トキノミノル

トキノミノル
Tokino minoru.jpg
トキノミノル 1951年5月13日撮影
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1948年5月2日
死没 1951年6月20日(3歳没・旧4歳)
セフト
第二タイランツクヰーン
母の父 Soldennis
生国 日本の旗 日本北海道三石町
生産 本桐牧場
馬主 永田雅一
調教師 田中和一郎東京
厩務員 村田庄助
競走成績
生涯成績 10戦10勝
獲得賞金 425万7150円
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トキノミノル日本競走馬である。10戦10勝・うちレコード優勝7回という成績でクラシック二冠を制したが、東京優駿(日本ダービー)の競走17日後に破傷風で急死、「幻の馬」と称された。戦後中央競馬で10走以上した馬で、唯一全勝を記録している[1]主戦騎手岩下密政1984年JRA顕彰馬に選出。

生涯

1948年、北海道 三石町の本桐牧場に生まれる。父セフトは当時のリーディングサイアーであったが、母の第弐タイランツクヰーンはこれといった産駒を産んでおらず、馬体にそれほど見栄えもしなかった[2]ため、幼駒時代はそれほど高い評価は受けていなかった[3]。しかし東京から訪れた田中和一郎は後躯の発達振りに惚れ込み[3]大映社長・永田雅一に購入を勧め、その所有馬となった。当初名付けられた馬名は「パーフェクト」であった。

3歳時(1950年)

デビュー戦の圧勝と改名

デビューは1950年7月に函館で迎えたが、競走2日前の発馬練習で気性の悪い部分を見せ、また全姉ダーリングも発馬に難のある馬だったため、一旦は出馬登録を拒否された[4]。当時の有力馬主であった栗林友二の口利きで出走が認められるも、当日の競走前に再び暴れて騎手の岩下を振り落とすなどした[4]ため、評価は 1番人気から大きく離された2番人気(3頭立て)だった。

しかしレースが始まると素直なスタートを見せ、先頭に立つ。そのまま他馬を引き離すと、ゴールでは2着マッターホンに8馬身差をつけて優勝。勝ちタイム48秒1は芝800メートルの日本レコードタイム、上がり3ハロン35秒0は当時としては驚異的な走破タイムであった。この強さに、永田は「競馬に懸けた時が実るときが来た」と感じ、親交の深かった菊池寛が生前に使用していた「トキノ」という冠名を借用し、「トキノミノル」と改名させた[5]

3歳王者となる

以降、トキノミノルは連勝を続ける。2戦目のオープン戦を快勝した後、3戦目の札幌ステークスではここまで3戦3勝のトラツクオーに10馬身以上の大差を付け、レコードタイムで優勝。初めて関東に移動しての4、5戦目もレコードタイムで優勝し、関東の3歳王者決定戦・朝日杯3歳ステークスを迎える。ここで重馬場での競走を初経験するが全く問題とせず、2着イツセイに4馬身差を付けて優勝。6連勝で3歳王者となった。

4歳時(1951年)

無敗で二冠を達成

皐月賞優勝時

4歳初戦は中山競馬場の選抜ハンデキャップに出走。これまでの斤量から一気に7kgの増量となり、またこの時期から膝に不安を抱えるようになり影響も考慮されたが、前走に続いて2着イツセイに3馬身差を付け、レコードタイムで優勝する。次走のオープン戦も快勝し、クラシック初戦・皐月賞を迎える。単勝支持率73.3%[6]という圧倒的な1番人気に推されたトキノミノルは、これまでのレースレコードを一挙に6秒1[7]短縮する、芝2000メートル2分3秒0という日本レコードタイムで優勝する。着差は2馬身であったが、鞍上の岩下が後ろを振り向くほどの余裕があった[8]

しかし競走後に膝痛を起こして調教を控える。その回復後に調教を再開すると、今度は左前脚に裂蹄を発症した。一時は東京優駿への出走そのものを危ぶまれた[9]が、蹄鉄との間にフェルトを挟み込んで負担を軽減するという措置を取り[10]、出走に漕ぎ着けた。しかし状態は芳しくなく、馬主の永田は「今年のダービーは開催日が6月3日でこれを足すと9、トキノミノルの枠順が 9、脚の故障で苦、レースでも苦になりそうだ」と漏らしていた[9]

ダービー優勝時

この不調は一般にも伝えられていたにも関わらず、前走と同様に圧倒的な1番人気に推される。しかしレースが始まると、トキノミノルにいつものダッシュが見られず、デビュー以来はじめて先頭を他馬に譲ってのレースとなった。この展開に岩下は「これは駄目だ」と思った[11]が、向こう正面から行き脚をつけて前の2頭を交わしていくと、そのままゴールまで先頭で押し切り優勝。クリフジ以来史上2頭目の無敗でのクラシック二冠を達成した。優勝タイムはそのクリフジが記録したレースレコードを0.3秒短縮するものであった。

