津軽丸 (2代)

津軽丸
MS TSUGARU MARU 2.jpg
概歴
建造所 浦賀重工浦賀造船工場
起工 1963年(昭和38年)5月24日
進水 1963年(昭和38年)11月15日
竣工 1964年(昭和39年)3月31日
就航 1964年(昭和39年)5月10日
終航 1982年(昭和57年)3月4日
要目(新造時)
船種 車載客船
総トン数 8,278.66トン(5,318.58トン[1][2]
全長 132.00m
垂線間長 123.00m
幅(型) 17.90m
深さ(型) 7.20m
満載喫水 5.20m
主機械(台数) 単動4サイクルトランクピストン排気ターボ過給機付ディーゼル機関・川崎 MAN V8V 22/30mAL 8台
公試最大出力 13,444軸馬力[3]
定格出力 1,600制動馬力×8
公試最大速力 21.57ノット [4][3][5]
航海速力 18.20ノット
乗客定員 1,200名
車両積載数 ワム換算48両
鉄道電報略号 ツルマ
船名符字 JQUW
姉妹船 八甲田丸松前丸(2代)大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)十和田丸(2代)

津軽丸(つがるまる、Tsugaru Maru)は、国鉄青函航路車載客船で、津軽丸型の第1船、同航路初の自動化船であった。鉄道電報略号は「ツルマ」。青函連絡船の津軽丸としては2代目であった。なお、本船から国鉄青函連絡船のファンネルマークは「工」から「JNR」に変わった。ここでは、津軽丸および津軽丸型車載客船について記述する。

津軽丸型建造までの経緯

1960年(昭和35年)頃の青函連絡船は、全14隻のうち、洞爺丸事件後に建造された3隻以外は、全て戦中から戦後の混乱期に建造された戦時標準船またはそれに準じる船で、これらは主機換装やボイラー増設に始まり、二重底新設その他、種々の船質改善工事を重ねながら十数年来使用されて来たが、老朽化とともに維持費はますます増大し、1959年(昭和34年)9月に出された国鉄内の「連絡船船質調査委員会」の2年間にわたる調査報告でも、これ以上の長期使用は得策ではない、とされた。 折しも高度経済成長時代となり、急増する旅客、貨物に対応するためにも、国鉄はこれら老朽船を取り替える方向にふみ切り、その方法を検討するため1961年(昭和36年)1月、「青函連絡船取替等計画委員会」を設置し、同年5月には第1回の中間報告が出された。

それによれば、第1順位として、300~400名の旅客とワム換算43両の貨車を積載できたデッキハウス船第六青函丸第七青函丸第八青函丸の3隻を、800~1,000名の旅客と、1,000トン列車に相当するワム換算48両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船3隻で置き換える。

第2順位として、当時1,400名前後の旅客と、ワム換算19両の貨車を積載できた車載客船大雪丸(初代)摩周丸(初代)羊蹄丸(初代)の3隻を、1,500~1,700名の旅客と、ワム換算27両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船2隻で置き換える。

第3順位として、当時ワム換算46両の貨車のみ積載の車両渡船第十二青函丸と、ワム換算44両の貨車のみ積載の車両渡船石狩丸(初代)渡島丸(初代)の3隻を、ワム換算48両の貨車のみ積載でき、1日2.5往復可能な高速車両渡船2隻で置き換える、というもので、これら計7隻を1967年(昭和42年)度までに建造するという計画であった。

この計画に基づいて、第1順位の第1船が1962年(昭和37年)11月18日に浦賀重工へ、第2船が1963年(昭和38年)6月13日に新三菱重工神戸造船所へ、それぞれ発注され、第1船は 1963年(昭和38年)5月24日起工され建造中のところ、それまでも旅客定員はたびたび増やされてはいたが、同年6月12日には更に1,100名から1,200名に増員された[6]。 そして同年8月13日には、上記置換え対象の老朽船9隻を、当初予定より2年前倒しの1965年(昭和40年)度までに引退させ、この時建造中の旅客定員1,200名に増員された ワム換算48両積載の高速車載客船のみ6隻で置き換えることに変更され、旅客定員1500~1700名の車載客船案は消滅した。

これは、1961年(昭和36年)当時の予測に比べ、その後の貨物輸送量の伸びが著しく、より早急に貨車航送能力の向上が求められたことと、旅客が集中する深夜便を、定員1,200名なら続行便2隻で運べると判断されたためであった[7][8]

この第1船が津軽丸と命名され、1964年(昭和39年)3月31日竣工、4月11日函館港回着、4月14日7108便より貨車航送のみの試運航開始し、5月10日変14便より旅客扱い開始し本就航した[9]。引き続き 八甲田丸松前丸(2代)大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)の6隻が1965年(昭和40年)8月5日までに就航し、老朽船9隻は、同年9月30日終航の石狩丸(初代)を最後に引退した。しかしその後の輸送需要は、客貨とも1963年(昭和38年)8月の予測を大きく上回る伸びで、国鉄は1965年(昭和40年)10月22日、更にもう1隻の同型船の追加建造を決定し、11月15日に浦賀重工へその建造を発注、 1966年(昭和41年)2月15日起工し、1966年(昭和41年)11月1日、2代目十和田丸として就航した[10][11]。これら7隻を「津軽丸型」と呼んだが、津軽丸引退後は残った船を国鉄内では「八甲田丸型」と呼んでいた。

概要

津軽丸は1954年(昭和29年)の洞爺丸事件1955年(昭和30年)の宇高連絡船 紫雲丸事件を教訓として設計されるとともに、津軽丸建造当時の日本の造船、海運界は、世界に先駆けて船舶の自動化や遠隔操縦化を導入し始めた時期で、とりわけ、津軽丸は青函連絡船初の自動化船だけに留まらず、当時の造船、海運界の最先端技術を先取りした船として、後続の国鉄連絡船だけでなく、その数年後から登場する長距離フェリーにも多大な影響を与えた[12][13]

津軽丸は車載客船、車両渡船特有の天井高さの低い機関室に、中速ディーゼルエンジンを多数搭載するマルチプルエンジン方式を採用することで、12,800馬力という高出力化を実現し、航海速力を18.2ノットに上げ、当時日本最大の可変ピッチプロペラを2基装備し、船首水線下には日本初の850馬力の大型バウスラスターを装備して、港内での操船能力を著しく向上させた結果、従来4時間30分前後かかっていた青森函館間を3時間50分に短縮し、「海の新幹線」と呼ばれた。これにより従来の1日2往復から、1日2.5往復運航が可能となり稼働率向上が図られた。

建造した浦賀重工でも初めて造るものが多く、本船には製造番号1番という機器が大量に使用されていた[14]。中には、船位自動測定装置(SPレーダー)のように実用化には至らず、後に撤去された機器も少なくなかった。

なお津軽丸型の画期的な自動化、遠隔操縦化のため、従来の車載客船では約120名、車両渡船でも72~78名要していた運航要員が53名になり[15][16]、この9隻廃船、7隻新造で、青函航路全体で471名の船員が陸上勤務に配置転換された[17]

外観

青森第2岸壁から見た入港する津軽丸。右舷後進をかけて減速し、右舷船尾を補助汽船に押させています。この後、バウスラスターで右推力を出してその場回頭し、後進して右方の第1岸壁に着岸します。右舷の防舷材は船尾側に少しあるだけです。(1976年4月30日154便) 記事冒頭の津軽丸の写真は1980年8月3日撮影ですが、煙突の色が変わっています。
青森第1岸壁を出港した津軽丸。船尾扉は半開状態で、船内軌道が船尾扉敷居部分を越える個所では軌道が跳ね上げられています。車両甲板後端段差部分に貨車海中投棄装置の水中傘が収納されているのが見えます。左舷の防舷材は船首近くまであります。(1976年4月30日23便)

