大クロアチア

20世紀末のユーゴスラビア紛争の頃に大クロアチアと考えられていた地域

大クロアチアクロアチア語:Velika Hrvatska)は、クロアチア民族主義の潮流のひとつで、クロアチア人による民族統一主義である大クロアチア主義が自国領とみなす領域である。

大クロアチア主義は20世紀の大半を通じてクロアチアの民族主義の根底となってきた考え方であり、特にユーゴスラビア王国時代、第二次世界大戦時、そしてクロアチア紛争時に盛んになった。現在ではクロアチア純粋権利党(en)がこの主張を支持している。

起源

大クロアチア主義の領土主張は、「クロアチア人国家と歴史的権利」に基づくとされ、15世紀にクロアチアがハンガリーと連合していた時代にさかのぼる。大クロアチア主義の支持者によると、15世紀から17世紀にかけてオスマン帝国が侵攻する以前のクロアチアの歴史的領土はクロアチアに「返還」され、完全なクロアチアの支配下に置かれるべきであるとする。この概念は、19世紀のクロアチア民族復興運動(en)や1878年オーストリア帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合以降、特に盛んになった

「クロアチア国家と歴史的権利」の概念は後の「民族の権利」によってさらに勢いを得、大クロアチア主義は、クロアチア民族の土地とクロアチア国家の歴史的領土の両方を包含する未来の大クロアチアの姿として見られるようになった。

19世紀の近代的な大クロアチア主義の起こり

19世紀の、オーストリア・ハンガリー帝国内での大クロアチアの範囲。
17 - クロアチアおよびスラヴォニア(クロアチア王国)
5 - ダルマチア
18 - ボスニア・ヘルツェゴビナ
7 - オーストリア領ゴリツィア、イストリア、およびクヴァルネル諸島
16 - ハンガリー王国のうちメジムルスカバラニャバチカBačka
4 - クラニスコ
3 - カリンシア
12 - シュタイエルスカ

近代的な大クロアチアの概念は19世紀にさかのぼり、1878年のオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合以前からあった。これはクロアチアの右翼政党と結びついていた。たとえば、右派の新聞「Hervatska」は次のような記事を書いている。

何が真のクロアチアの政治で、誰がその代表者か1871年 No. 6):

クロアチア国家の歴史的・民族的に正当な拡張された領土はドイツからマケドニアの間、ドナウ川からアドリア海にわたって広がり、それぞれ分断され個別の名をもつ各地域、スティリア南部、カリンシアクラニスコスロベニア中部)、ゴリツィアイストリア、中央クロアチア、スラヴォニアクライナダルマチアアルバニア北部、モンテネグロヘルツェゴビナサンジャクセルビア の唯一の正当な名称は「クロアチア国家」である。その領土は4千平方マイル以上にのぼり、人口は8百万人に達する。

Hervatska」紙の立場は唯一のものではない。1869年エウゲン・クヴァテルニクEugen Kvaternik)はドン・ミホヴィル・パヴリノヴィッチ(don Mihovil Pavlinović)に手紙を書き、クロアチア権利党の政策を完遂すれば、「クロアチア国家と歴史的権利」に従うならドラーヴァ川から海までではなく、ザルツブルク・アルプスからアルバニアおよびコソボまでの領域で純粋で穢れなきクロアチアの国旗がはためくだろうと述べた。

アンテ・スタルチェヴィッチ(Ante Starčević)の権利党の支持者であるクロアチアの作家、 ジュロ・デジェリッチ(Đuro Deželić)は1879年に「クロアチア民族」あるいは「クロアチア人の魂」という本を出版し、その中でクロアチア人が住み、従ってクロアチアの土地である地方は「現在のダルマチア全域およびコトル湾en)、『トルコ領クロアチア』(en)を含むボスニアノヴィ・パザル・パシャリク(サンジャク地方)、1789年のアンゲルの本でトルコ領ダルマチアとして言及された現在のヘルツェゴヴィナ地方、そしてモンテネグロとアルバニア北部である」とした。

