松竹歌劇団

松竹歌劇団(しょうちくかげきだん)は、宝塚歌劇団OSK日本歌劇団と並ぶ日本の三大少女歌劇のひとつとして、かつて存在した劇団。SKDとは、劇団名であった「松竹歌劇団」(Shochiku Kageki Dan)の略称。

東京を代表するレビューを主とした歌劇団であり、浅草国際劇場を本拠地とし、「西の宝塚・東の松竹」とも呼ばれ、戦前・戦後を通し一時代を築いた。

1955年「東京踊り」フィナーレ

概要

「秋のおどり」「祖国」を上演中の国際劇場(昭和12年9月)

1928年(昭和3年)、東京松竹楽劇部として発足。同年松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)東京公演への応援出演をきっかけに、翌1929年(昭和4年)11月より単独での活動を開始する。

戦後、松竹歌劇団に改称後は国際劇場の大舞台を最大限に利用した「屋台崩し」、15間の舞台にずらりと並んだラインダンス「アトミックガールズ」、精鋭団員8名で構成された妖艶かつ華麗なダンス「エイト・ピーチェス」、本物の水を大量に使用した大滝のセットなどの舞台は東京名物ともなった。定期公演の一部は必ず日本舞踊や日本の地域の祭りをフィーチャーした舞台が組み込まれ、外国人観光客にも好評だった。

その後、娯楽の多様化等により徐々に衰退。1982年(昭和57年)には国際劇場が閉鎖され本拠地を失った。その後、1990年(平成2年)を最後にレビューを打ち切り、ミュージカル劇団への転身を図ったが成功せず、1996年(平成8年)に突如解散した。

解散から1年後の1997年(平成9年)には、解散時のメンバー西紀佐江子を代表としたOGらによって新たに薔薇笑亭SKD(バラエティSKD)が組織され、レビューの継承と新人育成を目的に、現在まで継続的に活動を行っている。一方、元トップスター・千羽ちどり、高城美輝、明石薫、銀ひ乃でらを中心としたSTASもレビュー終了後の1992年(平成4年)より活動を続けている。


歴史

レビュー全盛期

1934年「ローゼン・カヴァリア」左から水の江瀧子・熱海芳枝・小倉みね子オリエ津阪江戸川蘭子

少女歌劇の隆盛を背景に、1928年(昭和3年)10月12日、 松竹楽劇部(後のOSK日本歌劇団)の東京版として東京松竹楽劇部が発足。松竹楽劇部の東京公演に応援で出演し、翌1929年(昭和4年)11月の浅草松竹座公演「松竹座フォーリーズ」から正式に活動を開始。次いで新宿松竹座にも出演した。第1期生の芸名は、万葉集にちなんで名付けられた[1]

東京のみならず名古屋でも公演を打ち、水の江瀧子が国民的人気を集める等、東京一の大レビュー劇団に成長する。当時は、ストーリー性のあるオペレッタレビューを上演していた。水の江瀧子・オリエ津阪が男役の二枚看板として活躍した。

第二次世界大戦に前後して、1944年(昭和19年)に解散を余儀なくされる。この後、残留者により「松竹芸能本部女子挺身隊」が組織され、各地の慰問に派遣。翌1945年(昭和20年)には「松竹舞踊隊」の名で浅草公園六区大勝館等のアトラクションに出演するなどして凌いでいた。同年、松竹歌劇団(略称・SKD)に改称し復活する。

国際劇場レビューと衰退

1951年「秋のおどり」アトミックガールズ
1952年「秋のおどり」"スリーパールズ"のメンバー。左から草笛光子・深草笙子・淡路恵子

本拠地:国際劇場浅草)での「東京踊り」「夏の踊り」「秋の踊り」の三大レビューを中心に、日本情緒あふれる派手なレビューを上演し好評を博していた。1951年(昭和26年)には選抜メンバーで「アトミック・ガールズ[2]」というラインダンスのチームが結成される。1956年(昭和31年)には「エイト・ピーチェス」が創設され、セクシーなダンスを披露した。

このように、1950年代よりセクシー路線へと転向して、ラインダンスの衣装も露出度の高い過激なものになっていった。このことはSKDの独自性を築いた反面、宝塚歌劇団のような恒常的な女性ファンが付かない要因にもなってしまった。

さらに1970年代に入ると娯楽の多様化などに伴い、本拠地・浅草と共に斜陽化し、次第にはとバスの観光客で糊口を凌ぐようになっていった。また、座付演出家の不在から、やがて再演・再構成に頼るようになり演目はマンネリ化[3]。やがて経費削減のため国際劇場でもオーケストラ演奏は廃止され、録音の音源を使用するようになった。