従来の車載客船十和田丸(初代)とは異なり、車両甲板を全て車両格納所に充てたため、1,200名の旅客を全て船楼甲板より上の甲板室に収容することになり、従来は高級船員室と1等寝台室だけであった小さな遊歩甲板室(十和田丸(初代)では端艇甲板室)を、後部煙突兼マストまで伸ばし、船楼甲板室(十和田丸(初代)では遊歩甲板室)も周囲の遊歩廊を廃しただけでなく、船体中央部より船尾側と、一部船首側では、甲板室が両側面へオーバーハング状態で張り出していた。船楼甲板上に2層の甲板室を持ち、十和田丸(初代)の優美な甲板室前面デザインを継承し、更に津軽丸型では操舵室前面を7度前傾させ、その下の2層の甲板室前面は7度後傾させ、アンカーリセスを設けた船首部船体と相まって、スピード感ある均整のとれた優美なスタイルとなった。

ところが津軽丸では、本来つける予定でなかった操舵室床にシアー(舷弧:船体中央部が低く船首船尾が高い反り)を付けてしまい[18]、更に操舵室前面窓の高さを、キャンバー(梁矢:甲板面の船体中心線が高く両舷が低い反り)20cmと大きい床に合わせてしまったことと、前傾7度も相まって、各窓の高さが舷側へ行くほど段違い状に低くなるという、やや不格好な配置となってしまったが、第2船以降はシアーもなくなり、窓はキャンバー5cmの天井に合わせ、段違いは解消された[19]

また、津軽丸では当初、操舵室前の航海甲板前端に、十和田丸(初代)に見られた、丸みの付いたブルワークが設置される予定で、進水後の一時期、設置されていたが、操舵室前面中央部からの両側面下方の視野が遮られる、との理由で竣工前には撤去された。このため航海甲板前端が角ばってしまった、第2船の八甲田丸も同様であったが、第3船の松前丸(2代)からはこの部分は丸く整形された。

また遊歩甲板の甲板室前面窓の数が、津軽丸と松前丸(2代)のみ他5隻より1個多い12個であったほか、津軽丸のみ、船楼甲板室舷側外板に、溝付きの鋼板を使用し、窓の上下に、前後に続く長い2本の線状の隆起をつけていた。

青函連絡船が通常使用する青森、函館の専用岸壁では、全て左舷着けのため、舷側に遊歩廊を持たない船楼甲板の乗船口は左舷にしかなく、2等船室の配置が左舷に椅子席、右舷に雑居席としたため、船楼甲板左舷の2等椅子席のピッチに合わせた多数の小さな窓と、右舷の2等雑居席や旅客食堂のための比較的数少ない連窓、という左右非対称な外観は津軽丸型の特徴でもあった。

津軽丸の新造時の塗色は、外舷下部が にぶい青色(2.0PB5/6)、外舷上部が白(N-9.5)、煙突がアイ色(2.5PB3/6)で、後部煙突兼マストが全て銀色であった。1967年(昭和42年)に外舷下部が灰青色(2.5PB5/2)になり、その頃煙突も外舷下部と同色となり、後部煙突兼マストの上部は1973年(昭和48年)頃に 黒(N-1.5)になり、1980年(昭和55年)頃 には煙突が新造時のアイ色(2.5PB3/6)に戻された[20][21]

船体構造

一般配置

コンパス甲板

甲板は、上から操舵室屋上に相当するコンパス甲板で、前部マストがそびえ、その頂部には円筒形のラドームが載り、中には船位自動測定装置(SPレーダー)の空中線が設置されており、本体撤去後も終航まで格納されていた[22][23]。マスト中段の前方への張出しには第1レーダーのスキャナー、その下の張出しには第2レーダーのスキャナーが設置されていた。

航海甲板

その下の、操舵室床面高さが航海甲板で、最前部は全幅が操舵室になっており、その後ろ側に隣接して無線通信室が設置されたのは、十和田丸(初代)と同様であったが、その間を直接行き来できる扉を設けたのは、津軽丸が初めてであった。しかし、津軽丸では、無線通信室内の機器配置は、十和田丸(初代)同様前向きのままであったが、第2船の八甲田丸からは、操舵室との連携がとりやすい後ろ向きに変更された。無線通信室の左舷には電気機器室があった。露天部の両舷側にはボートダビットに懸架された救助艇、救命いかだの入ったカプセル形のコンテナを載せた多数の架台が設置されていた。

中央部には前部消音器室の甲板室があり、水面からは高い位置で、事故のとき、車両甲板下の主発電機や主機械が浸水して停電しても、ここはまだ安全だろうということで、非常用発電機と蓄電池が設置された。非常用発電機は、船内電圧が10秒以上にわたって85%以下を継続すると自動起動し、電圧が90%以上に回復すれば自動停止する100馬力ディーゼル機関駆動の出力70kVAで、主発電機故障時に、主軸駆動発電機ではバックアップされない航海用機器や無線装置、船内通信装置、水密辷戸動力、消防用ポンプ等の非常用設備関連の電源や、非常用照明をバックアップするもので[24]、国際航海に従事する旅客船に義務づけられた非常用設備規程を準用し、国鉄では十和田丸(初代) 讃岐丸(初代)に続いての装備であった[25]。蓄電池は非常用発電機故障時や完全起動までのつなぎとして、航海用機器、無線装置、船内通信装置、水密辷戸動力などの電源をバックアップした[24]。屋上にはJNRのファンネルマーク付きの前部煙突が載っていた。 

後部には後部消音器室と、その上に載った後部煙突兼マストがあった。また、後部煙突兼マストには、機関部品積卸し用デリックが設置され、これを使用して、後部消音器室船首側の航海甲板中心線上にある機関部品積込口から、車両甲板下の第2主機室まで繋がる竪穴を通して、機械部品の積卸しができるようになっていた。

遊歩甲板

その下が遊歩甲板で、両舷には甲板室全長にわたる遊歩廊があり、甲板室には前方から高級船員室、1等船室があり、後部煙突兼マストより後ろには甲板室はなく、新造時は広い遊歩スペースで色とりどりのベンチが設置されていたが、1967年(昭和42年)6月から乗用車搭載スペースに改装され、乗用車航送が開始された[26]

船楼甲板

その下が船楼甲板で、船首の露天部は揚錨機や係船ウィンチが設置された船首係船作業場で、甲板室には前方から高級船員室、続いて2等船室や旅客食堂があり、甲板室後端より船尾側の露天部は係船ウィンチの設置された船尾係船作業場で、船尾端には車両積卸し作業を目視しながら、ヒーリングポンプを操作する箱型のポンプ操縦室が、一段高くなって後方へ突き出して設置されていた。離着岸時、船尾が監視できるよう、このポンプ操縦室屋上から両翼舷外まで張り出した入渠甲板も設置されていた。なお、旅客定員を増やすため、船体中央部より船尾側では、船楼甲板の甲板室幅が車両甲板より広く、若干両舷へ張り出していた。

中甲板

その下が車両甲板中2階の中甲板で、船首部の船内軌道各線の終端部から船首端までの隙間部分だけの設置で、船首係船作業場が狭くて設置できなかったスプリングウインチが設置され、これらの船首の係船機器の動力となる油圧を造る動力機械も設置されていた[27]ほか、甲板長倉庫や船員浴室等もあった。

車両甲板

その下が車両甲板で、従来の車両渡船同様に船尾端3線、船尾近くで中線が分岐して、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設され、ワム換算48両積載できた。津軽丸型では、檜山丸(初代)型に比べ、幅が更に50cm広くなったこともあり、車両甲板船首側には船体中心線上の船2番線と船3番線の間に、レール面からの高さ約92cm、幅1.4mのプラットホーム状の通路が設けられ、付近から車両甲板下へ降りる階段は、このプラットホーム上から約3cmの低い敷居越しに降りる構造とし、それ以外の場所から車両甲板下へ降りる階段は、在来船通り高さ61cmの敷居が設けられ[28]、万一車両甲板上に海水が滞留しても、すぐには車両甲板下へ流れ込みにくい構造とした。しかしこのプラットホーム状通路は、前部煙突に続く幅1.4mの前部機関室囲壁の前で行き止まりであった。前部機関室囲壁の船尾側にも短いプラットホーム状の台があり、第5船以降の摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)十和田丸(2代)の3隻では、将来の寝台車航送の準備工事として、ここから船楼甲板の2等出入口広間につながる旅客用階段が設置されていたが、結局寝台車航送は実現しなかった[29][30]

