名古屋鉄道デセホ700形電車

モ700形704(黒野駅)

名古屋鉄道デセホ700形電車(なごやてつどうデセホ700がたでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)の前身である旧・名古屋鉄道[1]1927年昭和2年)4月から新製した電車。名鉄の600V区間用吊り掛け駆動車両のうち、自動進段制御器を搭載するAL車に属する[2]

本稿では翌1928年(昭和3年)11月に新製された、ほぼ同型の増備車両であるデセホ750形についても併せて記述する。

登場当時の背景

旧・名古屋鉄道は名古屋市中心部の北に位置する押切町を起点としていたが、一部の列車は同駅から名古屋市電直通運転を行い、名古屋駅から少し離れた当時の市中心部に位置する柳橋を事実上のターミナル駅としていた。これは旧・名古屋鉄道の前身である名古屋電気鉄道のターミナル駅は柳橋であり、押切町以西の郊外線区間を旧・名古屋鉄道へ、市内線区間を名古屋市電気局(現・名古屋市交通局)へそれぞれ譲渡した後も、柳橋 - 押切町間の旧・名古屋鉄道の営業権は譲渡条件として保持されたままであったからである[3]

そのような環境下で新製された本形式は、それまでの旧・名古屋鉄道の車両と同じく、集電装置として郊外線用のパンタグラフと、市電区間用のポールを両方搭載して誕生することとなった[4]

車両概要

デセホ700形701 - 705が1927年(昭和2年)4月に、706 - 710が同年11月に新製され、計10両が出揃った。旧・名古屋鉄道初の半鋼製車両で、深い屋根構造と小さめの窓、リベットを多用して組み立てられた重厚な車体を持ち、当初は正面窓下に前照灯を装備していたこともあり、やや垢抜けない印象を与えるものであった。両運転台構造で片側3ヶ所の客用扉を備え、客用扉部にはステップを設けている。乗務員扉はなく、窓配置は1D6D6D1(D:客用扉)である。

主要機器はそれまでイングリッシュ・エレクトリック(E.E.)社製の機器を好んで採用した旧・名古屋鉄道の流儀に則って、同社の流れを汲む東洋電機製造製の電装品を搭載しており、制御器はES152B型電動カム軸式自動加速制御器、主電動機はTDK516A型[5]である。これらはいずれもデッカー・システムと称されるE.E.社のライセンス製品であり、東洋電機の黎明期に製造されたものであった。このES152B型制御器は自動進段機能を持ちながら、9段のノッチ刻みを持つM-8型主幹制御器の指令により直列5段, 並列4段の任意の段数を直接選択でき、HL車のような運転方法をも可能とするものである[6]。台車はデセホ701 - 705が日本車輌製ボールドウィン型釣り合い梁式台車を、デセホ706 - 710が住友金属工業製ST43型釣り合い梁式台車をそれぞれ装備し、いずれも米国ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス社が開発したボールドウィンA形台車の国内デッドコピー製品であった。

その他、連結器は当初密着連結器を採用したが、他形式との互換性を考慮して落成後間もなく一般的な自動連結器に交換されている。

1928年(昭和3年)11月に本形式の増備車としてデセホ750形751 - 758が新製され、翌1929年には759・760の2両が増備されて、デセホ700形と同じく全10両の陣容となった。車体外観はデセホ700形とほぼ同一で、相違点は客用扉ステップ部の裾下がりが小さくなった程度である。主要機器もデセホ700形に準じているが、台車は住友金属工業製ST56型釣り合い梁式台車を装備し、車輪径も異なっていた[7]。また、デセホ758 - 760はドアエンジンを搭載し、旧・名古屋鉄道初の自動扉仕様車として登場している[8]

なお、デセホ700形・750形ともに製造は日本車輌製造で行われた。

その後の経緯

戦前の特筆事項

デセホ700形が落成して間もない1927年(昭和2年)11月には、昭和天皇の犬山への陸軍特別大演習視察に伴うお召し列車用として、デセホ707・708の2両が抜擢された。両車はこのお召し列車用に特別製作された貴賓車SC1形3を付随車として中間に挟み込み、動力車・控車としての役目を果たした。天皇が一地方の私鉄を、さらには「電車」のお召し列車に乗車したのはこれが最初とされている[9]

また、社名が名岐鉄道と改称された後の1932年(昭和7年)に、鉄道省高山本線への直通列車[10]が柳橋 - 下呂間で運転開始されたことに伴い、専用車両としてデセホ750形755・756が抜擢され、車内をお座敷仕様に改造された上で就役している。なお、高山本線内では蒸気機関車牽引の定期客車列車に併結される運行形態が取られていた。同直通列車はその後省型客車[11]を名鉄線内へ直通運転させる形で1940年(昭和15年)10月より再開されたが、同客車の名鉄線内の牽引車両としてモ707 - 710が指定され、それらのうち2両が客車2両を牽引する形で運行された。

