ロシアの農奴制

聖ユーリーの日に領主のもとを離れる農民」セルゲイ・イワノフ画(1908年)

本項「ロシアの農奴制」(ロシア の のうどせい、ロシア語: Крепостное право в России)では、モスクワ大公国の時代から帝政ロシアにかけてつづいたロシア農奴制の特徴と展開について説明する。

モスクワ大公国時代

中世ロシア社会では、収穫を終えた「聖ユーリーの日」の前後に農民の移動の自由が認められていた[1]。ただし、みずからの領主に対して負債のある場合には移動の権利を行使できなかったため、実際には、多数の農民が土地に拘束されていた。15世紀に入ると、富裕な領主が負債を肩代わりする代償として農民を自己の領地へ引きぬく行為が増加しており、これにより中小領主の農地経営はむしろ圧迫された。15世紀末、リューリク朝モスクワ大公で「全ルーシの君主」を称したイヴァン3世が農民の移動を制限する「1497年法典(スヂェブニク)」を定めた。これにより、農民の移動は「聖ユーリーの日」の前後それぞれ1週間(計2週間)に制限された[2][注釈 1]

ロシア・ツァーリ国の時代

「ステンカ・ラージン」ワシーリー・スリコフ画(1906年、ロシア美術館
カスピ海をわたるスチェパン・ラージン

イヴァン3世の孫で初めて「ツァーリ」の称号を公式に採用してロシア・ツァーリ国を建てたイヴァン4世(「イヴァン雷帝」)もまた1550年に同様の法典を定めた[3]。これは、1497年法典に改正を加えたもので、中小領主である士族層の経済的安定を図る一方で修道院や貴族層の土地所有制限条項をふくみ、代官への監督強化を盛り込んだ、全体としては中央集権化の方向性を示した法令であったが、農民の移動における「聖ユーリーの日」にかかわる規定については、前代をほぼ踏襲した[3]。イヴァン4世統治下のロシアは、コサック(カザーク)の頭領イェルマークの遠征などにより、その版図をシベリアに広げたが、このような外的な発展は内的にはむしろ農奴制への傾斜をもたらした[4]。中央部や北西部の農民の多くが、のしかかる負担の重さから領主のもとを離れ、南方や東方の辺境へと向かった[4]。そのため、イヴァン治世晩年の頃には、「聖ユーリーの日」の規定は廃止され、1581年1582年は一切の農民の移動を禁ずる「禁止年」に定められた[4]。領主に対しては、逃亡農民捜索権および逃亡先への身柄引き渡し請求権が認められた。

ロマノフ朝第2代のアレクセイのとき、1649年の全国会議で制定された「会議法典(1649年法典)」によって、農奴制の立法化がおこなわれた。この法典は全体で25章967項よりなるものであったが、そのうち最も著名なものは農民裁判に関する規定(第11章)であった[5]。ここでは、逃亡農民の捜索期限が撤廃されて無制限となり、これよりのち逃亡農民をかくまう者に対しては高額な罰金が定められて農民の土地緊縛が完成した[5]16世紀末葉から17世紀中葉にかけては、ロシア史上、本格的な農奴制の成立をみた時期である[2][5]

しかし、こうした土地緊縛に対し農民たちはしばしば激しく抵抗し、肥沃ではあるが人口の少ない南部などに逃亡をはかる者が少なくなかった。その一方、南ロシアを本拠とするドン・カザークは慣習法を盾にして逃亡者の引き渡しに応じないことも多く、このことは、カザークの軍事力に依存する部分の大きかったロマノフ朝をおおいに悩ませた[6]

アレクセイ帝治下の1670年から1671年にかけては、ドン・カザークのスチェパン・ラージンを中心に大規模な反乱が起こっている(ステンカ・ラージンの農民反乱)。この反乱とその首謀者についてはロシア民謡「ステンカ・ラージン」で広く知られるところである[1]。反乱の原因のひとつに、農業に見切りをつけた逃亡民がドン・カザークの地に大量に流入したことが挙げられる[5]。ただし、この頃までは地主と農民の関係はまだ契約にもとづく要素があり、農民の地位は後年ほど苛酷なものではなかった[1]

帝政ロシアの時代

インペラトール(皇帝)」をみずから名乗ってロシア帝国を創始したピョートル1世は、西欧化を推進する財源を確保する必要から農奴制をむしろ強化した。1705年には、勅令が出され、初めての徴兵がなされた[7]1719年には、全国の農村を対象に住民調査がおこなわれたが、ここでの人口調査の目的は、課税単位を「世帯」から「個人」へと変えることであった[7]。こうして、農民は、人頭税の財源として、いわば世襲的に土地に緊縛されるようになった[1][7]

