ワルシャワ・ゲットー蜂起

ワルシャワ・ゲットー蜂起
第二次世界大戦
Stroop Report - Warsaw Ghetto Uprising 06b.jpg
ワルシャワ・ゲットー蜂起当時のユダヤ人
戦争第二次世界大戦東部戦線
年月日1943年4月19日 - 5月16日
場所ワルシャワ・ゲットー, ポーランド
結果:ドイツ軍の勝利
交戦勢力
Flag of Germany (1935–1945).svg ドイツ
(SSSDゲシュタポ秩序警察ドイツ陸軍)
ナチス協力者
(ブルーポリスユダヤ・ゲットー警察)
Jewsin Poland.svgユダヤ人の抵抗勢力
(ŻOB, ŻZW)
ポーランド人の抵抗勢力
(国内軍人民軍)
指導者・指揮官
フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック
ユルゲン・シュトロープ
モルデハイ・アニエレヴィッツ
ダビッド・アプフェルバウム
パウエル・フレンキエル
イツハク・ツケルマン
マレク・エデルマン
ジヴィア・ルーベトキン
ヘンリク・イワンスキー
戦力
1日あたり2090人(821人の武装SSを含む) 反乱軍750-1,800人 (4月19日)
56,000人以上の市民
損害
シュトロープの記録では公式には16人死亡、86人負傷。他の資料では1月18日以降、ユダヤ人の協力者の数もいれ300人以上死亡 シュトロープの記録では約1,3000人が射殺。残りは絶滅収容所に送られる。合計で56,065人が殺害もしくは捕虜となった。

ワルシャワ・ゲットー蜂起 (Warsaw Ghetto Uprising) は、第二次世界大戦中のポーランドワルシャワワルシャワ・ゲットーにおいて、1943年4月19日から5月16日の間、続いた武装蜂起である。この反乱は、強制収容所に送られることが死を意味することに気がついたユダヤ人が命をかけてドイツ軍に対して起こしたものである。

この反乱の前兆として、1943年1月18日にドイツ人とユダヤ人の内通者に対する粛清から始まった。戦闘は5月16日まで続き、反乱勢力は貧弱な武装と劣悪な補給の元、粘り強く戦ったが、最終的にユルゲン・シュトロープ親衛隊少将により完全に粉砕された。

背景

ポーランドの人口のうち300万人以上を占め、ポーランドの様々な都市のシュテットル(ユダヤ人街)に集中しているユダヤ人を、ナチス1940年頃よりゲットーを作り一箇所に集め始めていた。このうち最も大きなものがワルシャワ・ゲットーで38万の人間を抱えており、都市の中央部の人口が集中しているエリアにあった。ユダヤ人は劣悪な環境におかれていたため、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺が始まる前に、何千人ものユダヤ人が伝染病飢餓によって死亡していた。

武装蜂起が発生する1942年9月12日直前の52日間で、約30万のゲットーの住民がトレブリンカ絶滅収容所に送られ殺害された。

ユダヤ人の「追放」が始まった当初、ユダヤ人の抵抗組織のメンバーは会合を持ち、ドイツに対して戦わないことを決定していた。これは、ユダヤ人が殺されるのではなく、労働キャンプに送られるだけだと信じていたからであった。しかし、1942年の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した[1]

戦闘

1943年1月18日、ドイツが2回目のユダヤ人の「追放」を開始し始めた際に、最初の武装反乱が発生した。「追放」はその後4日間停止し、ŻOB(Zydowska Organizacja Bojowa、ユダヤ人の戦闘組織の意)とŻZW(Zydowski Zwiazek Walki、ユダヤ人の軍事連合の意)の反乱組織がゲットーの支配を握った。彼らは、何十もの抵抗拠点を作り、ユダヤ人治安部隊とゲシュタポの工作員を含むナチ協力者と思われるユダヤ人を殺害した[2]

