振武寮

振武寮(しんぶりょう)とは、福岡の旧日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた施設。軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいであり、福岡女学院の寄宿舎を接収して設置された。所在地には現在福岡市九電記念体育館が建つ。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の倉澤清忠少佐。戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』が上映された1993年以降にその存在が明らかにされた。

概要

現在の福岡県立福岡中央高等学校

振武隊(西日本にあった陸軍航空部隊第6航空軍指揮下の特別攻撃隊の名称)の特攻隊員として出撃したが、何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員が収容された施設である。要因とは様々あり、悪天候・エンジントラブル・機器トラブル・敵機の攻撃のような外的要因から、心理的な死に対する恐怖心や、確実な戦果を期待し「犬死」を惜しむあまり引き返してしまうなど内的要因まであった[1]

陸軍特攻隊初出撃となった1944年11月7日に出撃した「富嶽隊」の四式重爆撃機「飛龍」の特攻改造機と号機5機の内4機が接敵できず帰還、翌日も残り4機が出撃し全機帰還しており、特攻最初期から接敵できなかったり、天候の問題によりかなりの比率で特攻機が帰還することは認識されており[2] 、陸軍航空隊が沖縄戦前に特攻隊員の教育用に作成した教本「と號空中勤務必携」にも、出撃した特攻隊員が帰還する際の具体的手順や心得が記載されているなど陸軍航空隊としては特攻機の帰還は想定していたが[3]沖縄戦天号作戦中に、第6航空軍指揮下で特攻出撃し帰還した搭乗員の一部が出撃しても突入せず帰還した場合に、「死を恐れる卑怯者」や「故意に乗機を破損して帰還した」と非難され「振武寮」に収容され、差別的待遇を受けたとされる[4]

同様な施設は海軍航空隊には存在を確認されていない[5]

倉澤が保管していた第6航空軍が作成した『振武隊編成表』によると[6]、特攻隊員1276人中605人が生還しており、そのうち一部の隊員の備考欄に「在福岡」の記載が見受けられ、振武寮に送致されたことを意味すると考えられているが、振武寮が存在した期間は1945年の5月から6月頃までの1ヶ月半ほどで、収容された特攻隊員は約50人[7]~80名と帰還搭乗員の中では1割前後の比率となっている[8]

軍の公式記録には一切の記録なく[9]、施設の責任者である第6航空軍司令菅原が書き残している日記にも記述はなく[注 1][10]、施設の運営責任者とされる倉澤も「振武寮という名前の施設は存在しない『裁縫室』と呼ばれる部屋に特攻隊員を匿っていた」[11]や「待機していた特攻隊員を軍用旅館として利用していた博多駅前の旅館大誠館に収容していたが満杯となったため、第6航空軍が接収していた福岡女学院寄宿舎を利用しただけで、強制的に収容していたわけではない」[12]と陸軍当事者は存在を認識していなかったか、否定をしているため、収容された特攻隊員らの証言によりその概要が一部明らかになっている[13][14]

設立

1941年以前の博多駅、この駅前に特攻隊員が宿泊した軍用旅館『大誠館』があった。

開設された時期は、菅原の「徒歩にて高女の方に初登庁。特攻隊員の帰還者の集合しあり、室広く従来に比して各段の差ありて可」という日記の記述を元にして5月6日とする説があるが[15]、はっきりしない。

1945年3月に天号作戦に備えて第6航空軍は司令部を東京から福岡に前進させ、3月4日に福岡高等女学校の施設の内、授業に使用する3つの教室を除き、全てを司令部関連施設として接収したが[16]、倉澤の証言によれば「私の立場はね、特攻隊がみんな行って、みんな突っ込んでくれるという前提で仕事をしてたんですよ。だから私の方では、そんなにたくさん帰ってくるとはね、夢、考えなかったです。」[17]とのことで、第6航空軍が想定していなかった帰還特攻隊員の扱いに困り、慌てて陸軍が軍用旅館として利用していた博多駅前の旅館大誠館に収容したが満杯となり、福岡女学院寄宿舎に収容するようになり、それが振武寮となったとしている[18]

しかし、沖縄戦初期の1945年4月6日に出撃した第29振武隊山田忠男伍長の回想によると、4月3日に福岡の第6航空軍司令部に出頭した際に5日まで福岡に滞在しているが、宿舎は「福岡県立高等女学校の寄宿舎の仮兵舎」(振武寮の置かれた建物)と回想しており、振武寮が開設されたとされる5月中より1か月も前に特攻隊員の兵舎として利用されていたとする証言もある[19]

