岳物語

岳物語
作者 椎名誠
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 私小説
発表形態 雑誌連載
初出青春と読書
1983年11月号~1985年4月号
刊行 1985年5月20日、集英社
1989年9月25日、集英社文庫
次作 『続 岳物語』(1986年)
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続 岳物語
作者 椎名誠
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 私小説
発表形態 雑誌連載
初出 『青春と読書』
1985年5月号~1986年6月号
刊行 1986年7月25日、集英社
1989年11月15日、集英社文庫
前作 『岳物語』(1985年)
次作 『大きな約束』(2009年)[1]
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岳物語』(がくものがたり)は、椎名誠による日本の私小説1985年集英社刊。椎名の長男・岳を作品のモデルとして、小学校生活6年間と中学校入学までの家族生活や、次第に訪れる岳の反抗期とそれを通じた自立・成長の姿を、父親である椎名自身の視点から描く。椎名の私小説路線の第一作であり[2]、代表作の1つと評価される[3][4][5]。本項目では1986年7月に刊行された続編『続 岳物語』、および正・続の2冊を改稿を加えた上で1冊に再編した『定本 岳物語』(1998年)についても併せて解説する。

作品概要・執筆背景

『岳物語』

1985年5月、集英社刊行。「きんもくせい」「アゲハチョウ」「インドのラッパ」「タンポポ」「ムロアジ大作戦」「鷲と豚」「三十年」「ハゼ釣り」「二日間のプレゼント」の9編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年9月刊行、文庫版解説は斎藤茂太[6]挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし[2]。また英語版も刊行されており、『Gaku Stories』(1991年講談社英語文庫)『My boy』(1992年、講談社インターナショナル)の2タイトルが存在する[2]

各短編は集英社『青春と読書』1983年11月号~1985年4月号に掲載[7]。最初から『岳物語』としての連載だったわけではなく、椎名が同誌に毎号30枚の短編小説を書くという企画に対して、初回に息子の岳を主人公にした初の私小説「きんもくせい」を発表したところ、編集者の好評を得て、岳と家族をテーマとした私小説としてシリーズ化されたものである[8]。『岳物語』のタイトルは9つの短編を纏めて単行本化する際に付されたものであり、表題作は存在しない。

本作の主人公[9]となる椎名の長男・岳は1973年7月生まれ、椎名が29歳の時の子である[10]。当時の椎名は流通小売系の出版社デパートニューズ社(後のストアーズ社)に編集者として勤務していた[10]。同社在籍中には処女出版となる『クレジットとキャッシュレス社会』(1979年、教育社)[11]ほか、複数の流通・小売系の専門書を上梓している。サラリーマン生活の一方、1976年には目黒考二らと『本の雑誌』の刊行を開始し、キャンピング集団「東ケト会」の企画など、後の作家生活の下地となる活動を展開しつつあった[10]1979年、『本の雑誌』誌上に掲載した『さらば国分寺書店のオババ』(情報センター出版局)が初のエッセイ集として単行本化[12]1980年3月には東ケト会の活動を描いた第2集エッセイ『わしらは怪しい探検隊』(北宋社)を発表し、後にシリーズ化される[13]。同年12月には椎名はストアーズ社を退職し、フリーの作家生活に入った[10]

岳が生まれ育った時期はこのように、椎名が「サラリーマンから転がるようにモノカキに転身」し[14]、「三十代の新米親父と作家デビューの時代が重なって」いたと語る[15]、家族生活においても仕事上でも大きな転換期であった。そうした折に連載小説の題材に困り、いたずら盛りの息子の行動をそのまま文章にしていれば作品が出来上がると考えて、家族の風景を書き始めたのが作品誕生の契機であった[14]。企画当初は単行本になることを想定していなかったために、椎名は軽く考えて主人公の名を本名のまま「岳」としたが、2年足らずで単行本化された上に続編まで執筆するベストセラーとなり、後年この点について「実名で書かれるほうはいろいろ困惑したようだ」「いやすまなかった」と述懐している[1][14]

『続 岳物語』

1986年7月、集英社刊行。「あかるい春です」「少年の五月」「盗聴作戦」「ガク物語」「ヨコチンの謎」「チャンピオン・ベルト」「冬の椿」「オバケ波」「骨と節分」「闇の匂い」「出発」の11編を収録。文庫版は集英社文庫から1989年11月刊行、文庫版解説は野田知佑[16]。挿絵は単行本・文庫版ともに沢野ひとし[17]