車両甲板より下の船体は、12 枚の水密隔壁により13区画に分けられ、隣接する2区画に浸水しても沈まない構造であった。更に船体中央部、第1補機室、発電機室、第1主機械、第2主機室、第2補機室の5区画では、船底だけでなく側面にも、2対のヒーリングタンクと、1対のバラストタンクと、3対のボイドスペース(空タンク)が設けられ、二重構造とし、うち3対のボイドスペースでは、片側が損傷して浸水しても、この浸水を対側のボイドスペースへも導き、非対称性浸水による船体傾斜を軽減するクロスフラッディング設備も設けられていた[31][32][33]

第二甲板

車両甲板の下が第二甲板で、車両甲板プラットホーム上から降りる最も船首側の階段は、バウスラスター室に通じており、ここにバウスラスターを駆動する出力625kWの竪型 三相交流巻線型誘導電動機が設置されていた[34]。この電動機の真下にバウスラスターが設置されていた。

船首から2番目の階段を降りると普通船員居室と、左舷に高級船員食堂、右舷に普通船員食堂が通路を隔てて設置された区画であった。両食堂の間の通路の先には水密隔壁を通り抜ける水密辷戸(すべりど)の設置された通路があり、ここでは車両甲板へ上ることなく、一つ船尾側の水密区画へ通行できた。この区画は普通船員居室区画であった。ここから階段で車両甲板プラットホームへ上り、もう一つ船尾側の階段を降りると、第1補機室の中段で、第二甲板高さに相当した。一部が倉庫になっており、その下の船艙に設置された空調用冷凍機と、第1ヒーリングポンプの配管を見下ろすことができた。ここからは船尾に向かって第二甲板の高さで、水密辷戸付きの通路が連続して7枚の水密隔壁に設置されており、最後尾の操舵機室まで、車両甲板に上がることなく通行できた。

これら水密辷戸は、通常は開放されているが、緊急時には操舵室後壁の操作盤より一斉開閉できるほか、直上の車両甲板からの単独閉鎖、現場でも単独開閉操作ができた。動力は電動油圧式で、動力室は辷戸とは遠く離れた船楼甲板右舷の前部と後部に設置され、津軽丸と八甲田丸では前4ヵ所の辷戸を後部の動力室から、後ろ4ヵ所の辷戸を前部の動力室から、松前丸(2代)以降の5隻では前3ヵ所の辷戸を後部の動力室から、後ろ5ヵ所の辷戸を前部の動力室からそれぞれ油圧で動かすことで、事故近くの辷戸へは、事故現場から離れた動力室から油圧を供給して信頼性を高め、更に停電時の対応としては、各動力室にはアキュムレーター(蓄圧器)を備えており、この圧力で、停電後も全ての辷戸を10回程度開閉できた。それでも油圧が低下した時は、現場で手動の開閉も可能であった。また十和田丸(2代)では、より安全性を高めるため、動力室を航海甲板の船体中央部付近となる、無線通信室後方と後部消音器室内に移した[35]

その水密辷戸を通り抜けると、発電機室の中段で、船艙には左舷から中央部にかけて、出力840制動馬力ディーゼルエンジン(大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)では800制動馬力)[36]で駆動される三相交流60Hz 445V 700kVAの主発電機が3台設置され、右舷には通常はバウスラスター駆動電源として使われ、かつ主発電機故障時には、主要推進補機のバックアップ電源となる、出力900kVAの主軸駆動発電機が設置されていた[37]

更に船尾側へ水密辷戸を通り抜けると、そこは防音冷暖房完備の総括制御室で、第1主機室船首側中段に設置されていた。計器盤は船尾方向向きに設置され、ここで各種機械類の状態が監視され、通常の運転操作はここから遠隔操作で行われた。防音扉を開けて船尾側へ通りぬけると第1主機室で、ここには8台の主機械のうち4台が設置され、その頂部がほぼ中段の高さであった。流体継手付き減速装置も、この第1主機室に設置されていた。更に水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第2主機室で、残り4台の主機械が設置されていた。更に水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第2補機室の中段で、眼下には第2ヒーリングポンプと配管、更に毎分217.5回転する2本の主軸が望め、ほかに暖房給湯から係船機器類の凍結防止その他雑用の、補助ボイラー2台(クレイトンRO-175形[38])が設置されていた。

更に水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、第3補機室の中段で、機関部作業事務室や倉庫があり、船艙の両舷を走る主軸には可変ピッチプロペラ管制装置が仕組まれ、操舵室からの翼角指示の電気信号を受け、ここで油圧に変換し、プロペラ軸内を通る変節用圧力油送油管を通して、プロペラ翼角を遠隔制御していた[39]松前丸(2代)川崎 エッシャーウイス式では、ここでプロペラ軸内を通るシャフトを油圧で動かして翼角を機械的に遠隔操作した[40])。可変ピッチプロペラ変節油ポンプは航海に重要なもので、停電時は主軸駆動発電機からの電源に切り替わって運転継続された。 

更に水密辷戸を船尾側へ通り抜けると、“その他の乗船者”室があり、食堂従業員や機関整備員等の居室となっていた。更に水密辷戸を船尾側へ通り抜けると操舵機室で、2枚の舵を動かす2台の大きな油圧シリンダーを有する操舵機と、船尾扉や船尾係船機器、操舵機の油圧を造る動力機械もここに設置されていた。ここでも操舵室からの舵角指示を電気信号で受け、油圧に変換して舵を動かしていた。操舵機は重要機器のため、その油圧を造る電動油圧ポンプは常時2組並行運転され、停電時は主軸駆動発電機からの電源に切り替わって運転継続された。

“その他の乗船者”室からは車両甲板右舷に上がる階段があり、更に舷側を船楼甲板の2等船室まで上がれる構造であった。なお煙突は2本あり、主発電機3台と船首側4台の主機械の排気は中央部のJNRのファンネルマークのついた前部煙突から、船尾側4台の主機械と補助ボイラー2台からの排気は後部マスト兼煙突から排出された。

旅客設備

新造時の旅客定員は、1等寝台20名、1等席310名、2等席870名の1,200名であった、なお本船就航時の国鉄は2等級制で、就航5年後の 1969年(昭和44年)5月10日からモノクラス制に改められ、以後1等がグリーンに、2等が普通になった。なお津軽丸型では客室および船員居住区すべで集中冷暖房完備であった。

1等船室

1等船室は全て遊歩甲板にあり、遊歩甲板左舷遊歩廊の1等乗船口につながる、左舷中央部前部煙突下付近に1等出入口広間があり、入ってすぐ左が売店で、その角を左折して前方へ進むと、両舷にわたる大部屋があり、ここが1等指定椅子席であった。ここには津軽丸建造以前の1961年(昭和36年)6月に、在来の車載客船4隻の1等出入口広間に60席程度のリクライニングシートを設置し、好評であったため、これを更に拡充する形で、背ずりが65度リクライニングし、フットレストや読書灯も付いて、寝台代用となるシートピッチ140cmの1人掛けシートが、12列に96席ゆったりと設置されていた[41][42]。1等指定椅子席の更に前方には、1等寝台室5室が設置されていた。2段寝台4人部屋で、ソファーと小テーブルが作り付けられていたが、すべて窓なしの部屋であった。