人頭税は、平時における軍事費として位置づけられていた。そして、農民にとって特に負担だったのは、軍隊の農村配備であった[7]。農村部に設けられた兵営の部隊は、管轄下の農村に出向いて人頭税を徴収した。また、人頭税の導入は従来は課税対象とされなかった家内奴隷(ホロープ)をも農民と同様に調査・課税するものだったので、一般農民のいっそうの地位低下と困窮をまねいた[7]、農村の多くは、慢性的な不作や兵営宿舎建設などで疲弊しており、人頭税の滞納は各地で累積し、農民逃亡があいついだ[7]

帝政ロシアにおける農民には、国有地農民、修道院農民、貴族領農民などがあったが、いずれも農奴制の下におかれていた[8]。農民は移動の自由のみならず結婚の自由ももたず、領主裁判権に服さなければならなかった[8]。農民たちが町に出かけたり、他の地方に出稼ぎに行く場合には、必ず領主、またはその代理人に申し出る義務があり、その許可が必要とされた。許可が得られた場合でも国内旅券をつねに携行しなければならなかった[8]。農奴は、に出す際にも領主の承認が必要であり、承認が得られない場合もあった[8]。領主裁判権は殺人などの重罪をのぞき、領主または領地管理人が審判し、判決を下す制度であり、農民たちは些細なことで鞭打ち刑や罰金刑に服さなければならなかった[8]

「農奴の復讐」Charles Michel Geoffroy画(1845年)

このようにロシア農奴制は、人格的支配がともなう社会制度としてつづいてきたであり、その点で最も苛酷な状況にあったのが貴族領農民であった[8]。しかし、国有地農民といえども、皇帝の一存で国有地が貴族に下賜されることは珍しいことではなかった[8]。農奴制下のロシア農民はおしなべて人格的な無権利状態にあり、ときに領主の過度の要求や苛政、虐待に対し、彼らの殺害におよんだケースもあった。農民側の抗議の方法は多様で、嘆願や一揆というかたちをとることも多かったが、ロシアにおいては特に、その広大な国土を反映し、貧困、凶作、徴兵拒否などを理由に故郷の村から逃亡するケースの多かったことが特徴である。極端なケースでは、村全体が領主のもとを去ることさえあったが、こうした場合には領主側もなすすべがなかった[8][9]。ただ、一面ではロシア農民の生活をより大きく規定したのは長く寒い、短い、そしてや秋に頻繁に訪れる冷えだったのであり、そこにおいて、単に「抑圧と抵抗」のみに還元されない要素もあった[9]。こんにちでは領主側の温情主義に注目する新しい研究もあらわれている[9]

「プガチョフの審判」ワシーリー・ペロフ画(1879年、ロシア美術館)
プガチョフの前に引き立てられる貴族たち

18世紀中葉から後葉にかけてのエカチェリーナ2世統治時代は、「貴族の天国、農民の地獄」と形容されることさえある、両者の懸隔が甚だしい時代であった[1]。エカチェリーナ女帝統治下の1773年から1775年にかけて、ステンカ・ラージンの乱よりもいっそう大規模な農民反乱としてプガチョフの乱が起こっている。首謀者のエメリアン・プガチョフは、エカチェリーナの亡き夫ピョートル3世を名乗ったヤイク・カザークであり、軍事専門家の研究によれば彼らの軍がカザン攻撃をやめてモスクワに向かっていたらエカチェリーナの王権は命脈が尽きていた可能性があるとさえいわれている[1]。ヤイクの地名は、プガチョフの乱後、ウラルに名を改められた[10]

この時代の農民は、ほとんど奴隷に等しい境遇となった。そのことは当時の新聞に「裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳の少年売ります」などのような広告が掲載され、実際に農奴市場が存在したことでも知られる[1]。一方の貴族は、1785年に制定された「貴族への特許状(恵与状)」によってロシア唯一の自由な身分となり、租税・軍務・体刑を免除され、なおかつ、彼らを有罪とするには女帝の許可を必要とするなど、その身分が特別に保障された特権階級であった[1]。ここでは、貴族の所領に対する国家の諸規制が撤廃されて完全な私有財産とされ、貴族の重大犯罪に対しておこなわれてきた所領没収という処罰も廃止された[10]。こうした特権は、帝国と君主に対する忠勤への代償とみなされ、それゆえ必要なときにはいついかなる時も君主の呼びかけに応じ、命を惜しんではならないとされた[10]

エカチェリーナ2世統治下のロシアを旅した外国人は、ロシアの貴族が宮殿のような邸宅に住み、多数の召使いをかかえて豪奢な生活を送っていることに驚嘆している[1]1790年、ロシアの啓蒙思想家アレクサンドル・ラジーンチェフは『ペテルブルクからモスクワへの旅』を刊行し、当時のロシア農奴制の実態をいきいきと描いた[1]。これは、旅日記のスタイルをとりながらも農民の悲惨な日常と貴族による農民に対する非人間な扱いを記して農奴制告発の主張が込められていたが、エカチェリーナ2世は、この本を発禁処分とし、著者を「プガチョフよりもおそろしい」と述べてシベリアへの流刑に処した[11]1789年フランス革命に衝撃を受けたエカチェリーナは、ツァーリへの嘆願という農民の最終手段も禁止してしまったのであった[11]

