ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)

ジョン・ラッセル

初代ラッセル伯ジョン・ラッセルJohn Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, PC, 1792年8月18日 - 1878年5月28日)は、イギリス政治家1861年まではジョン・ラッセル卿(Lord John Russel)として知られた。哲学者のバートランド・ラッセルは孫にあたる。

概要

第6代ベッドフォード公ジョン・ラッセルと最初の妻ジョージアナ・ビングの3男として生まれた。イングランド有数の富豪であり、17世紀以来ホイッグ党の政治家を輩出してきたラッセル家出身であったが、3男の彼には一族の所領を継承する見込みはなかった。

パブリックスクールウェストミンスター・スクールエディンバラ大学(3年在籍したが単位が取れなかった)で学んだ[1] 。ラッセルはオックスフォード大学にもケンブリッジ大学にも在籍したことがなく、イギリス史においては珍しい経歴を有する首相の1人である。

1813年、ホイッグ党の議員として選出。改革派の政治家でグレイ内閣では第一次選挙法改正案を起草した一人。メルボルン内閣では内相・植民地相を歴任。1846年ロバート・ピールが首相を辞任、後任の首相に選ばれた。 第一次内閣(1846年 - 1852年)は、1840年代後半のジャガイモ飢饉と時を同じくした。アバディーン内閣では外相・下院指導者を歴任。クリミア戦争が勃発して、アバディーンが国民の支持を失うと政権の禅譲を狙い、アバディーンの足を引っ張って下院の指導役を辞任して政権崩壊の発端を作った。このことで党内の支持を失い、1855年パーマストン内相に首相の座を奪われた。

1859年からの第二次パーマストン政権では外相を務め、1861年にラッセル伯爵に叙爵、イタリアの統一運動を支持したが、パーマストンに反対され介入できなかった。生麦事件に端を発した日本の薩摩藩との武力衝突(薩英戦争)では、武力行使に積極的な役割を演じた。パーマストンが1865年に亡くなると首相に再登板したが、翌1866年に選挙法改正案に敗れ辞職。1878年に死去、息子のジョンに先立たれたため孫のフランシスが爵位を継いだ。


編集者

1853年から1856年にかけ、ラッセルは8巻以上になるトーマス・ムーアの回顧録を編集し出版した。[2] [3]

参照

  1. ^ John Prest, Lord John Russell (University of South Carolina Press, 1972), 11-13.
  2. ^ http://www.archive.org/details/memoirsjournalan01mooruoft
  3. ^ http://www.archive.org/details/memoirsjournalan08mooruoft

外部リンク

イングランドの爵位
先代:
新設
ラッセル伯
1861年 - 1878年
次代:
フランシス・ラッセル