幸手宿

幸手宿(さってじゅく)は、江戸時代に整備された日光街道奥州街道、そして日光御成道宿場町の一つ。

概要

幸手宿は平地に位置している。江戸日本橋から数えて6番目の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)で、下総国(後、武蔵国に属する)葛飾郡にあった。宿場町は現在の幸手市中部から北部にかけての旧街道筋付近に位置し、南北900メートル程度の範囲で広がっていた。江戸(日本橋)から幸手宿の距離は12里であった。また、幸手宿前(旧上高野村)にて日光街道と日光御成道が合流していることから、日光御成道の6番目の宿駅であった。

背景

奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄えていた。 かつて、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸し、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古文書に残っている。 鎌倉時代には鎌倉街道が通じ、軍事交易上でも交通の要衝として栄えていた。室町時代以降は一色氏領地となり、天神神社付近に陣屋が築かれていた。

歴史

奥州・日光街道の開発と幸手宿の指定

江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となった。日光・奥州街道と日光御成道との合流点として、さらに筑波道が分岐する宿場町となった。
下総国葛飾郡に属していたが、万治年間1658年1660年)より武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。

その後、元禄年間1688年1704年)より幸手宿と称されるようになった[1]
新編武蔵風土記稿』によると、元和2年人馬の継立が始まり、夫25人、馬25匹を定数とした。地子免許の地を1万坪、助郷を1万1845石あり、民家845軒、そして毎月27日に六斎市が行われた[2]

天保期前半(1830年代)の打ちこわし

天保4年・同7年を中心に東日本を襲った凶作(天保の大飢饉)とそれに伴う物価高騰により、幸手宿では打ちこわしがあった[3]。古文書『幸手宿打毀一件 天保四年巳十月』により示されている[4]

繁栄

天保14年(1843年)によると、高2095石6升、当時の人口は3,937人、家数962軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋27軒、問屋場1ヵ所、問屋4人であった[5]。両隣の杉戸宿栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場あり、宿場として千住宿宇都宮宿陸奥白川宿越ヶ谷宿に次ぐ規模であった。

安政江戸地震

幸手宿では、安政2年10月2日安政江戸地震による被害があった。震度は、「ⅤとⅥの 中間,それもVIに近い方とみられー(中略)ーこの地震では、荒川沿いに震度Ⅴ以上の所が北にのび熊谷に達している」[6]。『安政二卯年十月、大地震ニ付潰家其外取調書上帳幸手宿村々』 [7]によると、幸手宿周辺の村々の安政江戸地震の被害の記録があり、幸手宿は家数1,089軒に対し、潰数2軒、人家土屋物置等潰同様1027軒との被害があったという[8]

幸手宿の経済

幸手御殿

幸手宿には、聖福寺境内に御殿が設置された[9]。御殿焼失後利用されたのは、建物の本堂の一室が利用された[10]。日光社参での主要なルートには、日光御成道を北上し幸手で日光街道に入り、日光へ至るとするものであった[11]。『徳川実記』によると、日光社参で御殿は、家光の寛永17年、19年、慶安元年、家綱の慶安2年、寛文3年、吉宗の享保13年、家治の安永5年、家慶の天保14年で休泊に利用した[12]

権現堂河岸

権現堂河岸は、幸手宿の東北14町30間の権現堂村の古利根川沿いに設置された河岸場で、幸手宿を中心に集散する物資や年貢米の移出入が行われた[13]

江戸時代前期、伊奈氏により利根川東遷事業が行われ、権現堂川江戸川が整備された。新田開発による米作の増大と相まって、これらの川を利用した江戸との間を結ぶ舟運が発展した。

名所・旧跡・接続道路等

道路

  • 奥州街道
  • 日光街道
  • 日光御成道
  • 筑波道
  • 日光御廻道

隣の宿

  • 日光街道、奥州街道
杉戸宿 - 幸手宿 - 栗橋宿
  • 日光御成道
岩槻宿 - 幸手宿

地名(小字など)

脚注・参考資料

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  1. ^ 武蔵国郡村誌 第十四巻(260ページ)』 埼玉県立図書館 発行 昭和三十年三月二十八日 発行。
  2. ^ 長谷川(1980)、96・97頁。
  3. ^ 長谷川 伸三(1980)95・96頁
  4. ^ 史料『幸手宿打毀一件』は、京都大学文学部古文書室所蔵。
  5. ^ 天保14年(1843年)『日光道中宿村大概帳』に拠る。
  6. ^ 宇佐美(1980)、87頁
  7. ^ 『安政二卯年十月、大地震ニ付潰家其外取調書上帳幸手宿村々』は、京都大学文学部所蔵。
  8. ^ 宇佐美(1980)、87-89頁。
  9. ^ 中島(1979)、54頁。
  10. ^ 中島(1979)、61頁。
  11. ^ 中島(1979)、55-57頁。
  12. ^ 中島(1979)、55頁。
  13. ^ 埼玉県立図書館(1955)

参考資料

古文書(一次資料)

和書

  • 長谷川 伸三「天保4年武蔵国幸手宿の打ちこわしをめぐって」『商学討究』第31巻第2号、小樽商科大学、1980年、 95-112頁。
  • 宇佐美龍夫「地震災害と地形・地質 2. 安政江戸地震における被害の微細分布: マイクロゾーニングのための一資料として」『土と基礎』第28巻第4号、地盤工学会、1980年、 85-89頁。
  • 埼玉県編『武蔵国郡村誌』第14号、埼玉県立図書館、1955年、 260-265頁。
  • 埼玉県編『武蔵国郡村誌』第15号、埼玉県立図書館、1955年、 277-278頁。
  • 中島義一「徳川将軍家御殿の歴史地理的考察 (第 3 報): 日光社参の場合」『駒澤地理』第15号、駒澤大学、1979年、 53-67頁。