各短編は『青春と読書』1985年5月号~1986年6月号に掲載[18]。岳のエピソードは小学校中学年~高学年の出来事が中心となり、親への反抗と自立、父から離れて対等な一人前の男へと成長していく過程が描かれ、中学校入学祝いの餃子パーティーと入学式の日を描いた「出発」で物語は幕を閉じる。

『定本 岳物語』

1998年8月、集英社刊行。『岳物語』『続 岳物語』の2冊を再編して1冊に纏めた書籍。再編に当たって、家族に余り関係のないエピソードであった「インドのラッパ」「冬の椿」の2編が削除され、全編に亘って椎名が改稿を行っている[19][20]。また、作品のモデルとなった渡辺岳自身が、初めて自分の目から見た家族生活や、父の小説のモデルとされた事、「作家の息子」に対する周囲の反応などへの所感を綴ったエッセイ「「岳物語」と僕」を寄せている。

風呂場の散髪

『続 岳物語』中の一編「ヨコチンの謎」の一部は、「風呂場の散髪」(「ふろ場の散髪」)[注 1]の題名で、学校図書刊行の中学1年生国語科文部科学省検定済教科書に採用された[21][22]。保育園児の頃から約8年間、岳の髪が伸びたタイミングを見計らって父の椎名が声をかけ、自宅の風呂場バリカンを使って岳の散髪を行っていた習慣に、大きな変化が訪れた際のエピソードを描いている。なお、教科書収録に当たっては原作から一部表現の変更や、場面の割愛(散髪に素直に応じていた頃の岳が、髪を切られながらABCの歌替え歌を歌う場面など)といった編集が行われている。

あらすじ

岳が日増しに大人びてきた小学6年生の7月。シベリアでの取材旅行[注 2]を終えて帰宅した椎名は、すっかり岳の髪が伸びているのを見て散髪を提案するが、今まで素直に応じていた岳が「まだいいよ」とそれを断る。さらに夏休みに入るころになっても、なおも散髪に応じない岳に痺れを切らした椎名は、半ば強引に岳を風呂場に連れて行く。しかし、そこでも岳はシャツを脱ごうとせず、構わずバリカンを入れようとする父の手をつかみ、父の裁量で自分の髪を切られることの不合理を、上手く言葉で表現できないながらも涙を流して真剣に訴えた。父子の話し合いで、今後は風呂場での散髪をやめ、岳が自分のタイミングで床屋に行くことを決めた。その夜、この出来事を妻に話し「だんだん反抗的になってきているよ」と嘆く椎名だったが、妻にそれは反抗ではなく岳が自立期にきているのだと諭され、そういうことなのかもしれないと納得するのだった。

主な登場人物

ここでは、語り手である「私」とその家族、及び『岳物語』単行本冒頭で触れられる野田知佑のみを挙げる。椎名誠は妻の渡辺一枝との結婚に際して妻の姓に入り、本名は渡辺姓であるが、作中では主に「シーナ家」と表現される[3]。なお、岳の姉で渡辺家の長女である渡辺葉は、本作中には全く登場しない。

椎名誠の第2子で長男の渡辺岳がモデル。ただし、作中では姉の存在について言及がなく、一人っ子であるかのように描かれる。

両親ともに登山好きであったために岳と名付けられた。第1作「きんもくせい」の中では小学1年生で、作中を通じて中学校入学までの成長が語られる。父やその友人達によって幼少期からカヌーでの川下りなど様々な冒険に連れ出され、自宅では父と激しいプロレスごっこに興じてきたため、同学年の子どもと比して高い体力を有し、自由奔放な性格に育っている。特に釣りを愛好すると共に、地元の少年サッカークラブにも通っている。休日ともなれば昼過ぎまで起きて来ないほどよく眠り、少しでも長く寝るために翌日小学校に行く服装に着替えてから寝る、また朝食の前・最中・後と続けて大便に行くなど、独特の習慣の持ち主。小学校高学年になるにつれ、今まで無条件に懐き従っていた父親に対しても不器用に自分の意見を表明しようとする場面が増え、両親からの自立に向かって成長していく。