ボスニア・ヘルツェゴビナを編入する野望の実現への望みにより、クロアチア議会は1878年8月28日、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に宛ててボスニア・ヘルツェゴビナがクロアチアの一部となることへの期待を示し、「時間の流れにより、ボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチア・スラヴォニア・ダルマチア王国の統治下へと引き渡されるべきである」とした。

クロアチアの拡張主義者の野心は1893年11月に起草された権利党の綱領にも現れている。この綱領の最初の項では、「クロアチア国家と自然的権利は、ハプスブルク領内にあるクロアチア、スラヴォニア、ダルマチア、リエカ、メジュムリェ(Međumurje )、ボスニア、ヘルツェゴビナ、イストリア、クラニスコ、カリンシアおよびスティリアの全域がクロアチア王国に復することによって復旧されるべきである。」としている。権利党によれば、国土には3種類があるとされる。1番目は国土が実際の領域によって形作られ、中央クロアチアとスラヴォニア、リエカ周辺を含む。2番目は仮想的な主張と呼ばれるもので、メジュムリェ、ダルマチア、クヴァルネル諸島(ダルマチア諸島)、イストリアの一部とボスニア北西部を含む。3番目は「クロアチア国家と自然的権利」に基づくクロアチア民族主義者の主張であるとされる。権利党の1893年の綱領では、右翼主義者によりボスニア・ヘルツェゴビナ全域とカリンシア、スティリアが含められた。この「3種類の国土」のいずれにおいても、たとえばボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴォイヴォディナ、スロベニアの一部やモンテネグロに関して、クロアチアの民族主義者たちは歴史的、自然的、民族的、地理的、経済的、地理的などさまざまな根拠を挙げた。

20世紀初頭

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戦前のユーゴスラビア王国の行政区分。1939年にクロアチア人の要求にしたがって赤線で囲まれた領域にクロアチア自治州が設置された

1904年5月2日にザグレブで発刊された新聞Hrvatstvo紙の最初の話題は、「我らが綱領」と題された社説であった。そのなかで同紙は「我らはローマ・カトリック教会の独立、およびその権利と機構のために、いかなる方面から攻撃があろうとも戦う。(中略)我らは、クロアチア国家の権利の、可能な限り最大限の有機的拡張を実現するために、合法的な手法に努める。我らはクロアチアの土地にあるべき唯一の民族はクロアチア民族、唯一の国旗はクロアチア国旗、唯一の言語はクロアチア語と理解する。」とした。

大クロアチアの考え方はセルブ・クロアート・スロヴェーン王国の成立後もクロアチア民族主義者陣営の間では忘れ去られることはなかった。たとえば、クロアチア人共和農民党の党首であったスティエパン・ラディッチ(Stjepan Radić)は、1922年7月12日にロンドン・デイリー・ニュース(London Daily News)に寄せられた声明のなかで、バラニャバナトBanat)、バチカBačka)について述べ、これらを「不当かつ不合理にもヴォイヴォディナと呼ばれている」とし、これらが単純にセルビア人の土地として統治されることは許されず、国際連盟の監視の下でセルビア・ベオグラードかクロアチア・ザグレブかの二者択一の住民投票を行うべきであると主張した。

1年後の1923年9月23日、ロンドンからクロアチア人共和農民党の党首ラディッチに当てられた手紙では、「クロアチアとクロアチア人の地図」の作成を提案した。この地図にはクロアチア、スラヴォニア、ダルマチア、メジュムリェ、プレクムリェとともに、「クルカ(Krka)およびカスタヴ(Kastav)」、オーストリア=ハンガリー帝国からセルブ・クロアート・スロヴェーン王国領となった全領域(ボスニア・ヘルツェゴビナ、バチカ、バナト、バラニャ)、さらにモンテネグロとマケドニアを含むものとする。ラディッチは外国を意識した地図の作成と英語およびフランス語での説明の挿入方法について指示し、「スボティツァからアドリア海まで、全ての郡についてクロアチア人(ボスニアのイスラム教徒もクロアチア人とする)が人口の過半を占める郡を青、正教徒(セルビア人)が過半を占める地域を赤で示すよう指摘した。

