柳窪 (東久留米市)

古民家を囲む屋敷林と生垣(柳窪4丁目)
古民家と欅の古木(柳窪1丁目)

柳窪(やなぎくぼ)は、東京都東久留米市の西端に位置する地区の行政町名である。東久留米市内を流れる黒目川の源流域の柳窪には、江戸末期から昭和初期までに建築された伝統的な造りの大・中型民家、白壁の土蔵群、古民家を取り囲むヒイラギの生垣、ケヤキ・カシなどの高木・巨木がそびえ立つ屋敷林が見られ、周辺の畑地と併せて、江戸時代の武蔵野の農村集落の面影を今に残している[1]。黒目川源流域に沿った一帯(1.36ヘクタール)は東京都が管理する「柳窪緑地保全地域」に指定されている[2]

沿革

江戸時代の人々は武蔵野の荒地を開墾し田畑を広げた。東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発された村で、寛文10年(1670)に幕府領(天領)となった。安政5年(1858)に一時期熊本藩の領地となったが、その時期を除いて幕府領は幕末まで続いた。村が成立して間もない元禄11年(1698)、その石高は僅かに7石でしかなかったが、宝永6年(1709)、隣接する田無村の飛地から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。享保18年(1733)には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている[3][4]

江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。現在の住居表示では柳窪1丁目~5丁目を中心に、下里4丁目の一部が含まれる。柳窪村の江戸時代、文政10年(1827)の家数は38軒、人口は222人、明治5年(1872)の家数は42軒、人口は253人だった。明治5年(1872)から神奈川県に編入され、明治22年(1889)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。明治26年(1893)に東京府に編入し、昭和18年(1943)に東京都となった[5]

この地域も昭和30年以降、東京のベッドタウンとして開発が進み、多くの畑地や果樹園が住宅地に姿を変える。危機感を抱いた地元地権者の有志たちは、宅地開発の荒波のなかで緑と景観を守るべく、柳窪地区の12.2ヘクタールの土地を都市計画法上の「市街化調整区域」へ編入(逆線引き)を東京都に申請し、平成2年(1990)に認められた[6]。これにより、隣接する「柳窪緑地保全地域」と併せて、上空から見ると市街化地域の中に浮かぶ「緑の島」と呼べるような景観が残されることになった。

古民家と屋敷林

顧想園_村野家住宅(柳窪4丁目)

柳窪には屋敷林に囲まれた江戸末期から明治初期の大型民家5軒と明治中期から昭和初期の中規模の伝統的な民家8軒が残っている。また、養蚕による生糸の輸出で栄えた時代の建物もそのいくつかは今も現存し、暮らしに使われている[7]

この旧集落内に土蔵が21棟建っている。白壁の土蔵が20棟、外壁に大谷石が積まれている土蔵が1棟で、農村風景の歴史的な環境が維持されている中で、この地区の景観の重要な要素となっている。江戸時代、大都市となった江戸においては大火が頻繁に起こった。そのため享保期以降、幕府は防火対策のひとつとして土蔵等の建築を奨励した。以来、土蔵の建築は農村部にも普及することとなった。柳窪においても幕末から明治・大正期にかけて築かれた土蔵は多い。平成20年(2008)、日本女子大学住居学科による調査対象となった土蔵群は幕末期3、明治初期3、明治30年代3、大正期1、年代不詳1となっている[8]

村野家住宅(柳窪4丁目)は、唯一市内に残る江戸時代の茅葺民家である。同住宅は、江戸から大正期にかけて建てられた貴重な建物として、平成23年(2011)に主屋等7件が国登録有形文化財に登録された[9]。同年それらの建物を総称して「顧想園」と命名し、春と秋に一般公募の見学会(都文化財ウイークへの参加など)が実施されている。

黒目川源流域と湧水

天神社前の黒目川と湧水_東京名湧水57選(柳窪4丁目)

現在は小平霊園内にあり、昔はさいかちの木が何本も生えていたのでそう呼ばれる「さいかち窪」(柳窪3丁目)は、地形的には黒目川の源流部にあたり、雨量の多いときに稀ではあるが林の中に湧水が出現する「幻の湧水」と言われる[10]黒目川沿いの天神社(柳窪4丁目)付近の湧水は、東京の名湧水57選に指定された[11]。季節や天候により水量は変動し枯れることもあるが、透明でゆるやかな流れと伝統ある社殿、周辺の曲がりくねった道や道祖神は、昔ながらの風景を残している。

平成25年(2013)に新青梅街道から黒目川沿いに柳窪を縦断して下流の柳橋まで約1kmにわたる遊歩道が開通した。「さいかちの道」と名付けられたこの道は、東京都指定の「雑木林のみち」の延長でもある[12][13]。柳橋から下流には久留米西団地内の「しんやま親水広場」を抜ける遊歩道が整備されており、更にその先の下里氷川神社まで延伸される遊歩道は平成29年に完成予定とされている。

