メフメト2世

メフメト2世
محمد الثانى
Gentile Bellini 003.jpg
ジェンティーレ・ベリーニによる肖像画(1480年)
後世に加筆された可能性が高い[1]
ロンドンナショナルギャラリー
在位 1444年1446年
1451年 - 1481年

出生 1432年3月30日
死去 1481年5月3日
配偶者 シット・ハトゥン
子女 バヤズィト
ムスタファ
ジェム
王家 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 ムラト2世
母親 ヒュマ・ハトゥン
サイン Tughra of Mehmed II.JPG
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メフメト2世トルコ語: II. Mehmet、1432年3月30日 - 1481年5月3日)は、オスマン帝国の第7代皇帝(在位: 1444年 - 1446年1451年 - 1481年)。コンスタンティノープル(現:イスタンブル)を陥落させ東ローマ帝国を滅ぼし、オスマン帝国の版図を大幅に広げ、「征服帝(ファーティフ Fatih)」と呼ばれた。

30年にわたる2度目の治世において、メフメトはコンスタンティノープルやバルカン半島の諸王国、アナトリアトルコ人の諸勢力を征服し、オスマン朝の勢力を急速に拡大させた。これによりオスマン朝は帝国と呼びうる内実を獲得することになる。

生涯

即位

最初の即位

少年時代のメフメト2世の落書き。ギリシャ彫刻に対する関心が表れている[2]

1432年3月30日に第6代ムラト2世の子として生まれた。幼少時にスーフィー願望のある父が一時的に隠棲した時、1444年 から[[1446年]まで短い間だが皇帝に即位した経験がある。12歳のメフメトに、父は大宰相チャンダルル・カラ・ハリル・パシャen:Çandarlı Halil Pasha)を残したが[3]、これを好機と見たキリスト教勢力は和平を破ってブルガリアに侵攻した[4]。大宰相ハリルはムラト2世の復位を請い、キリスト教勢力を打ち破ったが、メフメト2世は退位させられ、マニサの知事として首都エディルネを去っている。以前から「ララ(じい)」と呼びつつも、気のおける老臣であったハリルとメフメトの仲はこれを機に更に冷めるようになり、メフメト側近の宮廷奴隷たちもこれを煽った[5]。これに始まるハリル・パシャと皇帝側近との対立の構図は、在位中も続くことになる。

マニサ赴任後は軍事と学芸によって研鑽に励んだ。友好国であるヴェネツィア共和国の艦船を襲い、ヴェネツィアの所有するネグロポンテを略奪し、ムラト2世を憂慮させながらもヴェネツィアの拡大を牽制した。また、西ヨーロッパとイスラーム諸国から知識人を招いて知見を広め、アナトリアの諸ベイリクの指導者達とも交友関係を築いた。

ムラトの死

1451年に父ムラト2世が死ぬと、弟のアフメトを殺し、内紛の芽を事前に摘んだ上で即位した。この皇位継承の隙を突いてアナトリア内陸部のカラマン侯国en:Karamanoğlu)は和平を破りオスマン領へと侵攻したが、逆にこれを打ち破って同じく対オスマンへの不穏な動きをみせていた東ローマ帝国への遠征準備を開始した。


コンスタンティノープル攻略

コンスタンティノープルに入城するメフメト2世 (ジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン,1876)

1452年、カラマン遠征の帰路で立ち寄ったボスポラス海峡ルメリ・ヒサルを建設した。これにより、かつてバヤズィト1世が対岸に建設したアナドル・ヒサール英語版と共に海峡を封鎖し、黒海沿岸のヴェネツィア植民地からの援軍を迎撃する態勢を整える[6]。オスマン帝国によるコンスタンティノープルの包囲はバヤズィト1世(1390年 - 1402年)ムラト2世(1422年)に続く3度目であったが、メフメトは過去の教訓を生かし、包囲戦を避けて短期決戦を選んだ。1453年、チャンダルル・カラ・ハリル・パシャらの反対を押し切って出兵し、コンスタンティノープルを攻略、東ローマ帝国を滅ぼした。