破傷風で死去

セントライト以来史上2頭目のクラシック三冠は確実と見られ、仮に菊花賞に優勝し三冠を達成した場合、その後にはアメリカ遠征も計画された[12]が、競走後にトキノミノルは体調を崩す。当初その原因は判明せず経過観察となったが、日々衰弱する様子に「破傷風ではないか」との見立てがされ、6月17日、東京競馬場所属獣医師・松葉重雄により正式に破傷風と診断が下された[12]。当時破傷風のワクチンは日本に存在しておらず、血清およびペニシリン投与が行われた。これにより20日朝には一時状態を持ち直したが、同日夜に容態が急変、午後10時34分に 敗血症により死去した[12]。東京優駿からわずか17日後のことであった。最期の様子を実際に見た橋本邦治は、「これがあのダービー馬かと目を覆いたくなるような姿だった」と回想している[13]

この死は当時の一般紙にも取り上げられ、読売新聞は社会面のトップで報じた[12]。こうした中で作家の吉屋信子毎日新聞に「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーに勝つために生まれてきた幻の馬だ」という追悼文を寄稿し、以降この「幻の馬」がトキノミノルの二つ名として定着した[14]

死後

永田はその死を悼み、1955年に映画『幻の馬』を制作、文部省選定映画となった。競馬界ではその功績を称えて東京競馬場には石像(現在は銅像)が建立され、毎年2月の明け満3歳による重賞競走「共同通信杯」は、その名を冠し「トキノミノル記念」の副称が付けられている。中央競馬史上、競走名に馬名が冠されたものはセントライトシンザンセイユウクモハタカブトヤマタマツバキのみである[15]。1984年には、中央競馬において記録的、文化的に顕著な貢献があった馬を後世に伝えるという趣旨の「顕彰馬制度」が発足し、同年行われた第1回選考で顕彰馬に選出された[16]

評価

当時を知る者の中では史上最強馬に挙げる者も多くおり、「桁違いの強さで競馬(勝負)にならなかった。とにかく強かった。素晴らしかったと思う[17]」(境勝太郎)、「なにしろ強かった。トキノミノルが一番強かった。あんな馬見たことない[18]」(浅見国一)、「先頭に行こうかなと思うのだが、いつも(トキノミノルが)前。調子が悪かったダービーでも第2コーナーからはアッサリ。能力が違ったのだ[13]」(保田隆芳)など、当時競走を共にした騎手からも「とにかく強い」という言葉を以て絶賛されている。これに加え浅見は「生きていれば五冠は楽に取れた[19]」とも述べている。また、顕彰馬テンポイントなど数々の名馬を生産した吉田牧場の吉田重雄も、自らが生産したテンポイントや、そのライバル・トウショウボーイを差し置き「あの馬(トキノミノル)が最強でしょう[20]」としている。

ファンと共に写真に収まる。轡を取るのは永田雅一

また競走能力以外にも、競馬評論家の大川慶次郎は「競馬の大衆化」という側面に触れている。大川は最後の競走となった東京優駿を取り上げ「第3コーナーでトキノミノルが上がっていったとき、観衆がワーッと湧いた。みんなトキノミノルを応援してるんだなと思った」といい、当時において「ファンが1頭の馬を応援する」という事の特異性を挙げている。またこの競走では、口取り写真(競走後の記念写真)の撮影中に観衆がコースの柵に殺到し、柵が破損して人々がコース上になだれこむという出来事もあり、大川はこれを指して「戦後の競馬は、ファンの競馬になったと感じた」と述べている[21]。なお、現代では入場人員が正面スタンドに収まりきらないほどの多数となった場合、内馬場(コースの内側)を一般ファンに開放しているが、この措置が取られたのもこの時が最初である[9]

日本中央競馬会が2000年に行った名馬選定企画「20世紀の名馬Dream Horses2000」では、ファン投票により第44位に選出、同会が広報誌『優駿』誌上で発表した識者による選定企画では、シンザンシンボリルドルフナリタブライアンに次ぐ第4位タイ(クリフジと同位)に選出されている。

競走成績

年月日 開催 競走名 着順 距離状態 タイム 着差 騎手 勝ち馬/(2着馬)
1950 7. 23 函館 三歳 1着 800m(良) R48.1 8馬身 岩下密政 (マツターホーン)
8. 23 札幌 オープン 1着 1000m(良) 1:02.0 2 1/2身 岩下密政 (フミワカ)
9. 3 札幌 札幌S 1着 1200m(良) R1:13.1 大差 岩下密政 トラツクオー
10. 1 中山 オープン 1着 1000m(良) R1:01.2 6馬身 岩下密政 (シヤダイブルース)
10. 15 中山 優勝 1着 1100m(良) R1:05.4 4馬身 岩下密政 (ハツピーウネビ)
12. 10 中山 朝日杯三歳S 1着 1100m(稍重) 1:06.3 4馬身 岩下密政 イツセイ
1951 4. 1 中山 選抜H 1着 1800m(良) R1:51.2 3馬身 岩下密政 (イツセイ)
4. 28 東京 オープン 1着 1800m(良) 1:52.4 2馬身 岩下密政 (イツセイ)
5. 13 中山 皐月賞 1着 2000m(良) R2:03.0 2馬身 岩下密政 (イツセイ)
6. 3 東京 東京優駿 1着 2400m(良) R2:31.1 1 1/2身 岩下密政 (イツセイ)

