カラハン朝

カラハン朝
回鶻
カルルク
840年 - 1211年 ホラズム・シャー朝
ナイマン
カラハンの位置
カラハン朝の版図
首都 カシュガル
可汗
???年 - ???年 ビルゲ・キュル・カーディル・カン
927年頃 - 955年サトゥク・ボグラ・カラ・カガン
面積
1025年(想定)3.000.000km2km²
変遷
建国 840年
東西に分裂1041年
滅亡1211年

カラハン朝ペルシア語 : قراخانيان Qarākhānīyān)は、中央アジアにあったテュルクイスラム王朝9世紀中頃 - 1211年)。テュルク系民族として最初にイスラム教へ集団的に改宗し、中央アジアのテュルク化・イスラム化に大きな役割を果たした。

名称

カラ・ハン朝イリグ・ハン朝ハーカーニーヤ(カガン朝の意:この王朝が君主号のカガンを用いたことによる。)、アフラースィヤーブ朝とも呼ばれ、カラハン朝あるいはイリグ・ハン朝の名は歴史家[1]による便宜的な呼称であり、同時代のアラビア語ペルシア語などではハーカーン朝(خاقانيه Khakānīya)として記録されていた。また、歴代の君主は「力の強い」ことを意味するカラをつけたカラ・ハン(Qara Khan)、「威霊ある」ことを意味するイリグをつけたイリグ・ハン(Ilig Khan)といった王号を称した。

歴史

カラハン朝の起源と初期の歴史については不明なところが多い。840年モンゴル高原を支配する回鶻(ウイグル)可汗国が崩壊した後、アルタイ山脈の西、天山山脈の北、バルハシ湖の南の草原地帯で自らの王国を形成したと考えられている。国家の母体は、それ以前からこの地方で遊牧していたカルルクの部族連合が興したとする説が有力である[2]

10世紀の前半頃、伝説上の初代ハンの孫サトゥク・ボグラ・ハンサーマーン朝の影響を受けてイスラム教に改宗し、異教徒であった伯父を倒してカシュガルからベラサグンにかけてのイスラム王国を築いたとされる。しかし、サトゥク・ボグラ・ハンの改宗とその事績についても同時代の記録がないため、伝説としての色彩が濃い。

イスラム側の史料によればカラハン朝は、960年に帳幕(ユルト)20万帳にのぼる遊牧民たちのイスラム教への集団改宗を行ったとされる。これ以後のカラハン朝はジハード(聖戦)を掲げ、タリム盆地の仏教国ホータンクチャを征服する一方、西にも拡大して999年ブハラを征服し、サーマーン朝を滅ぼしてマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)を併合した。しかし、1008年にはホラーサーンガズナ朝に敗れ、アム川以西へは進出できなかった。

現在の新疆ウイグル自治区西部からウズベキスタンに至る広大な領域を支配するようになったカラハン朝では、征服されたタリム盆地やマーワラーアンナフルのオアシス都市にテュルク系ムスリム(イスラム教徒)たちが入り込み、徐々に遊牧生活をやめ都市へ定住していった。同じ頃、カラハン朝との境となる天山山脈の東側にはウイグルの残存勢力による天山ウイグル王国が形成され、同じように定住化に向かったので、この二つのテュルク系国家のもとでこれらの地域のテュルク化が進んでいった。また更に、ホータン、カシュガルなどタミル盆地の西部もカラハン朝のもとでイスラム化していった。後にこれらの地が「トルキスタン」(「テュルク人の土地」を意味する)と呼ばれるに至る契機となった。

もともと遊牧民の部族制を基盤に成立したと考えられるカラハン朝は分権的性格が強かったと考えられ、可汗を名乗る君主が複数あったことが貨幣の研究から明らかになっている。彼らは内紛から1041年に決定的に東西に分裂し、スィル川パミール高原を境に西カラハン朝と東カラハン朝にわかれた。