1等出入口広間の後方右舷側には、シートピッチ125cmの2人掛けで、背ずりが49度リクライニングする、読書灯付きのリクライニングシートの1等椅子席120席があった[43]が、1978年(昭和53年)に、前側の44席が撤去され、普通船客も利用できる喫茶室「サロン海峡」が設置され、同時にグリーン出入口広間(旧1等出入口広間)の売店も撤去され、ソファーが置かれ、出入口広間をロビー化した[44]。また、1等出入口広間の左舷後方には、カーペット敷きの定員94名の雑居席の1等自由席が配置された。なお1等出入口広間へ入室したとき、正面に見える壁(前部機関室囲壁の左舷側)には、各船の名称にちなんだ壁面装飾が施されており、津軽丸では、リンゴの断面を図案化して描いたポリエステル樹脂化粧板に、FRP製の「リンゴ園に遊ぶ子供たち」と題するレリーフを貼ったものであった[45]

2等船室

2等船室は全て船楼甲板にあった。1等乗船口よりやや船尾側で、1層下の船楼甲板左舷にある2ヵ所の舷門が2等乗船口で、この乗船口につながる、前後方向に長い2等出入口広間が左舷に配置されていた。この2ヵ所の乗船口の間に舷側を背にする形で、電報切符類の取り扱いが行われる案内所が設置され、この向かい側やや後方の壁には、デザインは各船共通ながら色づかいの異なる、秋田、盛岡以北の東北と北海道の地図を図案化したレリーフが掲げられていた。案内所向かい側やや前方には売店が設けられ、その奥の右舷側には旅客食堂が設置され、右舷側の窓から外を眺めながらの食事が楽しめた。なお第4船大雪丸(2代)から、食堂の窓が若干拡大された。食堂の船首側に隣接して厨房が配置され、車両甲板下の第二甲板の船員食堂へは、ここで調理された食事が、無人運搬装置に載せられ、まず車両甲板天井まで垂直移動の後、前方へ約28m水平移動し、更に6m垂直移動してはるばる運ばれた[46]

2等出入口広間前方左舷側には階段があり、これを上ると、左舷遊歩廊への出口、ならびに1等出入口広間につながっていた。この階段を上らず右側を前方へ進むと、座席下に救命胴衣を収納した、シートピッチ96cmのリクライニング機能のない、当時の国鉄特急車両の2等車の座席に準じた、2人掛けシートの並ぶ、定員206名の前部2等椅子席があった[47]。出入口広間のすぐ後ろ隣には、定員37名のカーペット敷き雑居室の「婦人席」があったが、1978年(昭和53年)のグリーン椅子席(旧1等椅子席)への喫茶室「サロン海峡」設置時に、囲碁や将棋などを楽しめる「娯楽室」に模様替えされた[48]。この後ろ、両舷に後部遊歩甲板へ上る階段が設置されていた。更に後方の左舷側には、前部2等椅子席と同様の椅子が並ぶ、定員118名の後部2等椅子席が配置されていた。また、前部2等椅子席の右舷側には、定員236名のカーペット敷き雑居席の前部2等座席があり、その最後部の1区画も壁で仕切られて「婦人席」とされていた。後部2等椅子席の右舷側には、定員126名のカーペット敷き雑居席の後部2等座席が配置され、更に旅客食堂と通路をはさんだ後方にも、定員147名のカーペット敷き雑居席の2等座席が配置されていた[49]

1980年(昭和55年)には、後部左舷椅子席と右舷雑居席の間の壁が撤去され、椅子も撤去され普通雑居席の大広間となり、映写スクリーンが設置された[50]。また1969年(昭和44年)には、普通船室前部男子洗面所内にシャワー室が設置され、その後好評につき、1970年(昭和45年)には普通船室前部婦人洗面所内に1ヵ所(通路から直接入れるようにしたため男子も使用可)、 1973年(昭和48年)にはグリーン船室中央右舷にも1ヵ所設置された[51]

車両積載設備

船体の大型化で軌道有効長も伸び、左舷側から船1番線95.8m、船2番線111.6m、船3番線85.4m、船4番線95.8mとなり、車両積載数は船1番線から ワム換算で、順次12両、14両、10両、12両の合計48両と、当時の国鉄連絡船最多となった[52]

船内軌道船首端には、翔鳳丸型以来自動連結器の装備された車止めが設置されていたが、入換機関車に押されて来た列車の、たび重なる衝撃で、車止め自体が損傷するため、宇高連絡船  讃岐丸(初代)では、この連結器に油圧緩衝器が装備され、津軽丸型でも、これと同一性能の、重量50トンの列車が時速6kmで衝突したエネルギーを、約9cmのストロークで吸収できる油圧緩衝器が、連結器と車止め本体の間に装備された。また積載列車のブレーキ管と繋いでブレーキの締め直しができるよう、機関車用自動ブレーキ弁も設置された。なお油圧緩衝器付き車止めの場合は、列車先頭車両の最前部車輪に、レール上に載る小型車輪止めのヘムシューをかます必要があった[53][54]

油圧緩衝器の装備を受け、津軽丸では従来の機関車用坐付連結器に代わり、通常の上作用式の並型自動連結器が設置された。更に車両甲板船尾から、車止めの自動連結器の遠隔解錠ができるよう、車止めに設置したエアシリンダーで、連結器解錠レバーに繋いだワイヤーを、滑車とテコを介して引っ張って解錠する仕組みとした。しかし構造が複雑なため、第2船の八甲田丸以降は、連結器内部が改造された特殊な自動連結器が設置され、連結器直下に置かれたエアシリンダーで、連結器の解錠レバーを直接押す構造となった[55]

油圧緩衝器が装備されたとはいえ、車止めはあくまでも積載車両を動かないようにすることが目的で、入換機関車の“暴走”を止めるものではないため、入換機関車の機関士からは見えない、列車先頭と車止めまでの距離を表示する電光掲示板が、青森第1岸壁、第2岸壁、函館第1岸壁、第2岸壁の各可動橋の門構え上に、1965年(昭和40年)9月30日に設置され、車止め付近の表示操作器ダイヤルから、有線で車止めまで「あと何両」という表示と音声放送もできるようになり[56][57]、そのため船内軌道終端部付近の軌道内には目印がペイント表示された。

国鉄連絡船では、翔鳳丸以来、積載車両転倒防止のため、車両台枠を横から斜め下の甲板につなぎ止める甲種緊締具と呼ばれる緊締具が使用されてきた。この緊締具の車両側はハサミ状で、このハサミで車両台枠の鉄骨をはさみ込み、甲板側はフック付きで、甲板上の緊締レールの穴に引っ掛け、ターンバックルで締め上げる方式であった。しかし、ハサミ部分が重く、常に張力がかかっていないと緩んでしまう、などの欠点があった。

津軽丸型は1日2.5往復するため、折り返し時間が55分に短縮され、車両積載数も増加し、更に人員削減のため、緊締具の操作性改善が強く求められた。このため、両側をフック付きにして、重量を20kgから13kgに軽量化した緊締具が考案され、この緊締具に対応するため、国鉄では1962年(昭和37年)4月から1966年(昭和41年)3月までに、11万両に及ぶ車両にフック掛けを設置した。更なる軽量化を目指したレバー・ブロック方式も開発され、第6船の摩周丸(2代)以降、羊蹄丸(2代)十和田丸(2代)で、船首から25mの範囲で採用された[58][59]。しかし、従来のハサミ式ターンバックルの車両緊締具も、青函連絡船の終航まで、上下逆さにして使用されているのが見受けられた。

列車最後尾の固定は、従来は二股の鎖を用いて一端を連結器に巻きつけ、二端を軌道外の甲板上の鉄環にフックで掛け、ターンバックルで締めて積載列車の前後動を防いだが、津軽丸からは、最後尾車両の一端を連結器に巻きつけ、他端は後方下の軌道内に設置された鉄環にフックをかけ、レバー・ブロックで締める形の小型の乙種緊締具となった[60]。また軌道の間に梁柱を密に立てることで、積載車両がたとえ転倒しても、左右へ大きく移動させず、船体横転につながらないよう配慮された。