1978年(昭和53年)には「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」作品中に登場し、知名度の上昇をはかった。しかし既に毎年多額の赤字を出しており、1981年(昭和56年)に国際劇場とのフランチャイズ契約を打ち切る。翌1982年(昭和57年)の劇場閉鎖に前後してミュージカル上演を試みるが、ミュージカルとしての完成度は低く失敗に終わっただけでなく、従来のレビューのファンをも失う結果となった。その後は歌舞伎座や地方公演等で活動していたが、1990年(平成2年)の「東京踊り」をもって、62年に及ぶレビューの歴史に幕を下ろす。

ミュージカルへの転身、解散へ

準備・レッスンのため2年間の休演を経て、ミュージカル劇団への再編を行った。活動休止中、従来のレビューと異なるレッスンや劇団の変化に合わず退団者が予定以上に増加し団員数は40名となる[4]1992年(平成4年)より本格的にミュージカル劇団としての再出発を試み、池袋東京芸術劇場等でミュージカル公演を行った。女性歌劇最大の特色である男役を排除したり、男性俳優を客演に招くなど試行錯誤を重ねた。団員のレベルは高かったものの、制作方針が不明瞭なことから低迷し、1995年時点で団員数は18名まで急減した[3]

赤字経営と団員数の減少により、劇団も存続を断念。1996年(平成8年)6月14日に、同年6月30日を持って解散となることが発表される。解散公演の機会も無い突然の事態であった。その後、甲斐京子西紀佐江子紅エミら16人の最終メンバーが銀座博品館で自主公演「FROM SKD」を行なった。

SKD復活の活動開始が遅れ、既にレビューファンが離れている・有力なスポンサーが見つからないなどの事情から、ついに正式な後継団体は統一および結成されなかった。

現在は、解散時のメンバー西紀佐江子を代表とした薔薇笑亭SKD(バラエティSKD)、元トップスター・千羽ちどりらが率いるSTAS(スタス)等が、それぞれにSKDの名を冠したレビューショーを上演し「SKDの伝統」を今に伝えている。

年譜

1929年「松竹座フォーリーズ」南京情緒の場面
  • 1928年10月12日 東京松竹楽劇部が発足。12月の一足早く発足した松竹楽劇部(のちのOSK)の東京公演の応援出演。
  • 1929年11月 浅草松竹座での公演から正式に活動を開始。
  • 1930年4月 恒例の「東京踊り」公演を浅草松竹座と帝国劇場で開始。名古屋松竹座へも出張公演を開始。
  • 1930年9月 水の江瀧子が髪型を刈り上げ、「男装の麗人」が登場。多くのファンを魅了する。
  • 1930年10月 松組・竹組の二組制になる。
  • 1931年1月 梅組・桜組を新設し、四組制になる。
  • 1932年7月 松竹少女歌劇部(略称・SSK)に改称。
  • 1933年6月 待遇改善を巡り争議が起こる。(桃色争議
  • 1933年7月 松竹本社の直轄となり、松竹少女歌劇団となる。松竹少女歌劇学校を新設。
  • 1934年9月 本拠を新宿第一劇場に移す。
  • 1937年7月 本拠を浅草国際劇場に移す。
  • 1940年1月 国際劇場は単独興行を打ち切り、映画の封切りに歌劇の併演を行うアトラクションシステムを採用。
  • 1944年3月 戦時体制の強化に伴い、国際劇場が閉鎖されまた退団者も相次いだため、解散。
  • 1945年10月 松竹歌劇団(略称・SKD)に改称の上、復活。浅草・大勝館で公演を行う。
  • 1947年11月 国際劇場が復興。
  • 1950年11月 松竹少女歌劇学校が松竹音楽舞踊学校に改称。歌舞伎座別館を教室とした。
  • 1951年3月 「東京踊り」に「アトミック・ガールズ」が登場。
  • 1953年6月 「さよならターキー」公演を行う。
  • 1954年3月 松竹音楽舞踊学校、東京劇場4階に移転。
  • 1954年12月 初の海外公演をタイバンコクで行う。
  • 1956年3月 エイト・ピーチェス誕生。
  • 1957年6月 大阪松竹歌劇団(OSK)が松竹の手を離れる。(この時までSKDとOSKは姉妹関係で、合同公演などもあった。)
  • 1957年12月 東南アジア公演を行う。
  • 1958年11月 沖縄公演を行う。(当時の沖縄はアメリカの施政下にあったため、海外公演扱い。)
  • 1959年7月 「夏のおどり」で本物の水を使用した大瀑布のセットが登場。
  • 1960年7月 「夏のおどり」より郷土芸能を舞台に採り入れる。
  • 1962年9月 「秋のおどり」で屋台くずしが登場。
  • 1962年4月 ハワイ出張公演を行い、この年より海外公演が定期的に行われるようになる。
  • 1966年1月 「春のおどり」と三月公演の「東京踊り」を統合して、「東京踊り」を一月公演とする。
  • 1966年12月 名古屋・中日劇場での定期公演を開始。
  • 1970年8月 福岡スポーツセンターでの定期公演を開始。
  • 1971年4月 ソ連・東欧公演開始。
  • 1972年9月 小部隊の松竹ダンサーズを結成。
  • 1978年8月「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」作品中に登場。
  • 1979年2月 SKDミュージカル誕生。第一作「カルメン」(脚本・演出 山田洋次
  • 1981年9月1日 松竹土地興行株式会社に移管される。
  • 1982年4月 国際劇場での公演が打ち切り。海外班がソ連・ドイツ公演に、国内班が船橋ららぽーと劇場公演と地方公演に、それぞれ活動の場を求めることになる。
  • 1982年8月 創立55周年特別公演「SKDのすべて」を歌舞伎座で行う。
  • 1983年1月 池袋サンシャイン劇場で定期公演を行う。この他、銀座・博品館劇場、渋谷・ジァンジァン、吉祥寺・前進座劇場、豊島園などで公演を行い、7月には歌舞伎座特別公演を行っていた。
  • 1985年6月20日・21日 つくば科学万博のエキスポプラザに出演。
  • 1985年8月 日本コロムビアより90周年記念のLPレコード「松竹歌劇全集」(全5枚組)が発売される。
  • 1988年3月 レビューをやめ、ミュージカル劇団として再編されることが発表される。
  • 1990年2月 新宿厚生年金会館大ホールでレビュー最終公演「東京踊り きのう・今日・明日」が上演される。以後2年間公演を休止してミュージカル劇団としての再編をおこなう。
  • 1992年6月 ミュージカル劇団再編後第一作として「賢い女の愚かな選択」を東京芸術劇場中ホールで上演。
  • 1996年6月 解団。8月に解散メンバーらによる最後の自主公演「FROM SKD」を銀座博品館で行う。