バルカン征服

ベオグラード包囲の失敗

しかし、バルカン方面での征服事業で出端を挫かれた。1456年ベオグラード包囲では、手痛い一敗を喫した。老将カラジャ・パシャを除いて、メフメトも含めた軍の指揮官のほとんどが勝利を楽観視していたが、フニャディ・ヤーノシュドミニコ会の修道士ヨアンネス・ド・カピストラヌスが率いた寄せ集めの兵隊の前に敗北する。カラジャ・パシャを初めとする将校と物資を失い、エディルネに帰還した。

ベオグラードでの一戦はヨーロッパ諸国を歓喜させ、モレアスソマスディミトリオス兄弟はオスマン朝への貢納を取りやめた。メフメトは貢納の再開を繰り返し要求するが兄弟は聞き入れず、1458年の春にメフメトは自ら先頭に立ってペロポネソス半島に残る東ローマの王家の討伐に乗り出した。その年の夏、半島の3分の1を制圧して貢納を誓わせ、モレアスの住民をオスマン朝の支配に馴染ませるための下準備として、各地の領主にも臣従を誓わせる。


セルビア、モレアスの制圧

そして同じ年、セルビア公ラザル・ブランコヴィチが男子を残さないまま病に倒れると、セルビアは国の将来を巡って、親オスマン派と親ハンガリー派の2つの党派に分裂した。カトリック国のハンガリーから解放されることを願う親オスマン派は積極的にオスマン朝に協力し[7]、メフメトはその要請に応えてモレアス遠征の前に宰相マフムト・パシャをスメデレヴォに派遣する。マフムトは抵抗する都市以外を占領し、モレアスの征服から戻ったメフメトがセルビアに到着すると本格的な征服が始まった。1459年の春にスメデレヴォに向かい、オスマン朝に対して好意的であった[8]スメデレヴォの人間から鍵を受け取ったときにセルビアの征服は完了した。

ベオグラードの敗戦から転じて、スメデレヴォ陥落の報告はヨーロッパ諸国を恐れさせた。教皇庁はメフメトの伸張を止める一手としてモレアスのディミトリオスの蜂起を支援するが、兄のソマスはオスマン朝への攻撃に消極的であり、考えを異にする兄弟は互いに争った。1460年5月にメフメトは再びペロポネソスに進軍、ディミトリオスを降伏させ、ソマスをイタリアへ追った。2人の専制公を降した後、大宰相ザガノス・パシャら将校にモレアスの残存勢力討伐を行わせる傍ら、メフメトは征服地を見て回った。1461年7月のサルモニコン(Salmeniko)の陥落によって、ペロポネソス半島はヴェネツィアの領土を除いた全てがオスマン朝の支配下に入る。

トレビゾンドの併合とワラキアの抵抗

サルモニコン陥落の数か月前、メフメトはアンカラに移り、トレビゾンド帝国への攻撃に取り掛かる。進軍中にジャンダル侯国を無血で併合、メフメトはジャンダル侯国の君主イスマイルに対して親愛の意を表した[9]トレビゾンド帝国白羊朝と同盟関係にあったため、トレビゾンド皇帝ダヴィドの女婿ウズン・ハサンの動きを牽制した上で首都トレビゾンドを包囲した。数度の小競り合いの後に敗北を悟ったダヴィドは降伏するが、ウズン・ハサンとの内通の嫌疑をかけられ、息子と共に処刑された。

メフメトがバルカン半島を留守にしている間、ハンガリーと同盟したワラキア公ヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)が自国の領土を攻撃すると、ヴラドの弟ラドゥを新たな公に擁立し、ヴラドの討伐に向かった。当初、ゲリラ戦術と焦土作戦で抵抗するワラキア側に決定打を与えることはできず、1462年の夜襲(en:The Night Attack)において大損害を受けた。ここで対立王のラドゥの党派とハンガリー王マーチャーシュ1世による、ワラキア内部からの攻撃がメフメトを助ける。ラドゥを支持する貴族によってヴラドが追放され、逃亡先のハンガリーでマーチャーシュ1世に幽閉されたことで、ワラキアを再度臣従させた。ワラキアを安定させた後、ジェノヴァが領有するレスボス島を併合してボスポラス海峡の制海権を確保、ボスニアに進軍した。