ヒーリング装置

車両の積卸し時、船体中心線から離れた船内軌道に、列車を載せたり卸したりすると、その重みで船体が横傾斜するため、両舷側のタンク間で海水を移動させて、その横傾斜を抑制するのがヒーリング装置で、青函連絡船では1924年(大正13年)建造の翔鳳丸以来、全船に装備されて来たが、全てヒーリングタンク1対、ポンプも1台の装備であった。

津軽丸型のように、車両甲板に4線の船内軌道を持ち、かつ船楼甲板上に2層の客室を有する船は、国鉄連絡船としては初めてであった。このため、大容量のヒーリングタンクと、強力なヒーリングポンプを備えることが必要となったが、大き過ぎるヒーリングタンクは、損傷時の非対称浸水による横転を招きかねず[61]、また強力過ぎるヒーリングポンプは、タンク底内部に突出した肋骨による段差で水の流れが滞り、ポンプ吸入口への残水の流れ込み量が、ポンプ吸引量に追いつけなくなり、ポンプが空気を吸ってしまって残水量が増え、結局タンク有効容量の減少を招くため[62]、前後2組の独立したヒーリング装置を装備することとした。

このため、第1ヒーリングタンク(片舷163.9トン 有効容量約130トン)は、発電機室とタンク後端は第1主機室水密区画の一部の両舷に達する形で設置され、両舷タンク間は、発電機室の一つ前に隣接する第1補機室を迂回する太いパイプで繋がれ、第1ヒーリングポンプは第1補機室に設置された。第2ヒーリングタンク(片舷238.8トン 有効容量約200トン)は、第2主機室両舷を中心に、その前後端は前後の隣接水密区画舷側まで達したやや大きなタンクで[63][64]、両舷タンク間は第2補機室を通る太いパイプで繋がれ、第2ヒーリングポンプは第2補機室に設置された。更にこの太いパイプは船尾方向へも分岐し、第3補機室を経由して、その他の乗船者室船底のトリミングタンクに繋がり、船尾喫水の調節も迅速にできるようなった。このトリミングタンクまで繋がる配管は讃岐丸(初代)に始まるものであった。

このような経緯で、ヒーリング装置を2組装備することになったが、1組故障した場合、タンク容量の少ない第1ヒーリング装置単独でも、貨車が80%載貨状態以下であれば、どうにか48両の積卸しは可能であった[65]

なお津軽丸ではヒーリングポンプに、十和田丸(初代)讃岐丸(初代) で採用された交流誘導電動機駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプは採用されず、110馬力三相交流誘導電動機駆動の油圧ポンプで駆動される油圧モーター駆動の可逆転固定ピッチプロペラ式軸流ポンプが2組採用され、第3船の松前丸(2代) でも、この方式が採用された。なお、第2船の八甲田丸では、85kW三相交流誘導電動機駆動の可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが2組採用され、上記2隻以外の津軽丸型5隻でも、この可変ピッチプロペラ式軸流ポンプが採用された。

このように、津軽丸型では2種類のヒーリングポンプが採用されたが、いずれのタイプも、ポンプ容量は1台当たり2,200m³/h×7.5m(水頭)と、檜山丸(初代)のものと同程度で、車両積卸し時、“自動ヒーリング操作”を選択すれば、横傾斜1度になると、自動的に傾斜を補正するようにポンプが動き始め、±0.5度以内になると、ポンプは自動停止した[66]。また讃岐丸(初代)同様、ボタン操作での、個別の手動操作も可能であったほか、車両積卸し開始時に、船体傾斜が1度に達して自動ヒーリング運転が始まる前に、数秒間手動操作を介入させて、船体傾斜を更に軽減することもできた[67]。このポンプ容量は、車両長1m当たり3トンの列車が、船1番線または船4番線に平均時速4kmで積卸しされても、片舷への最大傾斜が3度以内に納まるという容量であった[68]。なお可動橋を架けての車両積卸し時の船体横傾斜の許容角度は、可動橋のねじれによる、2軸貨車の3点支持による脱線の危険性から、4度以内であったが、安全のため余裕を持って3度以内とされた[69][70][71]

乗用車航送

1967年(昭和42年)6月1日から、遊歩甲板後部の遊歩スペース上に、乗用車6台を積載航送するサービスを開始した[72]。これに先立ち、一般旅客領域と車載領域の仕切り柵を設置し、この部分にあったベンチを撤去し、乗用車が甲板上でUターンしなくて済むよう、左右両舷の柵の一部を開閉可能な構造とし、ここを乗用車乗降口とした。青森では第1岸壁の船尾右舷が接岸する副岸方向から、斜路で右舷乗降口へ至り、函館側では、第2岸壁の待合所と岸壁の間にエレベーターを設置して、左舷乗降口に至ることとした。当初2往復(夏期多客時3往復)で開始し、翌1968年(昭和43年)6月からは6往復(夏期多客時8往復)、1970年(昭和45年)5月からは8往復(夏期多客時10往復、閑散期6往復)とし、 1971年(昭和46年)4月からは8台積載とし、更に1972年(昭和47年)7月までには、船尾係船作業場の上に、遊歩甲板からポンプ操縦室屋上の入渠甲板に至るまでの右舷側2/3に、屋根掛けする形で車載領域を拡張し、12台積載できるよう改造されたが、依然露天積みであった[73]

航送自動車台数は順調に増加し、1973年(昭和48年)度には40,427台に達したが、これをピークに、同年秋の第1次オイルショック1976年(昭和51年)の国鉄運賃の大幅値上げ等の影響で、減少に転じ、1976年(昭和51年)度は29,492台まで減少してしまった。このため、国鉄では、荒天時の無料洗車券の発行や往復割引回数券を発売し、以後微増に転じた。1982年(昭和57年)には津軽丸と松前丸(2代)が引退し、その代船として、乗用車20台積載可能な改造客載車両渡船石狩丸(3代)檜山丸(2代)が就航し、1983年(昭和58年)度には35,172台まで増加した。 1984年(昭和59年)2月1日の有川桟橋廃止後は夏期多客時9往復となったが、東北自動車道の延伸もあり、1987年(昭和62年)度には37,462台を航送してその幕を閉じた。なお国鉄末期から津軽丸型は13台まで積載していた[74][75][76]

係船機器

十和田丸(初代)以前の青函連絡船では、船首係船作業場には揚錨機が1台あり、これで両舷の錨の投揚錨を行うほか、揚錨機本体の両側面には、ワ―ピングドラムという水平軸で回転する糸巻き形のドラムが突出していた。入港時、岸壁前で速力を落とし、近寄ってきた綱取り艇という小舟に、甲板縁に設置された係船索の向きを変える滑車(フェアリーダー)を通して降ろした係船索(フォアライン)の一端を持たせ、これを岸壁まで運ばせ、岸壁のビットに掛けた後、フォアラインをこのワ―ピングドラムに数回巻き付け、甲板員が3人がかりで引いたり緩めたりして、フォアラインとワ―ピングドラムのスリップを調節して、その張力を調節しながら、フォアラインを巻き込んで船体を岸壁に引き寄せて行った。着岸作業では通常、補助汽船は船尾しか押さないため、このフォアライン巻き込み力は船首を岸壁方向へ引き寄せる唯一の力で、重要なものであった。

また船尾にも、車両甲板の暴露部、あるいは船楼甲板の両舷に、ワ―ピングドラムを垂直にした形のキャプスタンが1台ずつあり、甲板員2人で船尾を可動橋に合わせる作業を行っていた[77]

この危険で、人手のかかる係船作業の自動化、遠隔化の試みが、青函航路よりは条件の緩い宇高航路1961年(昭和36年)建造の讃岐丸(初代) で行われ、国鉄連絡船初の電動油圧式の揚錨機や、同じく電動油圧式で、係船索を自在に巻き込んだり繰り出したりでき、更に “自動係船運転”と称する係留中も一定の張力で引張り続けるオートテンション機能も持つ係船ウィンチが開発される等、一定の成果を上げることができたため、津軽丸型でも電動油圧式係船機械が導入された[78]