農奴解放令

「1861年2月19日の読書」グリゴリー・ミャソエードフ英語版画(1873年、トレチャコフ美術館
1861年勅令(いわゆる「農奴解放令」を読む農奴たち

1856年クリミア戦争の敗北は、皇帝アレクサンドル2世に近代化の必要性を痛感させた。この時点で、貴族領主に人格的に隷属させられた農奴は全農民の半数近い約2,300万人いたといわれる。農奴制は諸悪の根源と見なされ、非難の対象となった[12]。後世「解放皇帝」と呼ばれることとなるアレクサンドル自身は保守的な思想の持ち主であったが[13]、改革の必要に迫られ、進歩的な官僚を登用して改革に取り組んだのであった[14]。皇帝は戦争終結の詔勅において「大改革」の意向を明らかにし、さらに貴族たちの前で従前より懸案であった農奴解放について演説をおこない、「下からよりは、上からこれを行うべきである」と宣言した[12][15][16]

皇帝アレクサンドル2世は露暦1861年2月19日(グレゴリオ暦では同年3月5日)、農奴解放令を発布し、これにより、農奴に人格的な自由と土地が与えられた[12]。しかし、農地は無償分与されたわけではなく、政府が領主に対して寛大な価格で買戻金を支払うこととし、解放された農奴は国家に対してこの負債を支払わねばならなかった[12][15][注釈 2]。また、土地の3分の1程度は領主の保留地となる場合が多く、農奴だった者は多くの場合、耕作地をせばめられた上にやせた土地が割り当てられた[12][17]。そして、大抵の分与地は農村共同体(ミール)が集団的に所有し、農民への割り当てと財産に関するさまざまな監督をおこなったため、農奴だった者は領主に代わって農村共同体に自由を束縛されることになった[12][15]。こうして、農奴制は法的には廃止されたものの、解放からしばらくの間、農民の生活は以前よりかえって苦しくなり、解放令の内容に不満をいだいた農民による暴動が各地で起こった[12][17]

脚注

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注釈

  1. ^ 東ローマ皇帝キプチャク汗をさす称号であった「ツァーリ」を自称するようになったのもイヴァン3世が始まりである。ロシア唯一の君主となったモスクワ大公は、それまでの独立諸公国の君主であった者を貴族としてその支配体制に編入していったが、ここでは、貴族ですら大公の「奴隷」を自称した。栗生沢(2002)p.105
  2. ^ 政府に対して買戻金の返済義務を負ったかつての農奴は「一時的義務負担農民」と呼ばれた。かれらは49年賦を課せられたが、これを支払うことができず、結局1907年に全額廃止されている。岩間他(1979)pp.315-316

出典

参考文献

  • 鳥山成人『スラヴの発展』文藝春秋〈大世界史 第15〉、1968年。
  • 相田重夫「陽気な貴婦人革命」『世界の歴史8 絶対君主と人民』大野真弓責任編集、中央公論社中公文庫〉、1975年2月。
  • 『ロシア史』岩間徹(編集)、山川出版社〈世界各国史 (4)〉、1979年。
  • 松田道雄『世界の歴史22 ロシアの革命』河出書房新社〈河出文庫〉、1990年。ISBN 978-4309471815
  • 『世界歴史大系 ロシア史2(18世紀-19世紀)』田中陽兒倉持俊一和田春樹編、山川出版社、1994年10月。ISBN 4-634-46070-X
    • 土肥恒之「18世紀のロシア帝国」『世界歴史大系 ロシア史2』田中・倉持・和田編、山川出版社、1994年。
    • 鈴木健夫「"大改革"」『世界歴史大系 ロシア史2』田中・倉持・和田編、山川出版社、1994年。
  • 土肥恒之「逃亡(ヨーロッパの)」『歴史学事典4 民衆と変革南塚信吾加藤友康川北稔尾形勇樺山紘一(編)、弘文堂、1996年12月。ISBN 978-4-335-21034-1
  • 『ロシア史』和田春樹編、山川出版社〈世界各国史〉、2002年8月。ISBN 978-4-634-41520-1
    • 栗生沢猛夫「モスクワ国家の時代」『ロシア史』和田編、山川出版社〈世界各国史〉、2002年。
    • 栗生沢猛夫・土肥恒之「「動乱」とロマノフ朝の始まり」『ロシア史』和田編、山川出版社〈世界各国史〉、2002年。
    • 土肥恒之「ロシア帝国の成立」『ロシア史』和田編、山川出版社〈世界各国史〉、2002年。
  • 土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社〈興亡の世界史〉、2007年3月。ISBN 978-4062807142
  • 土肥恒之『図説 帝政ロシア』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2009年2月。ISBN 978-4-309-76124-4
  • 栗生沢猛夫『図説 ロシアの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2010年10月。ISBN 978-4309761435

関連項目