その後、定住化が進んで軍事力を弱体化させていた東西のカラハン朝は、同じ11世紀にマーワラーアンナフルの西で興ったセルジューク朝に打ち破られ、1089年に西カラハン朝はセルジューク朝のホラーサーン政権に服属した。さらに12世紀初頭には耶律大石を指導者とする集団が中央アジアにあらわれ、カラハン朝発祥の草原地帯に入ってカラキタイ(西遼)を建国した。東西のカラハン朝はカラキタイの圧迫を受け、いずれもカラキタイに服属した。

1131年にカラキタイと戦って敗れた東カラハン朝はカシュガルのオアシスをわずかに支配する小国となり、1211年になってカラキタイを乗っ取ったナイマンクチュルクによって滅ぼされた。西カラハン朝はサマルカンドを中心にマーワラーアンナフルを支配するカラキタイの属国として命脈を保ったが、13世紀初頭にホラズム・シャー朝がカラキタイを破ってマーワラーアンナフルを占領すると、ホラズム・シャー朝にサマルカンドを追われて完全に滅ぼされた。

文化

カラハン朝の成立は、中央アジアのテュルク化の契機として中央アジアの歴史上非常に重要視されている。カラハン朝の時代以降、中央アジアの定住民の多くはもともと話していた東イラン諸語などインド・ヨーロッパ語族の言語にかわってテュルク諸語に属する言葉を母語とするようになり、特にシルダリヤ川以東の地域は「トルキスタン」と呼ばれるようになった。また後の東トルキスタン新疆ウイグル自治区)にあたるタリム盆地とその周辺域のイスラム化に関しても大きな役割を果たした。最初に改宗を行った伝説的な君主サトゥク・ボグラ・ハンはトルキスタンの各地で聖者とみなされ、現在にいたるまで深く尊崇されている。

イスラム化とマーワラーアンナフルの征服を通してサーマーン朝でアラブ・イスラム文化とペルシア文化が結びついて成熟したペルシア・イスラム文化が流入しすぐれた都市文化が栄え、イラン・中央アジア各地に定着した。さらに「カラハン朝トルコ語」と呼ばれるアラビア文字を使って記されるテュルク語の文語が生まれて、テュルク・イスラム文化と呼ぶべき独自の文化を誕生させた。その精華として広く知られるのが、11世紀にはカシュガルの宮廷に仕える侍従ユースフ(ユースフ・ハーッス・ハージブ)があらわしたカラハン朝トルコ語による韻文作品『クタドゥグ・ビリグ』である。また、カシュガル生まれのカラハン朝の王族マフムード・カーシュガリーは内紛を避けてアッバース朝に逃れ、バグダードセルジューク朝が権力を確立して間も無い時期(1077年ないし1081年)に中央ユーラシア各地の様々なテュルク諸語の語彙を集めた『トルコ語辞典(ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク)』を編纂しこれをアッバース朝カリフムクタディーに献呈したが、これは当時のテュルク系民族の言語や生活ぶりを伝える重要な資料となっている。

政治体制

カラハン朝は突厥と同様に東西2人のカガンがあり、東方のアルスラン・カラ・カガンが大カガン、西方のボグラ・カラ・カガンが小カガンであった。この両カガンの下にはアルスラン・イリグ、ボグラ・イリグ、アルスラン・テギン、ボグラ・テギンという4人の下級君主がおり、順次上位の君主へと昇進した。[3]