作者の椎名誠自身がモデル。本作は父親である「私」の視点から描かれる。東京都小平市に自宅を構える一家の長。物語の冒頭では「あまり稼ぎのよくないよろず雑文書き」と自称しているが、やがて作家随筆家雑誌編集者として多忙となり、取材旅行などにより自宅を空けることが多くなる。そうした事情もあって、長男の岳の教育は基本的に自由放任主義であるが、旅先のパタゴニアで現地の材料をかき集めて岳のために「パタゴニアチャンピオンベルト」を自作するなど、息子を想い、家にいる時間は最大限の触れ合いを持つよう努めている。小学校高学年に差し掛かるにつれ次第に無邪気に父に従うだけではなくなっていく岳の変化や反抗を、自立と成長の過程と理解しつつも頭を悩ませる。息子に対する強引で横暴な態度をしばしば妻や友人に窘められて反省するなど、子を通じて父自身も成長していく。

椎名誠の妻渡辺一枝がモデル。岳が通ったのとは別の保育園に勤める保母

野田さん

カヌーイスト野田知佑がモデル。椎名とは、自身の海外渡航の際に大切な愛犬のガクを預けるなど、深い親交を結んでいる。その息子の岳についても生まれた時から見守っており、小学生の岳を両親から預かって十勝川の川下りに同行させるなど、岳の人格形成に大きな影響を与えた人物である。『岳物語』の冒頭には「私の恩師であり私の息子岳の親友である野田知佑氏に―」という一文が添えられている。

ガク

野田知佑の飼い。世界中を冒険のため飛び回っている野田から一時的に椎名が預かっている。元々野良犬の仔であったのを野田が見出して飼い始めたため血統などは不明だが、主によってカヌー犬として育てられ、筋骨逞しい体躯と物怖じしない風格を備えた犬に成長している。多くの冒険を経てきた犬だけに散歩が大好きで、朝の散歩は私(椎名)の、夕方の散歩は岳の担当と決まっている。名前は椎名の息子の岳にならって付けられたものだが、紛らわしいため椎名の友人たちは犬のガクを「犬ガク」、椎名の息子を「ひとガク」と呼ぶ。

評価

渡辺岳

父の椎名によれば、後年の岳は本作に対して大変に怒ったという[2]。『定本 岳物語』(1998年)の刊行に際して渡辺岳本人はエッセイ「「岳物語」と僕」を寄稿し、初めて自らの筆で所感を表明している。この中で渡辺は、本作の発表以後、事あるごとに「『岳物語』の岳」として他人に先入観を持って接されたこと、周囲の声から想像される主人公の「元気はつらつの岳少年」と現実の自分自身との乖離、ある者は「親の七光」と冷たく当たりまたある者は過剰に優しく接してくる大人達の反応、そうしたものに窮屈さを感じ続け、『岳物語』を未だに読むことができていないと語っている[23]。結びでは「本当の『岳物語』というものは、僕の心の奥深くにあり、今でもしっかりと続いているのです」と綴っている[24]

目黒考二

目黒考二にとって椎名は、『本の雑誌』の編集作業や東ケト会の活動などを共にする「仲間うち」の存在であり、そのために普段は敢えて椎名の著書について評することを避けていた[25]。しかし本作については『本の雑誌』連載の読書ガイド「新刊めったくたガイド」(北上次郎名義)の中で「一度だけ禁を破る」として『岳物語』を紹介するほど気に入っている[26][25]。この読書ガイドの中で目黒は『岳物語」について、親子の交流の背後に椎名自身の父親の姿をだぶらせている点、そして作品の底流に流れる、たとえ親子でも人生のある一時期しか濃密な関係を持ち得ないという哀しみを作品の魅力として挙げ、「若い父親諸君はぜひ読んでほしい」と評している[25]。後年の椎名へのインタビューの中では、『続 岳物語』はさらに良いと評し、『岳物語』『続 岳物語』の文庫化に際して、気に入った作品なのでぜひ解説を書かせて欲しいと椎名に頼んでいたにも関わらず、すっかり忘れられていたというエピソードを明かしている[26]。目黒は本作が広く読者を獲得した要因について、作中の父親(椎名)は決して立派な教育者ではなく、息子に対して横暴ですぐ怒り、それを妻や友人に窘められて反省する、そうしたどこにでもいるような父親の姿に、読者が自己を投影し共感を得られたからだと分析している[8]。また、『定本 岳物語』に収められた渡辺岳本人によるエッセイに関しても、モデルとして書かれたことの戸惑いを実に正直に書いていて素晴らしい、と評している[20]