スティエパン・ラディッチの後継者、ヴラドコ・マチェク(Vladko Maček)は、前任者から一貫して大クロアチア主義を受けついた。マチェクは、旧オーストリア・ハンガリー帝国領にあった全ての南スラヴ人の土地をクロアチアの指導の下に統合することを望み、その国家をセルビアとの協商関係のもとに置くことを意図していた。ラディッチ同様、ユーゴスラビアの分割を意図した住民投票の実施をドリナ川(Drina)周辺およびそれ以西で実施することを求めていた。1936年にマチェクは声明で、「ヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア、さらにダルマチアはそれぞれ自由に選択するか、あるいは地域の議会により選出された代表者によって選択するかして、決めなければならない。言い換えるならば、ヴォイヴォディナがセルビアと共にあることを望むのならば、それでよろしい。ヴォイヴォディナがセルビアで特別な地位を望むのならば、それも結構なことだ。しかしヴォイヴォディナが除外されることを望むなら、それも良いことである。ヴォイヴォディナがクロアチアと共にあることを望むのも、独立を望むのもまた結構なことである。」と述べた。マチェクによる領土要求に関する注目は、ユーゴスラビアの摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチ王子との機密会談以降、農民党の指導者となったヨヴァン・ヨヴァノヴィッチ・ピゲオン(Jovan Jovanović-Pigeon)へと引き継がれた。

ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意(en)の前に行われた摂政パヴレとマチェクの会合Primorje では、パヴレが「あなたにとってのクロアチアとは何か?」とたずね、マチェクは「プリモリェ(Primorje)とサヴスカ(Savska)の各州だ」と答えた。次のの会合では、マチェクはドゥブロヴニク、そして次にヴルバス(Vrbas)を求めた。3度めの会合では、マチェクの要求はさらに増し、イロク(Ilok)までのスリイェム(Srijem)、ブルチコおよび周辺、ビイェリナ(Bijeljina)、トラヴニクTravnik)、フォイニツァFojnica)、ヘルツェゴビナを要求した。1939年8月26日、この要求に基づいたツヴェトコヴィッチ=マチェク合意によって、クロアチア自治州が設置された。

第二次世界大戦とクロアチア独立国

クロアチア独立国(赤)。青はドイツ、緑はイタリア、茶色はハンガリーの支配下に置かれた

第二次世界大戦によってドイツがユーゴスラビアに侵攻すると、ドイツやイタリアの支援を受けたクロアチアの民族主義組織ウスタシャアンテ・パヴェリッチクロアチア独立国を建国した。 クロアチアの領土を最大限まで拡張せんとするクロアチア民族主義者の願望は、このクロアチア独立国の範囲にも見てとることが出来る。しかし、ウスタシャはこれだけでは満足せず、スラヴコ・クヴァテルニクを通じて領土の更なる拡張を試みた。1941年5月14日の電報で、ドイツの使節ジークフリート・カシェ(Siegfried Kasche)はドイツの外務大臣に対し、クヴァテルニクはクロアチアの領土をアルバニア国境や、(サンジャク地方の)プリボイ(Priboj)、プリイェポリェ(Prijepolje)、プリェヴリャ(Pljevlja)にまで広げることを望んでいると伝えた。カシェはこの要求を支持し、「クロアチア軍は既にそれらの地域に展開している」ことをその理由としたが、しかしながら、イタリアはこの案に反対した。イタリアのガレアッツォ・チャーノは、クヴァテルニクの要求を「クロアチア帝国主義」と説明した。チャーノの1941年6月30日の日記には次のように書かれている。「アンテ・パヴェリッチはついにサンジャクまで欲するようになった。まったくの不合理で、道理のない要求だ。私は、ドゥーチェが署名した手紙を作成し、これをもって我が方はこの案への反対を表明する。」