歴代君主

カラ・ハン朝

  1. ビルゲ・キュル・カーディル・カン・アルスラーン・カラ・カガン(? - 840年 - ?)
  2. バズィル・アルスラーン・カラ・カガン(? - 860年 - ?)
  3. オグルカク・カーディル・カン・ボグラ・カラ・カガン(893年頃 - 904年頃)
  4. アブドゥルカリム・サトゥク・ボグラ・カラ・カガン(927年頃 - 955年
  5. サムス・アッダウラ・ムーサ・バイタス(955年 - ?)
  6. スライマーン・アルスラーン・ハン(958年 - 970年頃)
  7. シーハーブ・アッディーン・アブー・ムーサ・ハールーン(アル=ハサン)(982年 - 993年
  8. アブールハサン・アリー・アルスラーン・カラ・カガン(? - 998年
  9. ナースィル・アル=ハック・ワ・サイフ・アッダウラ・アブー・ナスル・アフマド・アルスラーン・カラ・カガン(998年 - 1017年
  10. サーナ・アッダウラ・アブー・マンスール・ムハンマド・アルスラーン・イリグ(1017年 - 1024年
  11. ナースィル・アッディーン・ユースフ・カーディル・カン(1024年 - 1032年

西カラ・ハン朝

  1. ムハンマド・アルスラーン・カラ・カガン(ムハンマド1世)(1042年頃 - 1052年頃)
  2. アブー・ムザッファール・イブラーヒーム・タブガチ・ボグラ・ハン(イブラーヒーム1世)(1052年 - 1068年
  3. サームス・アル=ムルク・ナスル・イブン・イブラーヒーム(1068年 - 1080年
  4. ヒドゥル(1080年 - 1081年
  5. アフマド・イブン・アル=ヒドゥル(アフマド1世)(1080/81年 - 1089年
  6. ヤークーブ・カーディル・ハン(1089年 - 1095年
  7. マスウード1世(1095年 - 1097年
  8. スライマーン・カーディル・タムガチ(1097年)
  9. マフムード・アルスラーン・ハン(マフムード1世)(1097年 - 1099年
  10. ジブラーイール・アルスラーン・ハン(1099年 - 1102年
  11. ムハンマド・アルスラーン・ハン(ムハンマド2世)(1102年 - 1129年
  12. ナスル(1129年)
  13. アフマド・カーディル・ハン(アフマド2世)(1129年 - 1130年
  14. ハサン・ジャラール・アッドゥンヤ(1130年 - 1132年
  15. イブラーヒーム・ルクン・アッドゥンヤ(イブラーヒーム2世)(? - 1132年)
  16. マフムード2世(1132年 - 1141年
  17. イブラーヒーム・タブガチ・ハン(イブラーヒーム3世)(1141年 - 1156年
  18. アリー・チャグリ・ハン(1156年 - 1161年
  19. マスウード・タブガチ・ハン(マスウード2世)(1161年 - 1171年
  20. ムハンマド・タブガチ・ハン(1171年 - 1178年
  21. イブラーヒーム・アルスラーン・ハン(イブラーヒーム4世)(1178年 - 1204年
  22. ウスマーン・ウルグ・スルターン(1204年 - 1212年

ホラズム・シャー朝によって滅亡

東カラ・ハン朝

  1. サラーフ・アッダウラ・アブー・スーガ・スライマーン・アルスラーン・カン(1032/42年 - 1055/56年)
  2. ムハンマド・ボグラ・カン(ムハンマド1世)(1056年 - 1057年
  3. イブラーヒーム1世(1057年 - 1059年
  4. マフムード(1059年 - 1075年
  5. ウマル(1075年)
  6. アブー・アリー・アル=ハサン(1075年 - 1102年
  7. アフマド・ハン(1102年 - 1128年
  8. イブラーヒーム2世(1128年 - 1158年
  9. ムハンマド2世(1158年以後)
  10. ユースフ(? - 1205年
  11. ムハンマド3世(1205年 - 1211年

ナイマンによって滅亡

脚注

  1. ^ カラハン朝およびカラハン国はグリゴリエフによって名づけられ、イレク・ハン国は古銭学者によって名づけられた。
  2. ^ 他にもウイグル説、テュルクメン説、ヤグマー説、カルルク・ヤグマー説、チギル説、突厥説がある。また、カルルク説を唱えているのはプリツァク氏である。
  3. ^ 小松久男『中央ユーラシア史』p164

参考資料