競走名の「S」はステークス、「H」はハンデキャップの略。太字は八大競走

血統表

トキノミノル血統ヘロド系/The Tetrarch3×4=18.75%) (血統表の出典)

*セフト
Theft
1932 鹿毛
父の父
Tetratema
1917 芦毛
The Tetrarch Roi Herode
Vahren
Scotch Gift Symington
Maund
父の母
Voleuse
1920 鹿毛
Volta Valence
Agnes Velasques
Sun Worship Sundridge
Doctorine

第弐タイランツクヰーン
1934 芦毛
Soldennis
1918 栗毛
Tredennis Kendal
St.Marguerite
Soligena Soliman
St.Guntheim
母の母
*タイランツクヰーン
Tylant's Queen
1928 芦毛
Phalaris Polymelus
Bromus
Silver Queen The Tetrarch
Princess Stering F-No.14-f

3×4のクロスとなっているThe Tetrarchは伝説的な挿話を多数残す稀代の快足馬であり、当時の日本では規格外のトキノミノルのスピードはこのインブリードによるところが大きいとされた[9]。この「3×4」というインブリードによって血統内に発生する18.75%という血量は「奇跡の血量」と呼ばれ、近親繁殖の弊害を避け、当該祖先の長所のみを伝える血量として当時イギリスで絶大な人気を誇った配合理論だった。トキノミノルを生産した笠木政彦はこれを狙ってセフトと第弐タイランツクヰーンの配合を行い[22]、成功したことにより「18.75%理論」は日本でも広く認知されるに至った[要出典]。(日本で広まったのはBlandfordの3×4を持つコダマが発端であるという説[23]もある)。血統研究家の笠雄二郎は、血統構成の面から「トキノミノルのスピードは完璧といっていい」、「無事ならセントライト以来の三冠はもちろん、セントライト以上の種牡馬となったであろう。急逝は馬産界にとって痛かった[24]」と述べている。

トキノミノル自身は子孫を残すことができなかったが、全姉のダーリングは重賞2勝を挙げたダーリングヒメの祖母であり、さらにその産駒からグリーングラスが出ている。

参考文献

  • 中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)
  • 日本中央競馬会『優駿』
  • 大川慶次郎『大川慶次郎 殿堂馬を語る』(ゼスト、1997年)
  • 笠雄二郎『日本サラブレッド配合史(普及版)』(競馬通信社、2000年)

脚注

  1. ^ 国営競馬時代にクリフジが11戦11勝している。
  2. ^ 大川慶次郎は「キュウリに割り箸を差したような馬」と評している。(大川 34頁)
  3. ^ a b 『日本の名馬・名勝負物語』110頁。
  4. ^ a b 『日本の名馬・名勝負物語』109頁。
  5. ^ 日本中央競馬会『優駿』2001年7月号 104頁。
  6. ^ 2008年現在まで破られていない、皐月賞史上1位の支持率である。
  7. ^ 現代の凡例的な走破タイム「1ハロン(200m)12秒」を基準として考えれば、それまでの優勝馬の100m以上前でゴールした計算となる。
  8. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』113 頁。
  9. ^ a b c d 『日本の名馬・名勝負物語』114頁。
  10. ^ 大川 37頁。
  11. ^ 『日本の名馬・名勝負物語』115頁。
  12. ^ a b c d 「日本の名馬・名勝負物語」116頁。 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "tokino4"が異なる内容で複数回定義されています
  13. ^ a b 『優駿』2004年10月号 13頁。
  14. ^ 日本中央競馬会による顕彰馬のキャッチコピーにおいても「幻の馬」が採用されている。
  15. ^ 2004年に行われた「JRAゴールデンジュビリーキャンペーン」の対象馬は除く。
  16. ^ 他に三冠馬セントライト、シンザンなど9頭が選出されている。
  17. ^ 『優駿』2000年4月号 39頁。
  18. ^ 『優駿』2000年5月号 36頁。
  19. ^ 文藝春秋『Sports Graphic Number PLUS』1999年10月号 20頁。
  20. ^ 『優駿』2000年9月号 53頁。
  21. ^ 大川 38-39頁。
  22. ^ 笠 87頁。
  23. ^ 吉沢譲治『競馬の血統学 - サラブレッドの進化と限界』(NHK出版、1997年)48頁。
  24. ^ 笠 87-89頁。
先代:
アヅマホマレ
朝日杯3歳ステークス優勝馬
1951年
次代:
タカハタ
先代:
クモノハナ
皐月賞優勝馬
1951年
次代:
クリノハナ
先代:
クモノハナ
日本ダービー優勝馬
1951年
次代:
クリノハナ