敵対勢力

ゲットーでの反乱に対しドイツ軍は、部隊を投入し鎮圧を試みた。そのため、次の3か月間、ゲットーの全ての住民は可能な限りの準備を行い、最後の戦いに臨んだ。そのために、何百もの隠蔽された避難所である「壕」が家の下に掘られた(防空壕とあわせて618個あった)。そのほとんどが、下水道や給水設備、電気の設備を備えていた。ゲットーの人々は拳銃と少しのライフル、そして1丁の機関銃(後に、どこからか3丁の重機関銃も手にいれ)で武装していた。しかし、弾薬をほとんど持っておらず、簡単な爆発装置火炎瓶を主に使用していた。蜂起中にも、新たな武器の供給があり、一部はドイツ軍から捕獲したものもあった。ゲットーは3つの領域に分けられ、それぞれの組織はそれぞれの地区に対して責任を持った。

ゲットーの外からの支援は限られていた。しかし、国内軍(AK)[3]共産主義者の部隊[4]からのポーランドの抵抗組織の部隊が、ゲットーの壁近くで警備部隊を攻撃し、武器や弾薬を内部に送る努力を試みた。国内軍は4月19日から4月23日までの間、塀の外のあちこちでゲットーに侵入する試みでドイツ軍と交戦を行った[3]ヘンリク・イワンスキー (Henryk Iwański) 指揮下の国内軍の一部隊、Państwowy Korpus Bezpieczeństwa(国民保安軍団の意)は、ŻZWとともにゲットーの内側で戦い、最終的には塀の外、「アーリア人の領域」へ撤退した。国内軍はポーランド国内と、連合国へ無線通信を介して、ゲットーのユダヤ人に関する情報と、彼らへの援助を求める連絡を行った[3]。ŻOBの一部のパルチザンと指揮系統の一部はポーランドの支援の元、運河を通り脱出した[3]。イワンスキーの行動が最も有名であったが、これは、ポーランドの抵抗勢力が行ったユダヤ人を助けるための多数の行動の1つであった[5]

しかし、ポーランド人とユダヤ人抵抗勢力の闘士による努力はナチスの軍事力に対して十分でないことを証明した。ドイツ軍は、1日あたり平均して2054人の兵士と36人の士官を投入した。この兵の中には、821人の武装親衛隊(予備兵力装甲擲弾兵の部隊、訓練大隊、SS予備騎兵部隊)と363人のポーランド海軍ブルーポリスの人員を含みゲットーの壁沿いに非常線を張る様に命令をされた[6]。他の戦力として、秩序警察警察連隊から第22、第23大隊を、親衛隊保安部(SD)の情報部隊、陸軍の2個鉄道戦闘工兵連隊からあわせて1個大隊を、 陸軍の軽砲兵中隊と、SS最終解決訓練キャンプトラヴニキ(Trawniki)からトラヴニキ人部隊 (Trawniki-Männer、トラヴニキの人の意) のウクライナ人の大隊と、リトアニアとラトヴィアの補助警察 (auxiliary police) (アスカリス、Askaris)と、ポーランド消防士と、同様に緊急軍団(technical emergency corps)がいた。これらは、ユダヤ人狩りを行うフランツ・ビルキ(Franz Bürkl)指揮下のパヴィアク刑務所から来たゲシュタポの看守や処刑人も含んでいた。これらの部隊は、装甲戦闘車両や毒ガス火炎放射器航空機戦車砲兵を含む装備を保有していた。

ドイツの攻撃

ゲットー攻撃を指揮するユルゲン・シュトロープ少将(中央の人物)

最後の戦闘は4月19日過越祭の夕方に始まった。ドイツ軍は大挙してゲットーに突入した。ユダヤ反乱軍は、裏通り、下水道、家の窓、燃えている建物からでさえ射撃を行い、ナチスの部隊に火炎瓶手榴弾を投げつけた。フランス製装甲車は、ŻOB の火炎瓶により炎上し、ドイツ軍の最初の攻撃は撃退された。ユダヤ反乱軍は、フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック(Ferdinand von Sammern-Frankenegg) 指揮下のドイツ軍に対して大きな成功を収めた。彼は、SSと警察のワルシャワ地区の指揮官を罷免され、ユルゲン・シュトロープがその地位に就いた。