オスマン朝は進軍前からボスニア内に多数の要塞を築いており、領内の農民を慰撫することで支配のための地固めを行っていた。ボスニア王ステファンは書簡でローマ教皇に窮状を訴えていたが、オスマンの攻撃にあたってヴェネツィア、ハンガリー、教皇庁からの援軍は来なかった[10]。以前からボスニアで続いていた内訌、ボスニア国内で弾圧されていたボゴミール教徒がオスマンの支配を歓迎したため[11]、征服は容易であった。1463年に降伏したステファンを処刑[12]、王国の首都ヤイツェは翌1464年マーチャーシュ1世に奪われたものの、ボスニアの大部分の占領に成功する。

アナトリアでの戦い

休戦、スカンデルベグの死

1463年にヴェネツィアはモレアスに攻撃を仕掛け、ヴェネツィアの侵入はモレアスの都市と村での蜂起を引き起こした。モレアスを守るザガノス・パシャが敗れてモレアスを失うが、翌1464年にモレアスを回復した。度重なる遠征と飽食によって病に体を蝕まれていた[13]メフメトはハンガリー、ヴェネツィアと休戦し、休息を取るとともに領土の開発と学芸の保護に勤しんだ。だが、ヴェネツィアとの戦争中、アナトリアの強国白羊朝はヴェネツィアと教皇庁に使節を送り、来るべきオスマン朝との戦いの準備を進めていた。

1466年春、メフメトは体調が回復していないにもかかわらず、アルバニア遠征の陣頭に立った。ヨーロッパ征服の要所に位置するにも関わらず、スカンデルベグの抵抗によって計画が遅々として進まなかったためである。メフメトは焦土作戦によってアルバニアを荒廃させるが、コンスタンティノープルでペストが流行したために撤退することとなり、後詰として残したバラバン・ベイはスカンデルベグとの戦いで敗死した。1468年にスカンデルベグが没すると、メフメトは征服を阻む仇敵の死に歓喜したという[14]

カラマンの滅亡と白羊朝の撃破

メフメト2世の刀剣(トプカプ宮殿所蔵)

コンスタンティノープルに帰還した後、アルバニアの攻撃を部下に任せてメフメトはアナトリアに目を転じる。マムルーク朝の支援を受けたカラマン侯国の君主ピール・アフマドが、領土の返還を要求していた。ピール・アフマドはメフメトの召喚に応じず、この行為に対して1468年に首都コンヤを占領、長年のオスマン朝の宿敵であったカラマンの大部分を併合した。

1471年にカラマンの残りの領土を併合するべく進軍すると、ピール・アフマドはウズン・ハサンに助けを求めた。他のベイリクの君主、トレビゾンド帝国の王族の生き残りもオスマン朝への攻撃に参加し、トレビゾンド、トカットが陥落する危機を迎えた。この危機を脱するべく、コンヤ占領の直前に罷免した宰相マフムト・パシャを呼び戻し、白羊朝には皇子とアナトリアの総督を差し向ける。オスマン軍と白羊朝軍はベイシェヒル湖en:Lake Beyşehir)の近くで激突、オスマン軍は勝利を収める。メフメトは1度の勝利に驕ることなく、次の会戦に備えをした。冬の間火器、軍需品、食料を集め、バルカン半島の村々から徴収した兵士と傭兵で戦力を増強する。さらに、白羊朝がキリスト教国と同盟していることをマムルーク朝に伝え、東方からの新たな脅威を危ぶむマムルーク朝と同盟を締結した。

1473年にメフメトとウズン・ハサンの直接対決が始まる。緒戦はオスマン軍が敗北、将軍ハス・ムラト・パシャが戦死し、メフメトは士気の立て直しに取り掛からなければならなかった。1473年8月11日バシュケント近くの戦い(en:Battle of Otlukbeli)でオスマン軍は勝利、この戦いの後ウズン・ハサンの権威は失墜し、キリスト教国の希望を断ち切った。1474年にピール・アフマドが亡命先の東アナトリアで客死、抵抗を続ける君主の死によってカラマンの完全な併合を遂げる。

黒海の確保

1468年以降、クリミア半島に割拠するモンゴル帝国の後裔国家の1つクリミア・ハン国では、王位を巡る争いが起きており、ハン国の王侯貴族に加えてジェノヴァも一枚噛んでいた。1475年にハン国の有力部族シリン族の要請を受けて、メフメトはゲディク・アフメト・パシャを司令官とする艦隊を派遣した。カッファを占領したゲディク・アフメトはジェノヴァに捕らえられていたメングリ・ギレイ・ハンを解放、メングリは第2次即位に際してオスマン朝に臣従を誓う書簡を送った。以前はクリミア・ハン国のハンはオスマン朝に対等の関係を主張していた[15]が、この従属によって黒海をオスマンの海とし、北方にある他のモンゴル帝国の後裔国家(カザン・ハン国アストラハン・ハン国など)とモスクワ大公国に対して国の権威を示した。