柳久保小麦

柳久保小麦(右):従来種の小麦(左)より穂丈が長く太い

かねてより、柳窪は「柳久保小麦」発祥の地としてその名が知られている。柳久保小麦は、嘉永3年(1850)あるいは嘉永4年(1851)、柳窪の奥住又右衛門が旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたとする説[14][15]が流布されているが、一方、江戸から肥料にまぎれて運ばれてきた外国の長穂の種を又右衛門が発見して増殖したとする説[16]もあり、その経緯は必ずしも明確にはなっていない。優良な小麦だったので評判になり、「又右衛門種」あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培された[17]。この麦からは良質の粉ができ、「人が集まればうどん」の地域の習わしの中で、柳久保小麦の人気は高かった。柳久保小麦は、普通の小麦より穂丈が長く太いため、家屋の屋根材としても広く利用された。当時の民家は茅葺き屋根が多く、屋根材として不足する茅を補うために柳久保小麦の麦藁が使われた[18]

しかし、栽培にあたっては丈高のため倒れやすく、収穫量も他品種の約3分の1と少ないことから、昭和17年(1942)、戦時中の食糧増産政策により作付けが中止された。その後、昭和60年(1985)に又右衛門の子孫が農林省生物資源研究所(つくば市)に保存されていた種を譲り受けて播種し[19]、昭和63年(1988)に46年ぶりに栽培が復活した[20]。 現在は、東久留米市内の10数軒の農家の協力により耕作され、うどん・ラーメン・かりんとう・饅頭・パン・クッキーなど関連商品が市内で販売されている[21][22]

文化財

地蔵菩薩、石橋供養塔、庚申塔(柳窪天神下)
  • 明治時代村地引絵図(市有形文化財第11号)東久留米市教育委員会所蔵 明治時代初期
明治6年(1873)の地租改正令により作成されたもので、地租改正図ともいわれ、徴税の基本となる村絵図である。当時の8村1新田9ヵ村の全図9枚が残存しており、旧柳窪村の絵図も含まれている[23]
  • 庚申塔(市有形民俗文化財第2号)柳窪4丁目長福寺下 明和元年(1764)
正面に青面金剛の立像を現し、像の足下に三猿を配している[24]
  • 地蔵菩薩石像(市有形民俗文化財第25号)柳窪5丁目墓地 宝永3年(1706)
市内で2番目に古い地蔵菩薩の石像。丸彫りに近い浮き彫りに仕上げられている。蓮弁には奥住、内田、村野など造立者の名前が見られる[25]
  • 石橋供養塔(市有形民俗文化財第3号)柳窪4丁目長福寺下 明和6年(1769)
石柱型の供養塔で、正面光背形の窪みの中に観世音菩薩の立像を彫り、造立の趣旨と紀年銘を示している[26]
  • 地蔵菩薩石像(市有形民俗文化財第30号)柳窪4丁目長福寺下 江戸時代後期
江戸時代の新田開発集落の面影を残す柳窪にあって、当時の村名(柳久保村)が彫られている地蔵菩薩石像として貴重[27]
  • 柳窪囃子(市無形民俗文化財第2号)
天神社の春・秋祭で執り行う。柳窪囃子の流派は重松流。江戸時代末に所沢市の古谷重松が江戸の祭囃子から独自の旋律を考案したと伝えられる[28]

武州世直し一揆と柳窪

武州世直し一揆の床柱の傷_顧想園(柳窪4丁目)

慶応2年(1866)6月13日、埼玉県秩父郡上名栗村に端を発し、武蔵17郡・上野2郡に及んだ武州世直し一揆には、農民・民衆等10万人余が参加したといわれる。一揆勢は各地で米の安売りや施金・施米、質地証文・借金証文の廃棄などを求めて次つぎに豪農・豪商を襲いながら、鎮圧される同月19日までの7日間のあいだにその勢いは燎原の火のごとく関東西部各地に広がった。打ちこわしの被害にあった村は202村。幕末期、しかも将軍のお膝元で起きた関東最大のこの農民一揆が幕藩体制に与えた衝撃は大きく、幕府の威信を揺るがし、その瓦解を早めた要因のひとつとなった[29]

