タンジマート

タンジマート または タンズィマート (オスマン語: تنظيمات Tanzimât; 現代トルコ語 Tanzimat) とは、「タンジマーティ・ハイリエ(恩恵改革)」の略語である。1839年ギュルハネ勅令発布から1876年制定のオスマン帝国憲法(通称、ミドハト憲法)にいたるまでの、オスマン帝国がおこなった諸改革。19世紀中葉、ヨーロッパ列強の軍事的・政治的圧力、欧州金融資本バルカン半島進出、ギリシャエジプトなど帝国領の諸地域・諸民族の自立・離反という「内憂外患」のなかでおこなわれた一連の西欧化・近代化政策であり、1839年から1876年までを「タンジマートの時代」「タンジマート期」と称することがある[1]

タンジマート諸改革は、トルコが神権的なイスラーム国家から近代的法治国家へと転換する第一歩であったと同時に、財政的には、帝国の対外債務の累積に拍車をかける結果となり、1881年の「オスマン債務管理局」設立の端緒のひとつとなった[注釈 1]

概要

タンジマート改革を先取りしたスルタン、マフムト2世
マフムト2世の子で改革を始動させたスルタン、アブデュルメジト1世

1808年にオスマン帝国の皇帝スルタン)に即位したマフムト2世イェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務の3省を新設して政府機構の近代化を図り、翻訳局を設置して留学生をヨーロッパ諸国に派遣して人材を育成し、さらに帝国内の「アーヤーン」(「地方名士」「地方名望家」)と称される半独立の勢力を抑えるなどして中央支配の再確立を目指した[2][3]。しかし、シリアをめぐる、エジプトの太守ムハンマド・アリーとの対立は第二次エジプト・トルコ戦争へと発展し、1839年7月、エジプト軍がシリアの戦いでオスマン軍を打ち破ったという知らせが帝都イスタンブルに届く前、マフムト2世は死去した[4]

マフムトの子、アブデュルメジト1世が新スルタンとして即位した[4]。この国難のなか、エジプトとの関係を好転させるべくヨーロッパを奔走していたのが、外務大臣のムスタファ・レシト・パシャであった[4]。彼はエジプト問題におけるイギリスの外交的支援を得るために、前年(1838年)、同国との間にバリタ・リマヌ条約(オスマン=イギリス通商条約、英土通商条約)を結んだ[4]。この条約は、その後、イギリスがアジア諸国と結ぶことになる一連の通商条約の雛形となった[5]

1839年11月、新皇帝アブデュルメジト1世は、ムスタファ・レシト・パシャの起草によるギュルハネ勅令を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事文化に至るまで西欧的体制への転向を図った[6]。タンジマートの始まりである。以降、タンジマート諸改革のもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった[7]。改革政治は、途中、ヨーロッパにおける{{1848年革命]]の影響を受け、クリミア戦争1853年-1856年)の末期には改革勅令を発布、西欧化の方針は次代皇帝アブデュルアズィズにも受け継がれ、その集大成というべきオスマン帝国憲法(通称、ミドハト憲法)が制定される1876年までの37年におよんだ。

この間、法令の改革においては、ヨーロッパ諸国の法に依拠した立法作業が進められ、それぞれの法に関する法廷も設置された。しかし、一方でシャリーア(イスラーム法)にもとづく法廷も併存していたため、シャリーアとヨーロッパ起源の法が並行して適用され、こうした二元体制には社会的混乱がともなった[1]。また、「イルティザーム英語版」と称される、オスマン帝国の徴税請負制度は段階的に廃止された。1840年代初頭、帝国はイスタンブルのガラタ地区ラリ家英語版など80名に銀行業務を認可したが、1850年代半ばには統合が進んで18名となり、かれらは19世紀後半、さかんに列強の大銀行と提携するようになった[8]