クリミア・ハン国の制圧後は黒海に面するモルダヴィア公国の征服に乗り出す。モルダヴィアはシュテファン大公の指導下でヴェネツィア、ハンガリー、白羊朝と連合しており、去る1474年にヴェネツィアの仲介によって教皇庁から対オスマン戦争の支持を引き出していた。同年にメフメトはキリア(ブジャクに属する)、アルバの要塞返還をシュテファンに要求するが拒絶され、翌1475年にルメリアの司令官ソリマン・ハダムをモルダヴィアに派遣した。1475年1月10日にヴァルスィ近郊のポドル・ウナルトでオスマン軍はモルダヴィアに大敗、ムラト2世の妃はその敗戦を振り返って「これまでにオスマン軍がこのような敗戦を経験したことは一度もなかった」と語った[16]。教皇シクストゥス4世ポーランドの外交官ヤン・ドゥウゴシュはモルダヴィアの戦勝を称賛したが、この敗戦はオスマンの戦略を覆すものではなく[17]、当のシュテファンもモルダヴィアから脅威が去ったとは考えていなかった。

1476年5月にメフメトはモルダヴィア親征を開始、クリミア・ハン国の軍隊も別働隊として動員する、今までの遠征の中で最大規模のものだった[17]。シュテファンは村落を焼き払って抵抗、1476年7月26日にアルバ渓谷でオスマン軍はシュテファン率いるモルダヴィア軍に勝利する。しかし、籠城するモルダヴィア兵の抵抗は激しく、軍内に疫病と飢饉が発生したこともあって退却を余儀なくされた[17]

1478年にアルバニアの大部分を併合、翌1479年にオスマン朝にとって非常に有利な条件[18]でヴェネツィアと講和を結んだ。

晩年

メフメトはマムルーク朝攻撃に際して憂いを絶つべく[19]1479年末からロードス島攻略の準備を始めた。ロードス島を本拠地とする聖ヨハネ騎士団は、メフメトの即位のときから従属を拒んでいたためである。健康状態が優れなかったため指揮をメシフ・パシャに任せるが、1480年7月27日にメシフ・パシャの失策と騎士たちの抵抗によって攻略に失敗した。

ロードス島攻撃と同年の1480年、ゲディク・アフメト率いる艦隊を南イタリアの町オトラントに派兵し、イタリア半島南端の一部を占領(オトラントの戦い)、住民を虐殺し、奴隷とした。自らも軍を率いてイタリアに向かった。しかし、1481年5月3日にメフメトが遠征中に宿場で急死したことにより計画は頓挫した。その死については病死[20]、あるいはイタリア出身のユダヤ人侍医ヤクブ・パシャがメフメトに毒を含ませたという毒殺説が存在する[21]。一方 メフメト死去の報告を受け取ったローマでは、教皇シクストゥス4世によるミサが執り行われた。民衆と聖職者はイタリアに征服の手を伸ばさんとするオスマン皇帝の急死に歓喜し、市内には楽器と祝砲が鳴り響いた[22]

国内統治

トルコ人画家ブルサル・スィナンによる肖像画
(1475年頃、トプカプ宮殿所蔵)

コンスタンティノープルの再興

内政では、首都をそれまでのエディルネから新たに征服されたコンスタンティノープルに移し、新都にトルコ人ムスリム(イスラム教徒)を盛んに呼び集めるとともに東ローマ時代から残留した正教徒や西洋から来たカトリック信徒、アルメニア正教徒ユダヤ教徒を住まわせたり、征服地の住民を移住させて人口の増加を図った[23]モスクや商業施設などのインフラ整備も実施し、イスタンブルと呼ばれることになるこの町の復興に力を注いだ。後の時代のオスマン帝国の中枢となるトプカプ宮殿や、人材を育成するマドラサ、病院を建設した。これらの施設に必要な物資を賄うため、後にイスタンブルの観光名所となるグランドバザールの基礎が築かれたのもメフメトの治世である。しかし、こうしたコンスタンティノープルの開発が、遠征事業と共に帝国の負担になっていたと指摘する声もある[24]。メフメトは治世の中で3度、1462年、1477年、1479年に、貨幣の改鋳による通貨価値の切り下げを断行した。この政策には国内だけでなく外国の商人からの反発も強く[25]、次代のバヤジット2世の即位に際して貨幣の改鋳は一度のみと取り決められた(しかし、この取り決めは結局守られなかった[25])。