設立された経緯や理由もはっきりしない。責任者の第6航空軍菅原は、帰還した特攻隊員相手に激しい訓話を行っているが、「某軍曹がまた帰ってきた。エンジンの不調は直ったのにまた帰ってきたという話が耳に入ったが、不問に附した。之は不適格だと言うことは判る。しかし特攻隊員免除と言えば名誉を失墜させ当人を殺すことになる」や「士気振策上、軍旗粛清上甚だ生暖かい統率の仕方という批判もあるだろうが、特攻だからといって機材の不調なのに遮二無二に征けと言うわけにはいかない(中略)たとえ臆病が理由としても水かけ論に終わる。(中略)この種のこと(特攻機の帰還のこと)で軍司令官として特に処理した覚えはない」[20]と自らの特攻帰還者処置への関与はなかったとしている。

倉澤の証言によれば、「引き返した理由は様々だが、自分が現場を見ていないので、彼らの言い分は信用しなかった。(中略)中には損傷の全くない機体もあり、故障だ、天候が悪い、敵機の攻撃で不時着したというが、彼らは死にたくないから引き返したとは絶対に言わないものだ。(中略)そういうことが何回も続くと、編成参謀としては、疑いざるを得なくなる。第6航空軍としては、対策を立てなければならない。それが1人や2人じゃない。その世話をするのが、操縦士出身の参謀の私しかいない。収容施設とは明らかに言えないから、寄宿舎と内部では呼んだ。沖縄特攻隊は全て振武隊だから彼らは勝手に振武寮と呼んだのだと思う。収容された特攻隊員は、倉澤が強制収容したと決めてかかっているが、事実はそうではなくて第6航空軍上部の方針なんだ。」と証言しており、『何度も理由不詳で帰還する特攻隊員』を『第6航空軍の命令で』収容した施設であったとしている[21]

しかし倉澤は、上記の証言と矛盾する「強制収容はしていない」[22]と証言したり、振武寮のことを『裁縫室』と呼んでいた[23]。と証言もしていることから、詳細は不明である。

また、倉澤は第6航空軍の方針に従ったとしているが、1945年5月28日に喜界島より陸軍の爆撃機で帰還した不時着特攻隊員28名の処遇を決める第6航空軍参謀会議の内容について、倉澤が自ら「すぐ出撃させるか、精神教育を行って再び出撃させるか、参謀の中で意見が割れて結論が出なかった。」と沖縄戦が終盤に差し掛かった時期にも、第6航空軍の中で帰還特攻隊員に対する対応方針が決まっていなかったことを証言し[24]、「彼ら(帰還特攻隊員)を収容した頃は、すでに沖縄戦末期で、事実上の特攻作戦は終わっていた。」と証言しているが[25]、振武寮は遅くとも5月初めには設立されており、その時期は菊水作戦第5号、第6号の時期で、特攻により正規空母バンカーヒルエンタープライズ が大破し、大量の死傷者を被り撤退するなど[26]、沖縄戦での航空特攻戦最盛期の頃であり、完全な記憶違いをしているなど、倉澤の証言には矛盾が多く[27]、信頼性に乏しい。

運用

振武隊の特攻機として沖縄戦に多数投入された四式戦闘機知覧特攻平和会館の展示機

乗機が損傷や故障により帰還して特攻隊員が代替機を福岡平尾にあった第6航空軍司令部に受け取りに行くと、待ち受けていた倉澤より「貴様らなんで帰ってきた!卑怯者のお前たちに与える飛行機なんてない」と罵倒され、「博多駅前の大誠館で待機しておれ」と何日も陸軍の軍用旅館に足止めさせられていたが[28]、その後の1945年5月のある日に、大誠館に押し掛けた特攻隊員の妻女が、夫の拳銃を奪い自殺を試みたのに対し、夫の特攻隊員が軍刀でそれを制止しようとし大騒動となった。後に『ピストル事件』と呼ばれたが、倉澤はこの事件で精神が不安定な特攻隊員を野放しにすると危険と考え、特攻隊員の一部を民間の旅館から軍の施設となっている福岡高等女学校の寄宿舎に移すようにしている[29]

寄宿舎には『振武寮』という看板が掲げられ、周りは塀と鉄条網で囲われ[30]、小銃を携えた歩哨が2名立っていた[31]。2階建てで、1階は下士官、2階が将校用であり、ずらっと並んだ2名が居住する8畳の部屋に収容隊員が寝泊まりした。施設からの外出は禁止で、手紙や電話による外部との接触も厳禁とされていた[32]