津軽丸型では、船楼甲板船首係船作業場には、揚錨機のほか、着岸前、最初に岸壁のビットに繋いで船首を岸壁へ引き寄せるフォアラインを巻き込む左舷の主ウィンチ、左舷が岸壁から離れないよう固定するブレストラインを巻き込む右舷の補助ウィンチ、そして船体を後方へ引き寄せて船尾を岸壁ポケットへ押し込むスプリングラインを巻き込むスプリングウィンチが、それぞれ別個に設置されたが、船首係船作業場が狭いため、スプリングウィンチだけは1層下の左舷中甲板に設置され、船楼甲板上にはスプリングラインを出す穴が設けられた。いずれのウィンチも船首端の制御スタンドから遠隔操作されたが、揚錨機だけはこのほかに、操舵室前面左舷側の制御スタンドからも遠隔操作できた。しかし錨鎖をロックしている制鎖器のカンヌキの解除は現場でしかできず、そこまで行くなら船首スタンドを使う、ということで、結局操舵室のスタンドは使われず、第7船十和田丸(2代)では設置されなかった。

船楼甲板船尾係船作業場でも、左舷後方の岸壁ビットにかけてこれを巻き込んで後進し、船尾を可動橋に押しつける左舷アフターラインと、同じく左舷船尾から前方のビットにかけてアフターラインの張力に対抗してブレーキをかける船尾スプリングラインを巻き込む2ドラムタイプの船尾左舷ウィンチと、右舷アフターラインを巻き込む船尾右舷ウィンチが設置された。この2台のウィンチは船尾船楼甲板左舷の台の上に設置された制御スタンドから遠隔操作された[79]

このように各係船索をそれぞれ個別の電動油圧式ウィンチで、自在に巻き込んだり繰り出したりが遠隔操作で可能となり、少ない人員で安全に係船作業が行えるようになった。なお船尾左舷ウィンチのみ2ドラムで兼用となったのは、船楼甲板の甲板室が大きく船尾係船作業場が狭くて、ウィンチを3台設置できなかったためであった[80]

停泊中の車両積卸し作業による船体の傾斜や喫水の変化、潮位の変化などに対し、係船索が緩んだり張りすぎたりしないよう、係船索を一定の張力で引っ張り続ける“自動係船運転”と称するオートテンション機能は、津軽丸の係船機器を製作したメーカーが讃岐丸(初代)の係船機器を製作した東洋電機製造でなかったこともあり、結局所定の性能が出せず、この機能は使われなかった[81]。なお第2船の八甲田丸以降は予定通り、船首では補助ウィンチとスプリングウィンチ、船尾では左舷ウィンチの左舷アフターライン用ドラム、右舷ウィンチの4台が“自動係船運転”可能となり、以後、第3船の松前丸(2代)川崎重工製の係船機器が使われた以外、八甲田丸を含め、全て東洋電機製造 の係船機器が使用された[82]

津軽丸型6隻の使用実績から、船尾左舷ウィンチが2ドラムで、左舷アフターラインとそのブレーキとなる船尾スプリングラインが同時作業となるため、両ドラムを同時に油圧モーターで動かせない問題点が浮上した。そこで、第7船十和田丸(2代)では、左舷ウィンチを左舷アフターライン専用の1ドラム型にし、右舷アフターライン作業は船尾スプリングライン作業とは重ならないため、船尾右舷ウィンチを2ドラム型として、船尾船楼甲板上をスプリングラインを左舷からローラーを介して右舷ウィンチまで導き、船尾右舷ウィンチの1ドラムを船尾スプリングライン用とした。これにより、船尾スプリングラインは従来の摩擦ブレーキから、きめ細かな運転のできる油圧回生ブレーキをかけながらの、左舷アフターライン巻き込み作業が可能となり、この形が以後の標準となった[80]

自動係船運転機能についても、1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以降の青函連絡船では、船体幅を拡大したため、岸壁係留位置では、船体中心線が可動橋中心線に対し14.8‰の角度で岸壁とは反対方向に振れており、左舷側は岸壁に接舷しているのは全長132mのうち、船尾側から約40%の52m付近までで、それより船首側では岸壁と隙間をあけて係留していた。このため、船首部をブレストラインで岸壁に引き寄せ過ぎると、船尾の可動橋との接続部分に無理がかかることが判明し、十和田丸(2代)からはブレストラインを巻き込む補助ウィンチの自動係船運転機能は省略された[83]

機関部

津軽丸 総括制御室 推進機関操作盤、後ろ向き設置のため、左右が逆になっていた。左翼左から右舷主機1号機~4号機の計器、右翼左から左舷主機1号機~4号機の計器で、上側が各主機の負荷計、下側が各主機の回転数計で、手前卓上は各主機の遠隔操作スイッチ。中央部は上段が両舷プロペラ翼角と舵角、中段が両舷主軸馬力と時計、下段は両舷主軸回転数と速力で、手前卓上にはエンジンテレグラフ受信機があった。この時は右舷2号機と左舷3号機休止の6台運転で速力18ノットであった。

マルチプルエンジン

青函連絡船 で初めてのディーゼル船となった檜山丸(初代)から 十和田丸(初代)までの3隻では、主軸に直結でき、安価なB重油が使える、毎分230~250回転の2サイクル低速ディーゼルエンジンが主機械に採用されていた。しかしこれら3隻では、車両渡船、車載客船のため、機関室の天井高さは二重底の上から車両甲板下までの高さに制限され、一般商船のように高くとれず、そこへ背の高い2サイクル低速ディーゼルエンジンを搭載したため、主機械頂部と機関室天井との間の余裕は少なく、主機械のピストン抜き作業は、車両甲板に設けたボルト締めの水密ハッチの蓋を開けて行う必要があり、車両積載時にはできなかった[84]

しかも津軽丸型では、1日2.5往復するため、航海速力を18.2ノットに上げなければならず、従来の約2倍の出力を必要とし、これを在来型のディーゼル船3隻のように、主軸直結2サイクル低速ディーゼルエンジン搭載で実現することは機関室の天井高さの面から不可能であった[85]

このため津軽丸型では、背の低い毎分750回転で、定格出力1,600制動馬力の4サイクル中速ディーゼルエンジンである川崎 MAN V8V 22/30mAL(大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)の3隻では、毎分560回転で定格出力1600制動馬力4サイクル中速ディーゼルエンジン三井 B&W 1226 MTBF-40V)を片舷4台、合計8台搭載することで、所要出力を確保し、天井の低い車両渡船の機関室内で、主機械頂部と機関室天井の間に余裕を持たせ、ピストン抜き作業も機関室内でできるようにした。

しかしこの回転数ではプロペラ効率が悪く[85]、減速機を介して主軸に繋ぐ必要があり、更に片舷1軸あたり4台のエンジンが繋がるため、各主機械と主軸の間にはクラッチも必要となった[86]。当時はこの程度の大出力のディーゼルエンジンからの出力を減速歯車に伝達する場合、歯車に対するディーゼルエンジンの変動トルクの影響を吸収する目的で流体継手が用いられており、津軽丸型では、更にこの流体継手の作動油の出し入れで、クラッチとしても機能させ、各主機械を個別に主軸から切り離したり繋いだりすることができた[87][88]。このように8台のエンジンの出力は、それぞれ流体継手と1段減速歯車を介して両舷の主軸に伝達され、主軸はプロペラ効率のよい毎分217.5回転で互いに外転した。

通常は主機械6台程度の稼働で定時運航可能なため[89]、運航中でも一部の主機械を休止でき、運航しながらの機関整備が可能となり、当時檜山丸(初代)型で行われていた20日間運航後3日間休航という機関整備のための休航は不要となった[90][88]

津軽丸は就航から4年後の、1968年(昭和43年)5月26日から1969年(昭和44年)4月4日までの314日間のロングラン試験を行い、途中台風や、配船計画、陸上都合による欠航または休航はあったものの、船の都合による欠航はなく、期間中同時に2台の主機械が運転不能となることもなかったため、以後津軽丸型では中間入渠を廃し、1年に1回の入渠となった[91][88]