中央集権化への道

ある日、アナトリアの遊牧民の族長がメフメトのもとを訪れたとき、一見して他の家臣と区別がつかず、「我らのスルタンはどなたかな」と聞いた[26]。そこで、今までの質素な遊牧民の気風を改め、東ローマ風の重厚で威厳のある皇帝像への変化を図った。これまでと違って御前会議を直接取り仕切らず、自らは後ろの部屋で会議を見守ることにした。晩年には大臣たちとともに食事をとる習慣を改め、一人で食事をとるようになった。

慣習法や法令を集成してカーヌーン・ナーメと呼ばれる法典集を改正したり、カプクルと呼ばれる子飼いの軍人官僚を宰相や州知事などの高官として用いるなど、オスマン帝国の中央集権的な統治機構を整備した。彼らカプクルを知識と忠誠心の長けた人物に教育するべく、従来から存在したカプクルの士官学校の制度に手を入れた。中央集権化の一環として、トルコ系の貴族や神秘主義教団が所有する私領地を没収、税制の細分化と整備を行った。

人物

文化の理解者

総主教ゲンナディオス(右)とメフメト2世(左)を描いた絵画(18世紀作成)

メフメト自身はペルシア語で詩作しアラビア語を解する敬虔で教養あるムスリムであったが、同時に伝統的なイスラム文化の枠組に留まらない関心を持っていた。

古代ギリシャ古代ローマの文化に強い関心を持ち、ギリシャとローマの古典の蒐集に熱心であり、ペロポネソス半島の敵国を占領した際には、その地に残る遺跡を歴訪している[27]。宮廷にイスラム世界の学者と詩人だけでなく、イタリアの人文主義者や芸術家も集め、自身の有名な肖像画をヴェネツィア出身の画家ジェンティーレ・ベリーニに描かせるなど、古典的なイスラム国家のイメージに収まらないコスモポリタンな帝国の皇帝として君臨した。彼が集めた芸術家の中でもベリーニは宮中伯(コムス・パラティヌス)の地位を与えられる厚遇を受け、オスマン朝とヴェネツィアの修好に貢献した人物としてヴェネツィア本国から称賛と労いの年金を受けた[28]。ブルサ、カスタモヌなどの地方都市の統治官の周りにもイスラム詩人のサロンができ、メフメトの学芸の愛好はコンスタンティノープル以外の地方にも影響を与えた[29]

しかし、メフメトがペルシャ人、イタリア人、ユダヤ人を重用し、かつてコンスタンティノープルから脱出したギリシャ人市民を呼び戻すために手厚い保護を与えたことはトルコ人に不満を抱かせた。中には、ペルシャ人、イタリア人、ユダヤ人でなければ出世ができないと皮肉る者もいた[30]

東ローマの後継者

オトラント派兵や、自らをローマ帝国カエサルと称し、東ローマ皇帝に倣って正教会の首長としてコンスタンティノープル総主教を指名したことなどから推測して、メフメト2世は自らを東ローマ帝国(ルーム・カイセリ=ローマ皇帝)の後継者として振舞っていたとも言われる。ゲンナディオスコンスタンティノープル総主教に着座する際には、権杖十字架、ローブをメフメトが与えている[31]

家族関係

母親のヒュマ・ハトゥン(? - 1450年)は奴隷身分の出身である。出身地については、メフメト2世はフランス、イタリアの出身だと周囲に言わせていた。1450年にメフメトはドゥルカドゥル侯国の君主スライマンの娘シット・ハトゥンと結婚する。結婚式は3か月に及ぶ盛大なものであったが、即位後はシット・ハトゥンをエディルネに留め置き、彼女に会おうとはしなかった[32]