合併による新・名古屋鉄道成立から戦後にかけて

旧・名古屋鉄道は1930年(昭和5年)の名岐鉄道への改称を経て、1935年(昭和10年)の愛知電気鉄道との合併に伴い現・名古屋鉄道と再改称された。同時に在籍する全車両について車両記号の変更が行われ、デセホ700形・750形はモ700形・750形にそれぞれ改称されている。

その後、旧名岐区間(通称西部線)と旧愛電区間(通称東部線)を直結する連絡線建設の過程で、1941年(昭和16年)8月に先行開業区間として東枇杷島 - 新名古屋(現・名鉄名古屋)間が開通した。それに伴い名古屋市電への直通運転が廃止されたことを受け[12]、モ700形・750形を始めとする従来車のポールは撤去され、車体中央部に搭載されていたパンタグラフを車端部に、正面窓下に設置されていた前照灯を屋根上にそれぞれ移設している。連絡線は1944年(昭和19年)に東部線のターミナル駅であった神宮前まで全通し、モ700形・750形も神宮前まで運行されるようになった。なお、同時期にはモ800形の付随車サ2310形を中間に組み込んだ3両編成での運行も見られた。

1500V昇圧に伴う支線区への転属

その後、1948年(昭和23年)西部線区間の主要路線の架線電圧が1500Vに昇圧され、悲願であった東西直通運転が開始されたが、モ700形・750形については昇圧対応改造の対象外とされ、モ700形は各務原線[13]、モ750形は小牧線広見線へそれぞれ転属することとなった。

各務原線におけるモ700形は、モ701 - 705がク2260形2261 - 2265と末尾同番号同士で2両編成を組み、モ706以降は増結車両として使用された。その後連結相手をク2090形ク2130形ク2190形等と交代しながら使用されていた。その後モ703が1960年(昭和35年)12月に小牧線・広見線へ転属し、残る9両が各務原線で使用されていたが、1964年(昭和39年)3月の同線1500V昇圧に伴いモ701・705・707 - 710の6両が余剰となり、両形式初の廃車が発生した。モ701・705は福井鉄道へ譲渡されて同社140形となり[14]、モ707 - 710は北陸鉄道へ譲渡されて同社石川総線モハ3700形となった。残るモ702は瀬戸線へ、モ704は小牧線・広見線へそれぞれ転属している。なお、モ706は後述モ760とともに新川工場入場中に火災焼失し、1964年(昭和39年)4月に廃車解体された。

一方、小牧線・広見線におけるモ750形は、主に単行運用でモ650形等とともに使用され、前述ク2260形の小牧線・広見線転入に際してはそれらと2両編成を組むものも現れた。その後モ760が前述新川工場火災で焼失廃車されたものの、残る9両にモ700形2両を加えた全11両が小牧線・広見線の主力車両として使用された。

その後、1964年(昭和39年)10月の小牧線1500V昇圧に伴いモ704・754・758・759の4両が瀬戸線へ転属し、残る7両も翌1965年(昭和40年)3月の広見線1500V昇圧に伴ってモ703・751・753の3両が瀬戸線へ、モ752・753・756・757の4両が揖斐線谷汲線へそれぞれ転属し、本線系支線区から撤退した。揖斐線・谷汲線へ転属した4両については、制御方式のHL化、主電動機換装[15]、台車交換[16]が施工されている。なお、台車交換は瀬戸線へ転属したモ750形にも施工されており[17]、車輪径が両形式で揃えられたことから、以降両形式の実質的な差異はなくなった。

瀬戸線時代

前述の通り、本線系支線区から撤退後、瀬戸線にはモ702 - 704・751・754・755・758・759の8両が配属された。同線ではク2100形、ク2190形、ク2320形等と編成を組み、主力車両として使用された。この過程で連結面の運転台を撤去し片運転台化された車両も存在し、モ700形については全車片運転台化された。その後、1973年(昭和48年)に瀬戸線の車両体質改善目的で3700系が本線系より転属してきたことに伴い、余剰となったモ704・751・754・755・758の5両が同年8月に主電動機換装[15]の上揖斐線・谷汲線へ、モ702・703・759の3両については瀬戸線1500V昇圧時まで使用された後、1979年(昭和53年)3月に同じく主電動機換装[15]を行って揖斐線・谷汲線へ転属している。

なお、前述広見線昇圧時に揖斐線・谷汲線へ転属したモ750形のうち、モ756は1969年(昭和44年)に、モ753・757は1970年(昭和45年)にそれぞれ廃車となった。モ753・757は解体処分されたが、モ756はその車体を再用してク2150形ク2151として復帰した。同車は黒野寄り運転台にHL主幹制御器を、忠節寄り運転台にデッカー型(AL)主幹制御器を備え、HL車・AL車どちらとも併結可能な制御車として使用されたが[18]、1979年(昭和53年)12月に廃車となった。残るモ752は1973年(昭和48年)11月に制御器を再度ES152B型に換装し、同時期に瀬戸線より転入した車両と性能を揃えている。