書誌情報

  • 椎名誠『岳物語』集英社、1985年5月20日。ISBN 4-08-772524-3
  • 『岳物語』(文庫版)集英社〈集英社文庫〉、1989年9月25日。ISBN 978-4-08-749490-7
  • 椎名誠『続 岳物語』集英社、1986年7月25日。ISBN 4-08-772569-3
  • 『続 岳物語』(文庫版)集英社〈集英社文庫〉、1989年11月15日。ISBN 978-4-08-749507-2
  • 椎名誠『定本 岳物語』集英社、1988年8月10日。ISBN 4-08-774347-0

脚注

注釈

  1. ^ 題名のかな・漢字は編集年度によって異なる。平成28年度版では「風呂場」である。
  2. ^ 週刊ポスト』に連載した、大黒屋光太夫の足跡を辿ったノンフィクション『シベリア追跡』のための取材旅行のことである。

出典

  1. ^ a b 家族のあしあと、280頁(あとがき)。
  2. ^ a b c d 自走式漂流記、404-405頁。
  3. ^ a b 椎名誠の世界”. 浦安市立図書館. 2019年6月26日閲覧。
  4. ^ 柏崎日報復刊50周年で椎名誠さん講演会”. 柏崎日報 (1998年5月20日). 2019年6月26日閲覧。
  5. ^ 熱い夏、でっかい空、どろんこで駆ける球児 椎名誠さん”. スポーツブル (2018年8月19日). 2019年6月26日閲覧。
  6. ^ 岳物語(文庫版)、262頁(解説)。
  7. ^ 岳物語、奥付。
  8. ^ a b 椎名誠の仕事 聞き手 目黒考二 『岳物語』その2”. 椎名誠 旅する文学館. 2019年6月26日閲覧。
  9. ^ 家族のあしあと、279頁(あとがき)。
  10. ^ a b c d こんな風に生きてきた”. 椎名誠 旅する文学館. 2019年6月26日閲覧。
  11. ^ クレジットとキャッシュレス社会”. 椎名誠 旅する文学館. 2019年6月26日閲覧。
  12. ^ さらば国分寺書店のオババ”. 椎名誠 旅する文学館. 2019年6月26日閲覧。
  13. ^ わしらは怪しい探検隊”. 椎名誠 旅する文学館. 2019年6月26日閲覧。
  14. ^ a b c 家族のあしあと、278頁(あとがき)。
  15. ^ 孫物語、221頁(あとがき)。
  16. ^ 続 岳物語(文庫版)、292頁(解説)。
  17. ^ 自走式漂流記、410頁。
  18. ^ 続 岳物語、奥付。
  19. ^ 定本 岳物語、428頁(あとがき)。
  20. ^ a b 椎名誠の仕事 聞き手 目黒考二 『岳物語』その3”. 椎名誠 旅する文学館. 2019年6月26日閲覧。
  21. ^ 中学校国語 平成28年度用 編集の趣旨と特色 (PDF) .学校図書.2019年6月26日閲覧。
  22. ^ 中学校国語1(2001)、6-17頁。
  23. ^ 定本 岳物語、452頁。
  24. ^ 定本 岳物語、460頁。
  25. ^ a b c 新刊めったくたガイド大全、128-129頁。
  26. ^ a b 椎名誠の仕事 聞き手 目黒考二 『岳物語』その1”. 椎名誠 旅する文学館. 2019年6月26日閲覧。

参考文献

  • 椎名誠『自走式漂流記 1944~1996』新潮社新潮文庫〉、1996年。ISBN 4-10-144818-3
  • 椎名誠『大きな約束』集英社、2009年。ISBN 978-4-08-771281-0
  • 椎名誠『孫物語』新潮社、2015年。ISBN 978-4-10-345623-0
  • 椎名誠『家族のあしあと』集英社、2017年。ISBN 978-4-08-771115-8
  • 北上次郎『新刊めったくたガイド大全』本の雑誌社、1995年。ISBN 4-938463-48-2
  • 日本子どもの本研究会(編)『新・どの本よもうかな? 中学生版 日本編』金の星社、2014年。ISBN 978-4-323-01597-2
  • 『中学校国語 1』学校図書(平成13年度文部科学省検定済教科書)。

外部リンク