特攻隊員らが朝食を食べていると、倉澤ら参謀が酒臭い息を吐きながら食堂を訪れ「命が惜しくて帰ってきたろ、そんなに死ぬのが嫌か、卑怯者。死んだ連中に申し訳ないとは思わんのか」[33]「お前ら軍人のクズがよく飯を食えるな」と罵倒したという[34]

この待遇に不満を抱いた陸軍士官学校出身のある中尉が、振武寮から二式戦闘機で特攻出撃を命じられた牧甫少尉に、中尉が司令の菅原や倉澤ら参謀を一室に集めるから、そこに牧甫が特攻してほしいと要請したこともあるなど(この時は出撃が中止となったので未遂)隊員らは不満や恨みを募らせていた[35]

振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など精神再教育的なものが延々と続けられた[36]九州帝国大学の助教授による元寇に関する講話も受けている[37]。 寮内の雰囲気は、「みんなが特攻隊員かと見まがうほど生気のない憔悴しきった顔をしていた」という証言や[38]、「みな一日中部屋に引きこもりひっそりしていた。たまに部屋の中から小声で歌っている声が聞こえてきた。生気のない顔でこれがあの特攻隊員かと思うと悲しくなった」という証言がある一方で[39]、「下士官連中は意外と明るく、元気が溢れるばかりであった。」とする証言もある[40]。また、第54振武隊小川光悦少尉によれば、振武寮に到着した夜に、K参謀(倉澤のことと思われる)から軍人勅諭の書き写しは命じられたが、翌朝からは本部前の振武寮とは別棟にて沖縄への航法の一般的な講義を受けている[41]

振武寮が設営されて1ヶ月も経たない1945年6月初めに日本発送電福岡支店内本支店長が、第6航空軍に同社女子社員と振武寮収容隊員とのお茶会を申し出たところ、菅原は快諾、倉澤も最初は「お茶会で若い女性を見ると変心して、出撃の意思を失ってしまうのではないか、私はそれを恐れているのです。」と難色を示したが、菅原の執り成しにより許可している[42]。内本支店長は裏千家の師匠でもあり、支店長所有の振武寮にほど近い薬院の山荘に、20代の若い女子社員30名を集め和装させて隊員らを迎えたが、隊員らが緊張して話が切り出せない中で、第22振武隊大貫健一郎少尉が話を切り出すと、女子社員も話しだして場が和みしばし談笑した。その中で女子社員からは「こんな若い人たちが特攻で死ぬなんて信じられない、初めから死ぬことがわかって出撃するなんて」などと軍を批判するような発言もあり、大貫も同意したが特に咎めれることもないなど自由な雰囲気で茶会は進んだという。茶会の終わりには女子社員の方からマスコット人形などのプレゼントが渡されるなど、女子社員と隊員らは非常に懇意となっている[43]。茶会の翌朝に隊員の多くが振武寮を抜け出し、日本発送電の事務所に訪れて、女子社員らに会いに行っている。大貫は自分が仲良くなった娘が会社を休んでいることを知ると、大濠公園近くの自宅を探し出して訪問している。そこで女子社員が近日中に上京することを聞きつけると、弟にアルバムを渡すように言付けているなど、施設からの出入りや物の持ち出しはそれほど厳格な管理はなされていなかった[44]

このお茶会の終わった後、倉澤が出席者の一人である第42振武隊の中野友次郎少尉に「卑怯者が帰ってきたか」と嫌味を言ったところ、中野は立腹し倉澤を殴り倒している。本来、軍隊で部下が上官に暴力を振るうのは重罪であるが、倉澤は菅原と参謀の青木喬少将に呼び出されると、青木から「私の編制した部下に何か文句があるのか、立派に戦って戻った者を」と、階級が下の収容隊員に殴り倒されたにも関わらず逆に叱りつけられ、中野はそのまま原隊に復帰し咎められることもなかった[45]。倉澤は、この事件後、特別操縦見習士官にあまり干渉しなくなったという。そのため、このお茶会により、内本支店長とも懇意になった隊員らは、歯医者の手配なども内本に頼み、歯医者通院名目で毎日自由に外出できるようになった[46]

また、振武寮は外部との接触禁止との建前であったが、福岡高等女学校の女学生の慰問は継続的に受けていた[47]。女学生らは学校の講堂で学芸会を開き、日本舞踊を踊り、海ゆかばを歌って隊員を慰めた[48]。その内、第67振武隊山岸聰少尉は女学生の1人と懇意になり、振武寮を抜け出して大濠公園でデートを繰り返し、戦後にその女学生と結婚している[49]。その大濠公園では、休暇をとった他の特攻隊員らもボート遊びに興じており、戦時中の軍の施設の運営状況としては、比較的自由な環境であった事実も判明している[50]