ギュルハネ勅令と初期の改革

タンジマート改革を主導した官僚、ムスタファ・レシト・パシャ

イスタンブルにエジプト艦隊がせまるなか、新スルタンアブデュルメジト1世の即位の知らせを聞いた開明派官僚ムスタファ・レシト・パシャ(当時、外務大臣)は、急遽帰国し、西洋列強とくにイギリスとフランスのリベラルな世論の支持を獲得すべく、改革の基本方針をスルタンの「宸筆(ハットゥ・ヒュマユーン)」というかたちで起草した[6]。この内容を、1839年11月3日、アブデュルメジト1世が帝国内の文官・武官、ウラマー(イスラム法学者)、民間人代表、および外国からの使節の前で読み上げた[6]。これが、トプカプ宮殿内のギュルハネ(薔薇園)でおこなわれたことだったので、「ギュルハネ勅令」と呼ばれている[6]。ただし、この勅令の内容は先代マフムト2世の改革によってすでに一部実現しているものもあった[6]。「恩恵」の名に示されるように、スルタンの「御意志」が前面に出ているため、必ずしも立憲思想に由来するとはいえないが、ムスリム・非ムスリムにかかわらず、全ての帝国臣民には法の下の平等があたえられること、また、全臣民の生命名誉財産の保障などが繰り返し述べられているところにフランス人権宣言の影響をいくらか看取することができる[6]。また、裁判の公開、スルタン自身も法に違背しないことを宣言するなど、スルタンの権力のうえに「法の力」が存在することを認めている点などでも画期的な意味をもっていた[6]。ただし、「法」を指し示す語として「シャリーア」と「カーヌーン」(世俗法)とは注意深く使い分けるなど、シャリーアを専門とするウラマーや保守派知識人に対する気遣いを示している[6]。タンジマートの中心的な機関としてオスマン帝国最高司法審議会議が組織され、新規の「法」の立案・検討がここを中心になされることとなったが、ヨーロッパ近代法とシャリーアの均衡問題はつねに重要な緊張関係をはらんでいた[6]

1840年には、刑法の発布、人口調査、イルティザームの廃止と徴税官の任命、州議会の設置、地方官の俸給制実施、賄賂の禁止などの改革が実施された[9]。しかし、徴税請負制(イルティザーム)は名望家を中心とする多くの人びとの待望論や徴税官そのものの不足によってまもなく復活した[9]

改革派の中心人物であったムスタファ・レシト・パシャは1841年3月末にいったん外務大臣の職を解かれてフランス駐在大使に転ずるとタンジマート改革は停滞したが、1846年から1848年までは大宰相に任命され、1846年の公務員法、一般教育審議会議設置(翌年文部省に改組)、1847年には混合裁判所の設置、農業学校開設、1848年には師範学校の開設などの改革が急進展した[9]。かれは1848年に大宰相を罷免され、以後再任と罷免を繰り返しながら都合5回この職に就き、タンジマート改革を推し進めた[9]。その一方で人材登用にも意を注ぎ、メフメト・エミン・アリ・パシャメフメト・フアト・パシャアフメト・ジェヴデト・パシャミドハト・パシャらを取り立てている。改革派の力はまだ弱く、初期のタンジマート改革は人事異動にともなってジグザグな経路をたどったが、中央政府の影響力は「法の力」によってゆっくりと地方にも浸透し、改革路線は定着していった[9]

改革勅令

1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、1856年改革勅令を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した[10]。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた[3]。そして、カモンド家の支配するオスマン銀行が設立された。

ミドハト憲法

1868年、法律案の起草をおもな任務とする機関として、フランスのコンセイユ・デタConseil d'État、フランス国務院)を手本にダヌシュタイ英語版Danıştay)が設立された[1]

改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために農業モノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した[10][11]

こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとでオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた[12]。画期的な憲法で、国会の開設などをうたっていた。しかしアブデュルハミト2世は起草者ミドハト・パシャを追放し、露土戦争敗北後憲法を停止した。この憲法は、1875年フランス共和国憲法1831年ベルギー憲法に倣って制定された自由主義的な立憲君主制憲法であり、他のアジア諸国にさきがけて国会開設を定めるなど画期的な内容をもつものであったが、1877年露土戦争の敗北の影響や当時の国情に合わない部分もあって1878年に停止を余儀なくされた[1]。しかし、ミドハト憲法は1908年青年トルコ革命の後、劇的な復活を果たしており、その影響は後世におよんだのである[1]

脚注

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注釈

  1. ^ オスマン帝国をめぐる国際問題は当時「東方問題」とよばれた。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけとなり、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる状況であった。

出典

参考文献

  • 新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年6月。ISBN 9784791764907
  • 永田雄三 「第6章 オスマン帝国の改革」、永田雄三編 『西アジア史(II)イラン・トルコ』 山川出版社〈新版 世界各国史9〉、2002年8月。ISBN 978-4-634-41390-0 
  • R. Kasaba, The Ottoman Empire and the World Economy, State University of New York Press
  • Ahmed Oguz, Die Wirtschaftslenkung in der Türkei unter besonderer Berücksichtigung des Bankwesens, Berlin, 1914, S.100; A.H.Ilteber, Türkische Bankwirtschaft

関連項目

外部リンク