晩年の揖斐線・谷汲線時代

モ750形758(美濃北方駅)

以上のような変遷を経て、最終的にモ700形702 - 704の3両とモ750形751・752・754・755・758・759の6両、計9両が揖斐線・谷汲線に集結して同線の雑多な旧型車を淘汰し、車種の統一が図られた。後年雨樋の新設、客用扉の自動扉化、側窓のアルミサッシ化、客用扉の鋼製扉化等が施工されている。また、揖斐線・谷汲線のワンマン運転開始に伴い、モ750形のうちモ754を除く5両がワンマン対応工事を施工され、モ752等片運転台車となっていた車両も再度両運転台化された。一方、モ700形についてはワンマン化改造は施工されず、ク2320形と2両編成で使用されていた。1992年平成4年)にモ754についてもワンマン化・両運転台化が施工されたが、その運転台機器等はモ702から転用する形を取り、機器を供出したモ702は同年12月に廃車となった。

このように、使用線区が末端ローカル支線区であったとはいえ、車齢70年を超えて平成の世まで使用され続けた両形式であったが、1997年(平成9年)から1998年(平成10年)にかけてモ780形が新製され、それに代替される形でモ700形全車とモ750形752・758・759の5両が1998年(平成10年)4月に廃車となり、モ700形は形式消滅した。しかし、モ750形751・754・755の3両については揖斐線の末端区間(黒野 - 本揖斐間)および谷汲線用車両としてその後も継続使用された[19]

こうして両路線が廃止となる2001年(平成13年)10月1日まで使用された3両は、廃車後モ751が車体を淡緑色に塗装された姿で岐阜県北方町のパン屋店頭に[20]、モ754は車体を約半分に切断され瀬戸線当時の緑色に再塗装の上愛知県瀬戸市の瀬戸蔵に、モ755は現役最末期そのままの仕様で谷汲線の終着駅であった谷汲駅跡にそれぞれ静態保存されている。

余談

揖斐・谷汲線転属後のモ700形・750形は、ク2320形ともども黒野駅構内に所在した黒野検車区で定期検査を受けていたが、重要部検査および全般検査に関しては市ノ坪に所在した岐阜工場で行われていた。その際岐阜市内線内を走行することとなるが、両形式は鉄道線用車両であるためそのままでは入線が不可能であることから、正面床下に簡易排障器を取り付けて軌道法における走行条件を満たした上で、深夜に回送を行った。なお、片運転台のモ700形は進行方向が逆向きとなる田神線内についてはモ570形に牽引されていた。

参考文献

脚注

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  1. ^ 1930年(昭和5年)9月に名岐鉄道に社名を改称した。
  2. ^ 後年主要機器換装によりHL化されたものも存在するが、詳細は後述する。
  3. ^ 当該区間は名鉄および名古屋市の二重免許区間とされていた。
  4. ^ パンタグラフを車体中央に、ポールを車体両端に搭載していた。
  5. ^ 端子電圧600V時定格出力63.5kW/865rpm, 吊り掛け駆動, 歯車比2.65
  6. ^ レバーサ(逆転器)の切り替えにより自動進段もしくは手動進段が選択可能であった。
  7. ^ 車輪径が小さく取られたことで、低速域の加速性能がデセホ700形よりも優れていたといわれる。
  8. ^ 時期は不明ながら、後年ドアエンジンを撤去され、手動扉化された。
  9. ^ 昭和天皇本人は皇太子時代に、当時名古屋電気鉄道であった市内線に乗車している。
  10. ^ 名鉄キハ8000系気動車「たかやま」・「北アルプス」の記事も参照。
  11. ^ ナハフ14100形が使用された。
  12. ^ 先行開業区間開通の前日をもって、直通運転および東枇杷島 - 押切町間の路線は廃止となっている。
  13. ^ ただし終戦直後には進駐軍専用列車用途にモ708・709が指定され、各務原線で使用されていた経歴がある。
  14. ^ 当初は貸渡扱いで入線し、同年7月付で正式譲渡されている。
  15. ^ a b c モ200形・250形等の廃車発生品であるウェスティングハウス社製WH546J型。端子電圧600V時定格出力48.49kW, 歯車比2.65
  16. ^ 同じく廃車発生品の日本車輌製ボールドウィン型釣り合い梁式台車。
  17. ^ こちらは台車以外の主要機器については変化はなかった。
  18. ^ 1973年(昭和48年)11月に黒野寄り運転台の主幹制御器をデッカー型に交換し、以降はAL車の制御車として使用されていた。
  19. ^ 当初は全車を代替する計画であったものの、両路線は末端区間の電圧降下が激しく、モ770形(2代)やモ780形の入線が不可能であったことから3両が同区間用車両として残存することとなったのである。
  20. ^ 保存は車体のみで、台車を含めた下回りは失われている。

関連項目