勧進

勧進(かんじん)とは、仏教僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行われる行為の1つである。その内容としては直接民衆に説いて念仏誦経などの行為を勧める者や寺院仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。

概説

勧進聖らの活動

初期の勧進は主として勧進聖(かんじんひじり)・勧進僧(かんじんそう)と呼ばれる僧侶によって担われていた。彼らは各地を遍歴しながら説法を行い、人々からの寄付を受けた。彼らは必要経費のみをそこから受け取り、残りを事業達成のための寄付に充てた。こうした勧進聖としては、奈良時代行基平安時代空也行円などが著名である。また、の中にも勧進活動に加わるものもおり、これを勧進比丘尼(かんじんびくに)と呼ぶ。ただし、勧進比丘尼の中には神仏習合の影響を受けて尼の形態をした[1]巫女なども含まれており、また近世に入ると遊女的な行いをする者も存在したため、純粋な尼とは言えない者が多かった。それでも戦国時代清順のように勧進活動によって寺院を再興した勧進比丘尼も少なからずおり、その活動も評価されるものであった。

東大寺大勧進職

治承4年(1180年)の平氏政権による南都焼き討ちによって東大寺は灰燼に帰した。これを憂慮した後白河法皇は、勧進聖らに東大寺再建のための勧進活動への協力を求め、その責任者として重源大勧進職(だいかんじんしょく)に任命した。重源は勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織して、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者・職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も鎌倉源頼朝などに浄財寄付を依頼している。重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。以後も東大寺の施設の再建や管理維持のための役職として大勧進職は継続され、栄西(2代目)・行勇(3代目)・忍性が任命され、戦国時代に財政難によって一度は廃絶されるも江戸時代の再建時には公慶が大勧進職を復興して東大寺の再建を果たしている。

勧進職の普及とその変質

東大寺を再建させたこの制度は他の寺院にも用いられて、有力寺院の再建には勧進職(かんじんしょく)が任命されるのが恒例とされた。特に鎌倉時代に律宗真言律宗含む)が再興されると、律宗が僧侶が私利私欲を抱くことを戒めて、利益を得た場合にはその公平な配分を義務付けたこと、更に新しい律宗が従来の教学研究専念を脱却して、布教による職人階層との関係を強めたことで評価を得て、勧進職に律宗僧を任じる傾向が増加していった。

だが、時代が進むにつれて朝廷幕府などが勧進職に対して直接的な寄付を行うだけではなく、所領などを与えて(東大寺の周防国一国など)その収益から再建費用を捻出させるように取り計らったために、勧進職は一種の利権の絡む役職となり、更に律宗の衰微も加わって、勧進職を巡る寺内の抗争や、その収益を私する勧進職が出現するなど問題も生じた。また、熱心に再建に尽くした僧侶の中にも再建のための財源を勧進活動には依存せずに、朝廷や幕府、その他の有力者との政治交渉による再建費用獲得などに力を入れる僧侶もいた。このため、勧進職と勧進聖らとの関係は希薄になることもあった。勿論、そのような時代になっても全国各地を回って勧進に尽力する勧進聖らも少なくなかったが、反面勧進聖を名乗って実態は物乞いなどの行為を行う者も現れる(前述の勧進比丘尼の遊女化もその1つである)ようになり、結果的に寺院内部(勧進職を含めて)や世間一般から蔑視されるような状況も生まれた。

後にこの「勧進」のスタイルを基にした様々な「勧進○○」と称されるものが出現することとなる。

勧進帳

勧進帳(かんじんちょう)とは、勧化帳(かんげちょう)とも呼ばれており、勧進の目的について書かれた巻物形式の趣意書を指す。

勧進の発願趣旨に始まり、念仏・誦経の功徳、寄付・作善に関わることによる功徳(現世利益・極楽往生)などを説いている。勧進聖は説教を聞くために集まった人々に対してこれを読み上げ、あるいは閲覧させて、寄付・作善を通じた結縁を呼びかけた。なお、勧進帳とは対として寄付の実績などを記した奉加帳がある。

なお、歌舞伎の演目として知られる『勧進帳』も武蔵坊弁慶富樫左衛門の前で勧進帳を読み上げる場面に由来している。

脚注

  1. ^ 朝廷が定めた戒壇では女性の授戒は認められておらず、鎌倉時代に真言律宗が独自の戒壇を樹立して尼の授戒を許可するまで、尼は正式な僧侶としていなかった。そのため、尼の身分規定も曖昧であった。

関連項目