ドイツの情報機関BNDの任務に関する本の著者であるエーリッヒ・シュミット・エンボーム(Erich Schmidt Enbohm)によると、ヨシップ・ブロズ・チトーの政治体制の要人の一人であったクロアチア出身のイヴァン・ステヴォ・クラヤチッチ(Ivan Stevo Krajačić)はチトーの権力・権限が最も強かった時代に、かつてのクロアチア独立国の領土の範囲内でボスニア・ヘルツェゴビナを含む独立のクロアチアを設置する案を作成した。このこともまた、大クロアチア主義によるボスニア・ヘルツェゴビナへの強い要求のひとつの表れであるといえる。政治体制や国家・社会構成、そして人は変わっていく中で、ドリナ川までを包含するクロアチア主義の概念は変わらずに受け継がれていった。

クロアチア人による地政学的評価

セルビアとクロアチアの間でかつてより問題となり、今なお問題となっている議論のひとつに、クロアチアの政治家、地政学者の間で優勢となっているクロアチアの地政学的な立場がある。クロアチアの地政学的立場について、クロアチアの歴史家ヴィエコスラヴ・クライッチVjekoslav Klaić)は「良く広げられたソーセージに似る」と説明された。

クロアチアの国土の形はバナナ、あるいはクロワッサンにたとえられる。クロアチアのこのような国土の形は、多くのクロアチア人から生存・発展の余地のないものと言われる。アントゥン・ラディッチ(Antun Radić)はこのことについて、「ダルマチアと統合されたクロアチアの形は、パンの外皮のようだ。そして、そこから切り取られる中身は、クロアチアのパンから切り取られたボスニア・ヘルツェゴビナである。我々が満足に食べることを望むならば、パンの柔らかな中身、すなわちボスニア・ヘルツェゴビナが必要である。」と説明した。またアントゥン・ラディッチの兄弟のスティエパン(Stjepan)は、「ボスニアはクロアチアの胃袋である。胃袋を切り取られて果たして生きていくことができようか。」と述べた。フラノ・スピロ(Frano Supilo)は、ボスニアなきクロアチアは、こんにちの占領された領土(ボスニア・ヘルツェゴビナなど)を支配してきた者たちの手の内のおもちゃだ。」とした。永続的な経済的・金銭的自立を勝ち取るためには、新たな領土を確保する必要があると、クロアチアの政治家たちは考えている。Hrvatski dnevnik1914年、「クロアチアは現在の大きさでは生き残ることはできない。なぜならクロアチアが経済的に自立するためには、より多くの領土が必要だからだ。」と書いている。

Südland」「ユリチッチ(Juričić)博士」、「フロリアン・リヒトラガー(Florian Lichttrager)」の変名で知られるイヴァン・ピラル(Ivan Pilar)は、「地政学的な立場から言えば、ボスニア・ヘルツェゴビナなきクロアチア・スラヴォニア・ダルマチア王国は、政治的にも経済的にも自身を維持する能力はない。」と書いている。ピラルによると、「ボスニアやダルマチアはクロアチアの自然的な一部であり、それらなきクロアチア・スラヴォニアのみの姿は不完全で生存不可能なもの」とされた。ピラルはまた、「非常に細長い姿をし、2方向へ伸びるクロアチア・スラヴォニア・ダルマチア王国には(ダルマチアの一部ではわずか幅が数キロメートルである)、国家や政治機構のいかなる中心も存在できず、この形の国家にはいかなる未来も存在できない。我々の見解として、1878年以前に沸き起こったイリュリア運動Illyrian movement)やユーゴスラビア運動の頃、より大きな国の枠組みを求めたのはこのこと故である。クロアチア・スラヴォニア・ダルマチア王国が自身を維持してくことができるのは、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合したときだけだ。クロアチアの人々はこの細長い国土で自身を維持していく希望をほとんど見出せず、ボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチアの国家生存と政治的発展のための基本条件である。クロアチア・スラヴォニア・ダルマチアの国土のみではクロアチア人はその日暮らしであり、ボスニア・ヘルツェゴビナを得て初めて完全な生活をできる。」とも書いた。ピラルによれば、クロアチア、スラヴォニア、ダルマチアは殻、ボスニア・ヘルツェゴビナは核であるとされる。