攻撃がやんだ後、ナチスは、ブロックごと建物を焼きつくし、地下や下水道を吹き飛ばし、捕らえたユダヤ人を検挙もしくは殺害していった。4月19日にもう1台の装甲車両が反乱軍により破壊された。その戦いでは、反乱軍の ŻZW の指揮官ダビッド・アプフェルバウム(Dawid Apfelbaum)が死亡した。残った拠点での最も長い戦闘が、ムラノウスキー・スクエア (Muranowski Square) 付近のŻZWの拠点で4月19日から4月末まで続いた。4月29日に、指揮官を失った組織の残った闘士はゲットーを捨て、ムラノウスキー・トンネルを通り、ミッヒェン (Michain) の森へ逃げ、戦闘が終結した。

掃討

主な戦いが終結した後も、残った壕は、抵抗の拠点となっていた。この戦闘では、ドイツ軍は発煙手榴弾と催涙ガス毒ガスを使用し、ユダヤ人を追い出した。多くの場合、ユダヤ人は出てきた後も発砲を続けた。また多数の男性の闘士や女性の闘士の一部は隠された手榴弾や銃を降伏後に発砲した。5月8日にドイツ軍は、ミワ (Miła) 18番地にŻOB の指揮所を発見し、そこで指揮官のほとんどと残った100人以上の闘士が殺された。彼らは、集団自殺を行った。その中には、組織の指揮官モルデハイ・アニエレヴィッツも含んでいた。

この反乱は5月16日に終わった。しかし、1943年の夏頃まではゲットーの地域で散発的な銃声が聞こえていた。最終的に、反乱は6月5日に終息した。最後のドイツ人に対する戦いはユダヤ人の犯罪者によるもので、ŻZW や ŻOB とは無関係であった。

死傷者数

ワルシャワ・ゲットーの英雄記念碑

戦いを通して、7千人のユダヤ人が戦死し、6千人が防空壕の中で焼死した。残った5万人は絶滅収容所に送られた。ほとんどはトレブリンカ強制収容所に送られた。

1943年5月13日付のユルゲン・シュトロープの最終報告書は以下のように記述している。

180人のユダヤ人、ごろつき、下等人間を殺害した。もはやワルシャワ・ゲットーは存在しない。鎮圧作戦は、ワルシャワ・ユダヤ教会 (Warsaw Synagogue) を爆破して20:15に終結した。・・・処分したユダヤ人の数は56,065人、これは捕まえたユダヤ人と殺害したユダヤ人の総数である[6]

この報告で、シュトロープは、味方の16人が死亡、86人が負傷し、このうち60人以上が武装親衛隊であったと記述している。他の文献からでは、1300人のドイツ軍もしくはその協力者が蜂起において死亡もしくは負傷したと推測される。

戦闘の後

戦闘後、燃えた家のほとんどは整地された。そして、ゲットーのあった地域にKLワルシャワ強制収容所の建物が建てられた。ドイツ軍は以前のゲットーをポーランドのワパンカ(Łapanka)の収容者を殺害するために使用した。そこでは、報復に大量の収容者の処刑が行われた。

後の1944年に発生したワルシャワ蜂起において、ポーランドの国内軍の部隊ゾスカ ("Zośka") は、KLワルシャワ (Gęsiówka subcamp) 強制収容所より380人のユダヤ人の虜囚を解放した。彼らのほとんどは、すぐさま国内軍に参加した。わずかの人間は、ワルシャワゲットー蜂起の際に地下道を通り生き延びて、ワルシャワ蜂起に参加した。