バヤジット1世以来の慣習に則って弟のアフメットを殺した際、メフメトが「秩序が乱れるより殺人のほうが好ましい」という意見書をイスラム法学者に作成させたとも言われるが、真偽は定かではない[33]。後にメフメトに発布されたカーヌーン・ナーメで「兄弟殺しの法」が成文化され、16世紀末まで法は適用された。

性格と趣味

ヴェネツィアの歴史家ラングスキは、自分の考えを周囲に悟らせない、知識欲の強い、我慢強い節約家であり、尊敬よりも畏怖の念を抱かせる人物と評した。別のヴェネツィア人歴史家サグンティーノは、同じく節約家だと評し、冗談を好まない行動力に長けた人と記述した[34]

オスマン帝国の歴代皇帝は、皇帝の地位から失脚した場合にも生計を立てられるよう、手に職をつける風習があったが、彼の専門は「庭師」であったといわれている。庭園の手入れを趣味の1つとしており、遠征先では庭園に植えるバラユリチューリップなどの植物を採取し、それを持ち帰った[35]


年表

脚注

  1. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』p.63-64
  2. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』p.59
  3. ^ 鈴木『オスマン帝国』p.58
  4. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』p.64
  5. ^ 鈴木『オスマン帝国』p.59
  6. ^ 林『オスマン帝国500年の平和』p.86
  7. ^ A.クロー『メフメト2世』p.134
  8. ^ A.クロー『メフメト2世』p.135
  9. ^ A.クロー『メフメト2世』p.144
  10. ^ U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界帝国建設の野望と秘密』(戸叶勝也訳, アリアドネ企画, 1998年6月)p.113
  11. ^ 戦後、ボゴミール教徒の多くはイスラームに改宗した。S.クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』p.74-75
  12. ^ S.クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』p.75
  13. ^ A.クロー『メフメト2世』p.168-169
  14. ^ A.クロー『メフメト2世』p.225-226
  15. ^ 川口琢司「キプチャク草原とロシア」(『岩波講座 世界歴史11―中央ユーラシアの統合』収録)p.295
  16. ^ A.オツェテァ編『ルーマニア史』、209頁
  17. ^ a b c A.オツェテァ編『ルーマニア史』、210頁
  18. ^ A.クロー『メフメト2世』p.263-264
  19. ^ A.クロー『メフメト2世』p.321
  20. ^ A.クロー『メフメト2世』p.325
  21. ^ 鈴木『オスマン帝国』p.115、A.クロー『メフメト2世』p.325-326,354-355。クローはヤクブが宮廷内において最上級の待遇を受けていたことを理由として暗殺説を否定している。
  22. ^ E.ハラム『十字軍大全』p.563-566
  23. ^ A.クロー『メフメト2世』p.142、146、154
  24. ^ 小山皓一郎「メフメト2世」『新イスラム事典』(平凡社, 2002年3月)
  25. ^ a b A.クロー『メフメト2世』p.248
  26. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』p.63
  27. ^ E.ハラム『十字軍大全』p.544
  28. ^ A.クロー『メフメト2世』p.273
  29. ^ A.クロー『メフメト2世』p.181
  30. ^ 永田、羽田『成熟のイスラーム社会』p.64
  31. ^ "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p208 - p209, ISBN 9780631232032
  32. ^ A.クロー『メフメト2世』p.24
  33. ^ 鈴木『オスマン帝国』p.60、A.クロー『メフメト2世』p.27
  34. ^ A.クロー『メフメト2世』p.28-29
  35. ^ E.ハラム『十字軍大全』p.547

参考文献

  • 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10, 講談社, 2008年10月)
  • 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)
  • アンドレイ・オツェテァ編『ルーマニア史』(鈴木四郎、鈴木学共訳, 恒文社, 1977年5月)
  • スティーヴン・クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』(田中一生、柴宜弘、高田敏明訳, 恒文社, 1980年11月)
  • 川口琢司「キプチャク草原とロシア」(『岩波講座 世界歴史11―中央ユーラシアの統合』収録, 岩波書店, 1997年11月)
  • 永田雄三羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15, 中央公論社, 1998年1月)
  • アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)
  • 林佳世子「オスマン帝国の時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)
  • エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』( 川成洋、太田美智子、太田 直也訳, 東洋書林, 2006年11月)

関連項目