ゲオルク・ビューヒナー

ゲオルク・ビュヒナー

カール・ゲオルク・ビュヒナーKarl Georg Büchner1813年10月17日 - 1837年2月19日)はドイツ革命家小説家劇作家。著作が非常に少ないため日本ではあまり知られていないが、本国ドイツでは大変に尊敬を集めており、夭折しなければゲーテシラーに並ぶ文学史上の偉人になったはずだと広く考えられ、ゲオルク・ビューヒナー賞はドイツの最も重要な文学賞になっている。

生涯

ゴッデラウにある生家

ヘッセン州ゴッデラウに医師の息子として生まれる。6人兄弟の長男だった。幼いビュヒナーは母親から初等教育を受け、聖書や民話などに親しんだ。11歳からダルムシュタットギムナジウムに学ぶが、古典よりも外国語や自然科学に興味を持った。

1830年の七月革命の影響から政治に興味を持つ。この頃シェイクスピア愛好家のサークルに加わっていたが、これがのちに「人権協会」のギーセン・ダルムシュタット支部に発展したと考えられる。

1831年から2年間ストラスブール大学の医学部に在籍し、1833年からはギーセン大学に学ぶ。在学中はフランス文学と政治的な思索に没頭した。亡命後の1835年にはヴィクトル・ユゴーの『ルクレチア・ボルジア』と『マリア・テューダー』を翻訳している。政治的な思想については、フランソワ・ノエル・バブーフサン=シモンなどの著作に影響を受けた。また自然科学の研究も進めており、1837年には学位論文「ニゴイの神経系に関する覚え書き」がパリストラスブールで出版されている。

ギーセン大学在学中「人権協会」のギーセン支部、ダルムシュタット支部を設立。革命のための秘密結社である。この頃のドイツでは貴族階級を中心にした封建制民衆の暮らしを圧迫しており、民主化が急務となっていた。当時彼の周りの革命家は、自由主義的な貴族や新興の資本家らと組んで旧体制を倒すことを考えていたが、ビュヒナーはその中にあって民衆の蜂起による革命を構想していた。そのような考えに基づいて1834年に書かれた政治的パンフレットが『ヘッセン急使』であり、彼はこれを下層階級の人々にばら撒き自覚を促そうと試みた。結局この計画は失敗に終わったが、権力に圧迫された民衆の視点で社会を考えたビュヒナーの倫理性は注目すべきものがある。

ビュヒナーの手配書

『ヘッセン急使』を書いたことによってビュヒナーは反逆罪で起訴された。1835年、亡命資金を得るために『ダントンの死』を執筆。フランス革命を題材にとった戯曲であるが、文学者としてのビュヒナーは作品を政治的な宣伝として書くことはしなかった。この作品は革命の中で本来の人間性を失った人物を現代的な手法で描いており、とくに戦後、政治と文学の関わりが重要な問題となっているドイツではさまざまな作家、研究者によって読み返され、解釈し直されている。

ストラスブールに逃れたビュヒナーは続いて、シュトゥルム・ウント・ドランク期の作家ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツを主人公にした小説『レンツ』、貴族階級を取り扱った『レオンスとレーナ』、殺人事件で逮捕された実在の人物をモデルにした『ヴォイツェック』(未完)を書いた。特に『レンツ』『ヴォイツェック』は狂気に陥る人物を精神病理学の知識を生かしながら描いており、精神分析学の見地からも高い評価を受けている。なお『ヴォイツェック』はドイツ文学史上、労働者階級の人物を主人公にした最初の作品である。同作はアルバン・ベルクによって1925年にオペラ化された。

チューリヒにあるビュヒナーの墓

これらの作品は彼の死後しばらくの間忘れ去られていたが、1870年代にカール・エミール・フランツォースによって出版され、自然主義印象主義に大きな影響を与えた。アルノルト・ツヴァイクはビュヒナーの唯一の小説作品である『レンツ』について「近代ヨーロッパの散文はここから始まった」と述べている。

ビュヒナーは大学で教職に就いて間もない1837年、チフスによってチューリヒで没した。

著作

邦訳

『ゲオルク・ビューヒナー全集』(1970年 河出書房新社)
『新装版 ゲオルク・ビューヒナー全集』(2006年 河出書房新社)
※旧版からはゲオルク・ビューヒナー賞受賞講演が割愛されている。

関連

外部リンク