結末

福岡大空襲の戦災記念碑

大貫少尉が司令部付の下士官に、帰還特攻隊員に対する第6航空軍の方針を聞いたところ

  • 代替機は与えない。故意の不時着などによる大切な飛行機の破損、自暴自棄による自爆、離陸後に無人島などに不時着し逃亡の恐れがあるからである。本土決戦の際に水際特攻の第一陣として送り出すのが上策である
  • 帰還したことを軍機密とし、絶対に口外してはならぬ。当人たちも絶対に原隊に帰りたくないだろうし、その事実を極秘にしておきたいだろう
  • 1945年7月には本土決戦の際の配置を決め、新しく編成された隊に各自バラバラに転属させる

などと話し合われたと聞いているが[51]、実際には喜界島から帰還した横田少尉と宮崎少尉が倉澤に特攻機の受領を直談判したところ、倉澤より「特攻機を受領する早道は原隊に戻るしかない。」と言われ、即日両名とも原隊に復帰したり[52]、倉澤を殴り倒した中野少尉がそれから間もなく原隊に復帰しているなど[53]この方針が本当に軍の方針として確定したものであったかは不明である。

振武寮は1945年6月20日福岡大空襲の際に、焼夷弾が至近距離に落ちて延焼したが、特攻隊員らの消火活動により半焼で済んでいる。しかし復旧の目途も立たず、6月21日には代替機受領予定の特攻隊員は原隊に戻された[54]。第6航空軍司令部やその施設は福岡大空襲後、平尾の山中に移転することとなり、倉澤も7月10日付で鉾田教導飛行師団に転属がきまったため、残った特攻隊員も原隊に戻ることとなった。中には島津少尉のように原隊に復帰後に、他飛行隊に転属が決まると、転属先の部隊長から「特攻生き残りの連中をここに置くわけにはいかん」と配属拒否されたり、片山少尉のように航空隊司令から「貴官らを迎えるのは誠に遺憾である」と嫌味を言われ礼遇されたものもあったが、多くは本土決戦用の特攻隊員として各地に配属され終戦を迎えた[55]

終戦が決まると、陸軍航空隊関係者だけで58名もの将官や指揮官らが責任をとって自決した[56]。振武寮責任者の菅原も初めは自決を考え、日記にもそのタイミングを「九州を去る時」「軍司令官罷免の時」「敵の捕手、身辺に来る直前」などと計画していたが[57]、その後に「正に然り、特攻精神の継承、顕彰は余を以って最適任者たること、予之を知る」(海軍側については宇垣中将、大西中将既に無く、福留繁中将あるも極めて限定的なり)[58]と自決することを断念し、今後は特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決心している[59]。管原はその後、特攻隊員の慰霊団体公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会の設立や知覧特攻平和観音堂の造立など、特攻隊員の慰霊・顕彰に尽力し成果を挙げたが、潔く自決した指揮官らと比較して卑怯者との評価も根強い[60]

終戦後、倉澤は一橋大学を卒業し印刷会社の社長にまで栄達したが、1945年の終戦から1996年までの51年間もの間、生き残りの特攻隊員や遺族の報復を恐れて、軍刀拳銃を隠し持っていた。「多くの隊員を出撃させたので、恨みに思われるのは仕方ないし、遺族からも反感を買っているので、いつ報復されるかわからないと、夜も安心して寝ることができなかった。80歳までは自己防衛のために、ピストルに実弾を込めて持ち歩き、家では軍刀を手離さなかったんです」と告白している[61]

その拳銃や軍刀は、倉澤が生前林えいだいから振武寮に関する取材を受ける7年前に「平和な時代にそぐわない」と手離すことを決心し、自ら保谷警察署に届け出たが[注 2]、その際に「敗戦時に父に預けたものが遺品の中から偶然出てきた」と嘘の説明をし、長い期間銃砲刀剣類所持等取締法の容疑者として取り調べを受けたが、最終的に訴追されることはなかったという[62]

振武寮で差別的待遇を受けた特攻隊員らに恨まれる一方で、倉澤は陸軍航空碑奉賛会の事務局長を永年勉め、陸軍航空同人会の活動にも深く携わるなど、陸軍航空隊の歴史研究や同窓活動に大きく貢献しており、その面での評価は高かったという。但し晩年の振武寮に関する矛盾した証言と態度で評価を大きく落としてしまった[63]