クロアチアの民族主義と地図

クロアチア・スラヴォニア・ダルマチアを殻、ボスニア・ヘルツェゴビナを核とするこの考え方を取り上げ、ミロスラヴ・クルレジャ(Miroslav Krleža)が率いるザグレブのユーゴスラビア人民共和国の編集協会は、1960年発行のユーゴスラビア百科事典の第4巻のクロアチアの項目において、クロアチアがドリナ川以西のボスニア・ヘルツェゴビナを併合した図を掲載した。図では、ドリナ川左岸の領域をすべて除外することなくクロアチアに加えている。同じ編集協会であった1968年発行のユーゴスラビア百科事典の第7巻のセルビアの項目にも、同様の図が掲載された。ここではセルビアはドリナ川までとなっており、セルビアの領域が川の左岸へと及ぶことはなかった。このような考え方には1世紀以上の歴史がある。1862年さかのぼると、ヨシップ・パルタス(Josip Partas)は、フラニョ・クルジッチ(Franjo Kružić)のデザインにしたがって、「現在の各州と、示唆される古代の重要な居住地、現在の居住地を示すクロアチア王国の全図」と題された地図を発行した。この地図はドラグティン・アルブレヒト(Dragutin Albrecht)のザグレブ印刷所で印刷された。この地図では、クロアチア王国の領域として、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア南西部、スロベニア南西部がクロアチアとつなげられた。

クロアチアの東の国境はドリナ川であるとするクロアチア人の願望に基づいた地図に、ニコラ・ズヴォニミル・ビェロヴチッチ(Nikola Zvonimir Bjelovučić)のものがある。1954年ドゥブロヴニクで発行されたビェロヴチッチの冊子「Etnografske granice, Hrvata i Slovenaca」(クロアチア人とスロベニア人の境界)には、1933年にビェロヴチッチが製作し、ユーゴスラビア王国とその周辺のクロアチア人地域の境界が示された地図が掲載されている。考慮すべき領土の拡張について示されたこの地図に示された領域は、アンテ・パヴェリッチのクロアチア独立国を彷彿とさせるものであった。クロアチアの一部として、ボスニア・ヘルツェゴビナ全域、バールの南までのコトル湾全域、ヴォイヴォディナのバチカ、ハンガリー領のバヤ(Baja)、ペーチ南西のドゥラヴァ川沿いに東はSt. Martin から西はレンダヴァまで、そしてシルミア(Syrmia)全域が含まれている。この地図は意図的に誤ってかかれ、単に事実に基づいた民族分布を示すよりはクロアチアの拡張への願望を表現したものであった。この領域は「クロアチア国家と歴史的権利」によりクロアチア領土とされる領域を全て包含している。

参考文献

  1. Vasilije Đ. Krestić, Genocidom do velike Hrvatske, Novi Sad - Beograd, 1998. [1]
  2. Dr Tomislav Bogavac, Nestajanje Srba, Niš, 1994.
  3. Lazo M. Kostić, Srpska Vojvodina i njene manjine, Novi Sad, 1999. (about Greater Croatian aspirations to Bačka and Syrmia)
  4. Lazo M. Kostić, Čija je Bosna?, Novi Sad, 1999. (about Greater Croatian aspirations to Bosnia)

関連項目

外部リンク