1939年3月にはアーヘンにいたアンネの祖母ローザ・ホーレンダー(当時72歳)もアムステルダムのフランク家へ移ってきた。アンネやマルゴーは、オランダの学校へ通うようになり、一家には再び平穏が戻ってきた。

隠れ家生活へ

しかしヒトラーが全ヨーロッパの支配を狙っているという噂はたえず、オットー・フランクは、ヨーロッパから離れることを考えていた。そして1940年には実際にオランダ全土がドイツ軍に占領され、ナチス党幹部のアルトゥール・ザイス=インクヴァルトがオランダ総督として赴任してくる事態となった。

1938年1941年に、オットーは家族のためにアメリカイギリスキューバへの移住ビザを得ようと試みている。1941年12月1日、フランクはキューバへの単身ビザを認められているが、これが彼に届いたかどうかは不明である。この10日後、ナチス・ドイツとイタリアが米国に宣戦布告し、ビザはキューバ政府によりキャンセルされてしまった。[2][3] オランダでも反ユダヤ立法が本格的に始まり、アンネとマルゴーはユダヤ人学校へと移された。さらに1942年7月には長女マルゴーに強制収容所への召喚状が届いたため、フランクは自分が経営していたアムステルダム・オペクタ商会の建物の屋根裏で家族とともに隠れ家生活に入る。 2週間後、この隠れ家にファン・ダーン一家(ヘルマンアウグステペーター)が加わり、11月にはフリッツ・プフェファー(アンネの日記ではMr. Dussel)が加わった。この隠れ家生活はフランクの同僚で1923年以来の知人であるヨハンネス・クレイマンJohannes Kleiman)、およびミープ・ヒースヴィクター・クーフレルエリーザベト(ベップ)・フォスキュイルに支えられていた。

隠れ家生活は2年間続いたが、1944年8月匿名の密告によって、フランクと家族、同居していた4人、およびヨハンネス・クレイマンはナチス親衛隊SS曹長カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーに逮捕された。ユダヤ系であるフランクらはオランダ北東ヴェステルボルク通過収容所を経てアウシュヴィッツ強制収容所に送られた。 フランクは妻子と引き離されて男性棟に収容され、1945年1月27日病棟にいたところをソビエト赤軍により解放された。フランクはオランダに戻り、逮捕された家族と友人の行方を捜した。1945年末までに、隠れ家で一緒に生活した8人のうち、生き残ったのは自分ひとりであったことを知る。

戦後

隠れ家が襲われたあと、アンネの日記や書いていた文書はミープ・ヒースが見つけて保管していたが、1945年夏、アンネの死が確認されたあとにオットー・フランクに渡された[4]。 フランクはしばらくは日記を読まなかったが、スイスに住む親族のためにオランダ語から転写し始めた。やがてフランクはアンネの書いたものを公刊するようにと説得を受ける。これらはナチの迫害を受けた多くの人々の経験を明らかにするものだからというのである。フランクは日記をタイプして原稿をまとめ、家族のプライバシー上差しさわりがある、あるいは一般読者に見せるには平凡すぎると思った部分を省略した。オランダの歴史家ヤン・ロメインが原稿を読んで、1946年4月3日のHet Parool紙にレビューを書いた。これがアムステルダムのコンタクト社(Contact Publishing)の注意をひき、1946年夏、同社が出版を引き受けることとなった。

1947年6月25日、オランダ語による初版がHet Achterhuis(後ろの家)というタイトルで出版された。この成功を受けて、1952年には英語による翻訳版が出版され、その後の舞台化、映画化につながった。

フランクは、アムステルダムでの隣人で、同じくアウシュビッツを生き延びたエルフリーデ・ガイリンガー=マルコヴィッツ(Elfriede Geiringer-Markovits、1905年1998年)と1953年11月10日アムステルダムで再婚し、スイスバーゼルに移り住んで家庭を持った。

戦時中に住んでいた隠れ家のある建物が取り壊し命令を受けた時、建物の保全・維持と一般公開を目的として「アンネ・フランク財団」が1957年5月3日に設立された。財団は一般からの寄付に支えられて、この建物とその周辺を買収し、1960年5月3日に博物館として公開した。

オットー・フランクは死ぬまで、アンネ・フランクの残した寛容と思いやりのメッセージを世界中に広め続けた。

関連項目

脚注

  1. ^ ミュラー(文庫)252頁
  2. ^ “Anne Frank family letters released”. CNN.com. ( エラー: この日付はリンクしないでください。). http://edition.cnn.com/2007/WORLD/europe/02/14/frank.letters.ap/index.html 2007年2月14日閲覧。 
  3. ^ “In Old Files, Fading Hopes of Anne Frank’s Family”. NYT.com. ( エラー: この日付はリンクしないでください。). http://www.nytimes.com/2007/02/15/arts/15otto.html?pagewanted=1&ei=5094&en=8562a7fbeab56978&hp&ex=1171602000&partner=homepage 2007年2月15日閲覧。 
  4. ^ [新聞記事]毎日新聞「アンネ・フランク50年の旅 1 : 連行の瞬間 ミープ・ヒースさん 残った日記大事にしまった」 1995.03.31. [1]

参考文献

外部リンク