関連文献

  • 高木俊朗『特攻基地知覧』(角川文庫、1979年) ISBN 4-04-134501-4
  • 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』(光人社NF文庫、2007年) ISBN 978-4-7698-2529-6
  • シュミット村木眞寿美『もう、神風は吹かない 「特攻」の半世紀を追って』(河出書房新社、2005年) ISBN 4-309-01717-7
  • 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』(東方出版、2007年) ISBN 978-4-86249-058-2
  • 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た』(講談社、2009年) ISBN 978-4-062155168 大貫健一郎は歌手大貫妙子の父親。
  • 伊藤慎二『福岡市中央区薬院の戦争遺跡:陸軍振武寮とその周辺』西南学院大学学術研究所 ISSN: 09130756 西南学院大学国際文化論集
  • 押尾一彦 『特別攻撃隊の記録 陸軍編』 光人社、2005年。ISBN 978-4769812272
  • デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下、時事通信社、1982b。ASIN B000J7NKMO。
  • 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』立教大学史学会

脚注

  1. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.256
  2. ^ 押尾一彦 『特別攻撃隊の記録 陸軍編』P.10
  3. ^ 押尾一彦 『特別攻撃隊の記録 陸軍編』P.96
  4. ^ デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下 P.125
  5. ^ デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下 P.125
  6. ^ 振武隊編成表 軍事機密(用済後焼却)靖部隊『飛行第244戦隊HP』より”. 2017年3月11日閲覧。
  7. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.152
  8. ^ NHKETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育
  9. ^ NHKETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育
  10. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.252
  11. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.253
  12. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.85
  13. ^ 大貫健一郎、渡辺考『特攻隊振武寮 証言:帰還兵は地獄を見た
  14. ^ 西日本新聞記事『振武寮』1993年8月11日~15日
  15. ^ 『偕行』平成7年12月号 P.34
  16. ^ 伊藤慎二『福岡市中央区薬院の戦争遺跡:陸軍振武寮とその周辺』 P.48
  17. ^ NHKスペシャル「学徒兵 許されざる帰還 陸軍特攻隊の悲劇」2007年10月21放送
  18. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.84
  19. ^ 振武寮の虚構『飛行第244戦隊HP』より”. 2017年3月11日閲覧。
  20. ^ 菅原道大『特攻作戦の指揮に任じたる軍司令官のとしての回想』「8、特攻総ざらえ 4、帰還の頻度」1969年 P.79~82
  21. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.228
  22. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.85
  23. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.253
  24. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.226
  25. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.228
  26. ^ デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下 P.165
  27. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.72
  28. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.198
  29. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.169
  30. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.213
  31. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.230
  32. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.69
  33. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.69 第22振武隊大貫健一郎証言引用
  34. ^ NHKETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育
  35. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.155
  36. ^ NHKETV特集」『許されなかった帰還 ~福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争~』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育
  37. ^ 菅原道大『菅原道大日誌』6月18日
  38. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.150
  39. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.76 第216振武隊石川二郎少尉『振武寮日誌』から引用
  40. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.249 第54振武隊小川光悦少尉記述『第11錬成飛行隊以降之顛末記』より引用
  41. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.251 第54振武隊小川光悦少尉記述『第11錬成飛行隊以降之顛末記』より引用
  42. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.233
  43. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.236
  44. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.238
  45. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.241
  46. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.238
  47. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.153
  48. ^ 西日本新聞記事『振武寮』1993年8月11日
  49. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.238
  50. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.252 第54振武隊小川光悦少尉記述『第11錬成飛行隊以降之顛末記』より引用
  51. ^ シュミット村木眞寿美『もう、神風は吹かない 「特攻」の半世紀を追って』P.241
  52. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.230
  53. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.242 『航跡』(幹部候補生第9期の手記)より引用
  54. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.259
  55. ^ 林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』P.271~273
  56. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.239
  57. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.244
  58. ^ 菅原道大『菅原道大日誌』9月23日
  59. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.251
  60. ^ 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』P.239~P.255
  61. ^ 『特攻隊振武寮』p.282
  62. ^ 『特攻隊振武寮』p.283
  63. ^ 「史苑」第68巻1号 加藤拓 『沖縄陸軍特攻における「生」への一考察』P.73

注釈

  1. ^ 4月6日に四式戦闘機配備の制空戦闘隊第102戦隊の1/3と特攻隊1/5が不出撃もしくは引き返ししたことを嘆く記述、5月28日全軍に軍人勅諭奉読式をさせたこと、6月8日に引き返した特攻隊員数十名を前に訓話したことは記述。
  2. ^ しかし、倉澤が居住していた西武鉄道池袋線保谷駅近隣にこのような警察署は過去も現在も存在せず、実際には田無警察署である