特徴

  • 技芸員の正装は赤い紋付に、緑(青に近い色)の袴。
  • 正式な団歌は「あこがれの星座」(作詞・原浩一、作曲・田代与志)だが、実際には「桜咲く国」(OSKと共通)が歌われることが多い。
  • 初舞台生のうち、首席入団生はフィナーレの先頭を切って大階段を降りる栄誉が与えられる。1960年に首席の倍賞千恵子がバトンガール役で先頭に立ったのがきっかけ。
  • 初舞台生は、最初は娘役として舞台に立つが、後に個性に応じて男役に転向する。
  • 宝塚歌劇団やOSKと違い、公式プロフィールに本名が掲載されていた。
  • 劇団員の中には「幹部」という存在があり、幹部になるためには昇格試験に合格する必要があった。幹部はスターとほぼ同義とみなすことができる。1990年、レビュー終了時にこの仕組みは廃止された。序列は下記の通り
特別大幹部>大幹部>大幹部待遇>幹部>準幹部>ベストテン>>生徒(技芸員)
  • SKDは映画館・松竹座のアトラクション「松竹楽劇部」として組成された歴史的経緯から、その公演は国際劇場のアトラクションのひとつであり、併映した松竹映画とワンセットの興行形態だった。このため、舞台の内容はほとんどレビューのみであり、人気歌手のショウ等のバックダンサーとしても活躍した。この点から、ライバルは宝塚よりむしろ同じ東宝日劇ダンシングチーム(NDT)であったともいえる。
  • 興行形式は松竹映画に休憩を挟んでレビュー公演で、レビュー自体は90分が中心であった。
  • 舞台の構成は、日舞歌舞伎をアレンジした日本物もあれば、バレエ・欧州各国民族舞踏も登場し非常にバラエティに富んでいた。艶やかで派手な衣装を身にまとい、国際劇場の大きな舞台を駆使して華やかな演出で彩っていた。その反面、舞台に一貫性がない、舞台装置が豪華すぎてゴテゴテしているなどの批判もあったが、それこそが良くも悪くもSKDらしさの一つであった。

年間の公演

国際劇場が存在していた当時は、以下の3つの公演がロングラン上演されていた。

  • 2〜6月・東京踊り - 屋台崩し等、舞台を最大限に生かした迫力が特徴。
  • 6〜9月・夏の踊り - 夏らしくフィナーレに水を用いる。
  • 9~12月・秋の踊り

主なミュージカル作品

出身者

脚注

  1. ^ 宝塚も黎明期は百人一首にちなんだ芸名を付けた
  2. ^ この直前、1949年末に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞した影響もあり、1951年「秋のおどり」では科学をイメージした場面があった。アトミックガールズはこの公演でデビューした。
  3. ^ a b 1995年5月9日 朝日新聞「アートの視点 - SKD公演 レビュー新展開の契機 座付き作者養成」
  4. ^ 1991年12月24日 朝日新聞夕刊「私たち、生まれ変わりました SKDがミュージカルで再出発」

関連項目

同じく松竹楽劇部にルーツを持つOSKも、松竹の手を離れ近鉄傘下となった後、経営が悪化したため2003年(平成15年)に一旦解散を余儀なくされた。OSKは、その後再結成され、現在は再び松竹系列の大阪松竹座京都南座等で公演を行っている。

外部リンク