この武州世直し一揆勢の行く先は柳窪にも向けられた。6月14日~15日に扇町屋、所沢などで豪・農商を襲い、16日早朝には大岱村の亀次郎宅を打ちこわしたあと、柳窪村の名主七郎右衛門宅と分家・農業七次郎宅にも打ちこわしをかけた。その数は数百人との説もあるが定かではない。一揆勢に立ち向かった鎮圧勢力は、江川代官所でかねてより特別の訓練を受けていた農民の武装組織、いわゆる江川農兵であった。田無村に出張中の江川代官所の役人は柳窪村打ちこわしの報を受け、すぐさま鉄砲をもった農兵16人と村役人や人足など150人ほどをひきつれ出陣した。農兵は七次郎宅打ちこわし中の一揆勢に向けて容赦なく発砲した。その結果、武器をもたない一揆勢はたちまち総崩れとなり、居宅は凄惨な事件現場と化した。即死者8名、逮捕者13名、負傷者80余名という結果を残して、一揆勢は鎮圧・壊滅された[30]。 事件発生の翌年(慶応3年)4月、襲撃を受けた農業村野七次郎ら12人の上層農は今後に備えて食料の備蓄などについて対策を講じている。それは、自然災害や農民の困窮する事態に備えて、村人全員257人60日分の食糧を備蓄すること、また非常の際、窮民への助成金として金10両を積み立てておくことを取り決めた。その記録が残されている[31]

村野七次郎宅である現在の村野家住宅(柳窪4丁目)には、主屋の奥座敷の床柱や長押に鋸や鎌などによると思われる襲撃の傷跡が今も残っている[32]

出典・脚注

  1. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.2
  2. ^ 柳久保緑地保全地域(http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/nature/natural_environment/tokyo/area/33_yanagikubo.html) 東京都環境局.2016年12月23日閲覧
  3. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代~文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.94
  4. ^ 東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市,1979,pp.320-323
  5. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第21号~旧柳窪村』東久留米市,2005年11月
  6. ^ 顧想園『みどりのなかの登録有形文化財~顧想園 ご案内』顧想園,p.1
  7. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.4
  8. ^ 住居学科・鈴木賢次『東京都東久留米市柳窪地区に残る武蔵野の景観II-土蔵の形式と特徴について~日本女子大学紀要 家政学部 第57号』日本女子大学,2010,pp.118-119
  9. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第27号~国登録有形文化財「村野家住宅」』東久留米市,2011年5月
  10. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課『くるめの文化財 第21号~旧柳窪村』東久留米市,2005年11月
  11. ^ 東京の名湧水57選一覧(http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/water/conservation/spring_water/tokyo/index.html) 東京都環境局.2016年12月23日閲覧
  12. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.2
  13. ^ 雑木林のみち~黒目川・柳窪コース(http://www.kankyo.metro.tokyo.jp/nature/natural_environment/tokyo/thicket_way/course_03.html) 東京都環境局.2016年12月23日閲覧
  14. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代~文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105
  15. ^ 高橋重雄『多摩のあゆみ 第136号~特集 近現代の多摩農業 柳久保小麦』公益財団法人たましん地域文化財団,2009年11月,p.46
  16. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.6
  17. ^ 江戸東京やさいマップ(http://www.tokyo-ja.or.jp/farming/edomap_index.html) JA東京中央会.2016年12月23日閲覧
  18. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代~文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105
  19. ^ 高橋重雄『多摩のあゆみ 第136号~特集 近現代の多摩農業 柳久保小麦』公益財団法人たましん地域文化財団,2009年11月,p.46
  20. ^ 東久留米市教育委員会生涯学習課文化財係『東久留米の江戸時代~文化財からみた東久留米の村々』東久留米市,2005年3月,p.105
  21. ^ NPO法人東久留米の水と景観を守る会・柳窪の環境景観の保全を考える会『緑の島へようこそ 柳窪旧集落・「顧想園」・柳窪ばやしのご案内』NPO法人東久留米の水と景観を守る会,p.6
  22. ^ 東久留米市役所産業政策課『東久留米大好きっ!』東久留米市,2014年8月
  23. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.16
  24. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.28
  25. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.32
  26. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.42
  27. ^ 東久留米市教育委員会教育部生涯学習課『ふるさとマップ 東久留米の文化財』東久留米市,2015
  28. ^ 東久留米市教育委員会社会教育部社会教育課『東久留米市文化財資料集第12集-指定文化財編』東久留米市,1990,p.47
  29. ^ 飯能市名栗村史編集委員会『名栗の歴史(上)』飯能市,2008,p.422
  30. ^ 東久留米市史編纂委員会『東久留米市史』東久留米市,1979,pp.484-485
  31. ^ 東久留米市史編纂委員会『東久留米市史 史料』東久留米市,1978,pp.224-225
  32. ^ 顧想園『みどりのなかの登録有形文化財~顧想園 ご案内』顧想園,p.4

関連項目

外部リンク

文献

  • 住居学科・鈴木賢次『東京都東久留米市柳窪地区に残る武蔵野の景観~日本女子大学紀要 家政学部 第56号』日本女子大学,2009