更に、後年には燃料費節減のため5台や4台での運航も行われた。燃料は軽油で、1回の航海に消費する燃料は、初期は約6,100リットルとされていたが、後年では燃費節減の結果5,000~5,500リットル程度であった。

右舷主軸のみ減速機のある第1主機室から遊星増速歯車で毎分1200回転に増速され、ひとつ前方の発電機室までのび、主軸駆動発電機(900kVA)を常時直結で駆動した。この発電機は主発電機(700kVA)の故障時のバックアップのほか、バウスラスターの電源として使われた[92]

可変ピッチプロペラ

国鉄では、1961年(昭和36年)6月建造の大島連絡船 大島丸(後の安芸丸)(257.99総トン)に、350馬力と小型ながら川崎重工スイスエッシャーウイス社から技術導入して製作した可変ピッチプロペラを、国鉄連絡船として初めて装備し[93][94][95][96]、同時期建造の宇高連絡船 讃岐丸(初代)フォイト・シュナイダープロペラと比較したが、高速航行時間の方が出入港時間よりも長い青函宇高の両航路では可変ピッチプロペラの方が適していると結論づけた[94]

このため、津軽丸型では、三菱日本重工横浜造船所がスウェーデンカメワ社から技術導入して製作した、直径3.25mの、当時日本最大の可変ピッチプロペラ 三菱横浜KAMEWA 102S/4型( 松前丸(2代)のみエッシャーウイス式で、直径3.3mの、同じく当時日本最大の川崎Escher Wyss B-1000/SV-370型)を2基ずつ装備した。

可変ピッチプロペラの利点は、全速前進から急ブレーキをかけた場合、固定ピッチプロペラでは、全速後進発令後エンジンを一旦停止し、逆回転で再起動しなければならず、その間の無駄な空走を許してしまうが、可変ピッチプロペラでは、エンジンはそのまま運転継続で、プロペラの翼角を逆向きにするだけのため、発令直後からブレーキがかかり、ブレーキ距離の大幅な短縮が可能なことであった。津軽丸での試運転からの試算では、可変ピッチプロペラでは19ノットから475mで停止できたが、固定ピッチプロペラでは1129mも要したとのとであった[97]。このような可変ピッチプロペラの圧倒的な操縦性の良さは、相当長い高速航行区間と頻繁な出入港を併せ持つ青函連絡船には最適であった。

可変ピッチプロペラ採用により、主軸回転数は毎分217.5回転で、回転方向は互いに外転のまま、あとは操舵室のプロペラ翼角操縦レバーからの翼角制御だけで、船の前後進から速力の調節まで行われた。これは、主機械は一定方向へ一定回転数で回転さえしていればよい、ということで、出力増強等の目的で、マルチプルエンジンが採用されたが、多数の ディーゼルエンジンの発停、逆転を、同時に行うことが容易ではないことを考えると、もし可変ピッチプロペラがなければ、建造コストの高いディーゼル・エレクトリック方式を選択せざるを得なかったことにもなる[98]

操舵室からのプロペラ翼角制御による翼角の変化は、主軸の負荷変動をもたらし、主軸ならびに各主機械の回転数の変動となって表れ、これらを素早くガバナーが検知し、各主機械への燃料噴射量を調節して、回転数を一定に保つよう自動制御された。

このガバナーによる主機械の制御は、フォイトシュナイダープロペラ採用により、既に主機械の定速回転制御を行っていた宇高連絡船 讃岐丸(初代) で使われていたが[99]、津軽丸型ではマルチプルエンジンのため、ガバナーは主軸のほか、各主機械にも装備され、各主機械の負荷の均等化を図りつつ、主軸回転数を一定に制御できるよう、これらのガバナーを統合する自動負荷分担装置が設けられた[100]。これらのシステム構築は当時試行錯誤で、津軽丸型各船でも種々の異なった方式が導入された。

また、操舵室において不用意にプロペラ翼角操縦レバーを進め過ぎても、主機械に過負荷がかからないよう、翼角の進みを調節する、過負荷防止装置については、津軽丸のものは動作が不安定過ぎて実用に耐えられず、結局使われなかった[101]。しかし第2船の八甲田丸からは使用された。

操舵室から総括制御室への推進機器の発停関連の指令は、操舵室のプロペラ制御盤にある押しボタン式のエンジンテレグラフが用いられた。STAD BY(主機械始動準備→主機械始動、入港前発停操作配置、警戒航行配置)、DRIVE PROPELLER(主軸回転させよ→流体継手嵌)、RING UP(出港配置解除、警戒配置解除)、FINISH(プロペラ使用終了)の4項目で、うちDRIVE PROPELLERの発令がない限り、総括制御室から流体継手に作動油を注入して、主機械を主軸に繋ぐ(現場では「フルカン嵌」と表現[102]、逆は「フルカン脱」)ことができないよう、インターロックがかけられていたが[103]、通常は操舵室から主機械や流体継手を直接制御することはできず(主軸“非常”停止用押しボタンはあった[104])、全て総括制御室を介して各機械類が遠隔操作され、操舵室からは可変ピッチプロペラの翼角制御だけが行われ、これによる負荷変動に対し、自動負荷分担装置が働いて、各主機械への燃料噴射量が自動制御された。

総括制御室では、表示された各主機械の負荷状況、船の運航状況、操舵室からの運航方針の伝達等を受け、主機械の稼働台数を検討し、円滑な運航ができるよう、主機械の発停と、それに伴う流体継手の嵌脱操作を、手動の遠隔操作で行った。なおこれらの手動遠隔操作は、一連の手順を順次自動的に行うシーケンス制御により、簡単なスイッチ操作で行われた。

このような、機関部の自動化は、頻繁に出入港を繰り返す国鉄連絡船ならではの方式で、運航状況がせい反対の、同時代の外航貨物船の自動化が、操舵室からの主機械発停を伴う主機械遠隔操縦から始まったのとは対照的であった[105][94]

バウスラスター

従来の青函連絡船では、出港時は、予め入港時に投錨しておいた右舷錨を揚錨して船首を右に回頭するだけでは事足らず、船首のロープを補助汽船に牽引させていた。また入港時は青森、函館とも、船首から岸壁まで係船索を綱取り艇に運ばせて、岸壁のビットに繋ぎ、それを引き寄せて接岸していた。

津軽丸型では、これらの作業を解消し、より迅速に離着岸できるよう、既にヨーロッパの鉄道連絡船では装備されつつあったバウスラスターを装備することとした。これは操舵室直下の船首喫水線下に、両舷間をつなぐ内径2.2mのトンネルを設け、その中に直径2mの可変ピッチプロペラを装備し、毎分264回転で回転させ、翼角制御だけで左右いずれの方向へも水流を発生でき、当時の補助汽船1隻分相当の最大9.3トンの推力を発生できる、 三菱横浜KAMEWA SP800/6S型バウスラスターを日本の船として初めて装備した[106]。なお、1966年(昭和41年)建造の第7船、十和田丸(2代)では、バウスラスタートンネル内で、プロペラ軸を両側から3本ずつのステーで支持する6-STAY型から、片側3本のステーだけで支持する、3-STAY型のSP800/3Sに変更された[107]

これを駆動するのは、バウスラスタートンネル直上のバウスラスター室に設置された625kW(850馬力)の三相交流巻線型誘導電動機で[34]、使用は通常出入港時に限られるため、係船機器の電力需要時間帯と重なり、主発電機には余裕はないが、出入港時は低速のため、主機械には余裕があるため、右舷主軸に繋がる900kVAの主軸駆動発電機の電力を使用した。