1944年のワルシャワ蜂起への関連

1943年ワルシャワ・ゲットー蜂起は1944年ワルシャワ蜂起としばしば混同される。2つの出来事は時間的にも異なり、まったく目的が異なっている。前者のユダヤ人の蜂起は、強制収容所での確実な死亡より、助かるわずかな望みをかけて、命を懸けての戦いを選択したものであり、戦う能力があれば最後の瞬間まで戦闘を行っていた。2つ目の蜂起は、ポーランド人が自分の領土を取り戻すためのテンペスト作戦の一部であった。

しかし、2つの事件の間に関連がまったく無いと言い切ることはできない。2つの暴動が同じワルシャワで発生したと言う点、また、ワルシャワ・ゲットー蜂起において生き延びた多数の人間(100近い人数)が後のワルシャワ蜂起において、国内軍や人民軍の一員として戦った点より、関連があると言うものもいる。

イスラエルにおいて

ワルシャワ・ゲットー蜂起の生き残りであり、指揮官であったイツハク・ツケルマン(Yitzhak Zuckerman、ŻOB の指揮官代理)とその妻のジヴィア・ルーベトキン(Zivia Lubetkin)を含めた「ゲットーの闘士」は、イスラエルにおける Lohamey ha-Geta'ot と呼ばれるキブツ(ゲットーの闘士のキブツの意)に移り住んだ。1984年にキブツのメンバーは、"Dappeo Edut"(「生存者の証言」、ツビィカ・ドロールが面談を行い編集した)を出版した。これは、キブツの96人のメンバーから証言を取り4冊構成である。アッコの北にあるキブツには、ホロコーストの記録を収めたアーカイブと博物館が存在する。

ガザ地区の北にあるヤド・モルデハイ(Yad Mordechai)はモルデハイ・アニエレヴィッツの名前から名づけられた。

西ドイツ首相の訪問

1970年12月7日西ドイツ首相であるヴィリー・ブラントは、当時共産主義であったポーランド人民共和国を公式訪問した際に、蜂起の記念碑にひざまずいて哀悼の意を示した。この行動は、当時ドイツ国内で論争の的となったが、ひざまずくブラントの姿は共産党政権下のポーランドでは公表されず、一般人には殆ど知られていなかった。日本ではしばしば「ブラントのひざまづきがドイツ・ポーランド両国民の和解へと結びついた」という趣旨で論じられるが、そのような事実はない。

関連項目

参考文献

  1. ^ USホロスコート博物館(US Holocaust Museum)"Warsaw Ghetto Uprising"
  2. ^ http://www.writing.upenn.edu/~afilreis/Holocaust/warsaw-uprising.html
  3. ^ a b c d Addendum 2 - ポーランドの抵抗組織とゲットーの闘士への支援の事実(Facts about Polish Resistance and Aid to Ghetto Fighters), Roman Barczynski, Americans of Polish Descent, Inc. Last accessed on 13 June 2006.
  4. ^ http://wilk.wpk.p.lodz.pl/~whatfor/getto_43.htm
  5. ^ Stefan Korbonski, "ポーランドの地下組織。1939〜1945年の地下組織の説明(The Polish Underground State: A Guide to the Underground, 1939-1945)", pages 120-139, Excerpts
  6. ^ a b From the Stroop Report by SSGruppenführer Jürgen Stroop, May 1943.
  • Marek Edelman. 1941-43年のゲットーの闘士(The Ghetto Fights: Warsaw, 1941-43). Bookmarks Publications, 1990. ISBN 0-906224-56-X.
  • Kazimierz Moczarski. 死刑執行人との会話(Conversations with an Executioner). Prentice Hall, 1984. ISBN 0-13-171918-1.
  • Sabine Gebhardt-Herzberg, 鉛でなく血でかかれた歌("Das Lied ist geschrieben mit Blut und nicht mit Blei"): Mordechaj Anielewicz und der Aufstand im Warschauer Ghetto; 250 p.; 2003; ISBN 3-00-013643-6 (in German language only); publisher: Sabine Gebhardt-Herzberg ([email protected])

外部リンク

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