バウスラスター使用開始前には予め、操舵室プロペラ制御盤のスイッチから、翼角ゼロの無負荷状態で、バウスラスター駆動電動機とバウスラスター翼角変節油ポンプ駆動電動機を始動させておけば、必要に応じてバウスラスターの翼角を、操舵室プロペラ制御盤のバウスラスター翼角操縦レバー、または左舷の補助スタンドのバウスラスター翼角操縦レバーから制御することで、船首に横推力を発生でき、出入港時のほとんど舵の効かない低速時に、容易に回頭できるようになり、就航当初こそ綱取り艇も使用されたが、やがて、補助汽船の助けを借りるのは、入港着岸時の右舷船尾押しだけとなり、出港時を考慮した入港時の右舷投錨の頻度も少なくなった。

なお、バウスラスター使用時は、その電源となる主軸駆動発電機を駆動する右舷主軸に負荷がかかり、右舷の自動負荷分担装置が働いて、自動的に稼働中の右舷主機械への燃料噴射量が増やされるが、バウスラスター出力の850馬力は、主機械0.5台分以上と相当大きいため、右舷稼働機が2台では負荷的に苦しいこともあった。津軽丸が就航して程なく、バウスラスターを使用する港内での操船時、とりわけ入港時の減速しながらの右回頭時には、右舷の可変ピッチプロペラに後進をかけるため、左舷よりも右舷の負荷の方が大きいことが明確になったが、続々と建造された津軽丸型では、第7船の十和田丸(2代)まで、主軸駆動発電機は負荷の大きい右舷のままで変更されることはなかった[108][109]

2枚舵

青函連絡船では、洞爺丸事件直後の1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以来、2基のプロペラの直後にそれぞれ舵を置く2枚舵を採用することで、強い横風を受けた時、風下に回頭できなくなる、“風に切れ上がる”という現象を解消したが[110]、津軽丸型もこれを踏襲し、更に低速時に限り舵角を在来船より10度多い45度までとれるようにしたうえ、操舵機出力も倍増し[111]舵角0度から35度まで転舵所要時間も約9秒と、在来船の半分程度に短縮して、低速時、迅速にその旋回性能が発揮できるようにした、[112]。なお、左右の主軸間隔よりも左右の舵の間隔を狭くしたことで入渠時、舵の有無にかかわらず推進軸抜去が可能となった[113]

操舵室

操舵室の形は十和田丸(初代)に準じていたが、前面を7度前傾させる[114]などの改良もなされた。

操舵スタンド

船体中心線上には操舵スタンドがあり、大型自動車のハンドルを舵輪として装着したジャイロパイロットを内蔵し[115]、このハンドルで手動操舵できるほか、船首方向を決めて自動操舵にすれば、ジャイロコンパスと連動して、横方向からの外力が働いても、常に船首は指示方向を向くよう操舵される装置で、既に外航船では古くから使われており、決して目新しいものではなかったが、国鉄では津軽丸で初めて装備された。舵角指令はジャイロパイロットから電気信号で、船尾車両甲板下の操舵機室の操舵機へ伝達され、油圧に変換され、油圧シリンダーを動かして舵を動かす仕組みで、常用2系統とノンホローアップ式(スイッチを倒した方向へ舵角が進み続け、目的の舵角でスイッチを中立に戻すと進みが停止する)の非常用2系統を備えていた[116]

プロペラ制御盤

操舵スタンドの左には、プロペラ制御盤があり、両舷の推進用可変ピッチプロペラの翼角を、前後に動かして遠隔制御する2本のプロペラ翼角操縦レバーと、その間の向う側に バウスラスターの翼角を、左右に動かして遠隔制御するバウスラスター翼角操縦レバーがあり、レバー先端のボタンを拇指で押してロックを解除しながら、操作する作りであった。それぞれのレバー根元の制御盤上には、レバーの動く方向と平行に直線タイプのゲージが設置され、指令翼角と実際の翼角とを、ゲージ両側から指針で表示するもので、視覚的には非常に優れたものであった。

このプロペラ制御盤のプロペラ翼角操縦レバーからの翼角指令は、電気信号で第3補機室の可変ピッチプロペラ管制装置へ送られ、そこで油圧に変換される仕組みで、これも常用2系統とノンホローアップ式(スイッチを倒した方向へ翼角が進み続け、目的の翼角でスイッチを中立に戻すと進みが停止する)の非常用2系統を備えていた[117]バウスラスター 翼角操縦レバーからの翼角指令も、電気信号でバウスラスター室の油圧装置へ伝えられる仕組みで、こちらは常用1系統、ノンホローアップ式の非常用1系統であった[118]

これら、非常用翼角操縦スイッチや、常用、非常用の切換スイッチ等は、推進用プロペラとバウスラスターの2本のプロペラ翼角操縦レバーと、バウスラスター 翼角操縦レバーに囲まれた盤面手前側に配置されていた[119]

プロペラ制御盤の奥の斜面部分には両舷主軸回転数計が、その下にはデジタル表示の各舷の主機稼働台数表示器や主軸非常停止用押しボタンが、それらの間には時計が、右側(八甲田丸では左側)にはバウスラスター駆動電動機電流計が装備されていた[120][104]

更に操舵室左舷端には、着岸時、船長が接岸する左舷側を目視しながら、直接バウスラスターと両舷プロペラの翼角制御ができるよう、これらの補助操縦レバーを装備した補助操縦スタンドが設置されていた。プロペラ制御盤の主操縦レバーと左舷の補助操縦レバーは機械的に繋がっており、いずれかを操作すると他方も同じように動いたが、このように2本の操縦レバーを機械的に繋いだことが、両方の操縦レバーの動きを非常に重くて使いづらいものにしてしまった。 高速域では、わずかな翼角の違いで速度が大きく変化してしまうため[121]、津軽丸では就航早々、プロペラ翼角操縦レバーが重すぎて、翼角を細かく調整できないと不評をきたしてしまった[122]

このため、第4船の大雪丸(2代)からは、プロペラ制御盤上に四角い箱を載せた不格好な形となり、その箱の両側面に、前後に動かすというよりは倒すという感じの2本のプロペラ翼角操縦レバーが、手前の面には左右に倒すバウスラスター翼角操縦レバーが装備され、両側面の左右のプロペラ翼角操縦レバーの付け根のレバーの回転軸には微動調整用グリップが付けられた。箱の上面には三つの丸型メーターが並び、両側が両舷のプロペラ翼角計、中央がバウスラスター翼角計で、いずれも外周が指令翼角、内周が実際翼角であった[119]。しかしこの微動調整グリップも硬くて不評であった[122]。なおこの箱が邪魔で、プロペラ制御盤の奥の斜面部分の低い位置が見えづらくなったため、主機稼働台数表示器は両舷主軸回転数計の内側の高い位置へ移動し、中央にあった時計と、右側にあったバウスラスター駆動電動機電流計の場所を入れ替えた。また、バウスラスター翼角操縦レバーが手前に来たため、非常用翼角操縦スイッチや、常用、非常用の切換スイッチ等は、盤面手前側に横1列に広がって配置された。以後これらの配置が標準配置となった[119]

第7船十和田丸(2代)では、レバー操作の重くなっている元凶の、主操縦レバーと補助操縦レバーの機械的連結を解消し、電気的な連結に改め、ようやく軽く扱いやすいプロペラ翼角操縦レバーとなった。このため、主操縦レバー、補助操縦レバーを問わず、後から操作した操縦レバーの指示が優先されることになった[123]。プロペラ制御盤上の不格好な箱はなくなり、津軽丸の形に似たものに戻ったが、レバー操作が軽くなったため、その長さは津軽丸よりかなり短くなり[124]、レバーの先端に拇指をかけ、グリップ部分を引き上げるとロックが解除され、このグリップ部分を回すと微動調整できる形となった。プロペラ制御盤の翼角計は丸型で、外周が指令翼角、内周が実際翼角であったが、これとは別に、プロペラ翼角操縦レバー根元の制御盤上にも、指示翼角が直観的にわかるよう、直線型の目盛板が貼り付けられた[125]。バウスラスター翼角操縦レバーはなくなり、手のひらで押すとロックが解除されるレバー付きのグリップハンドルとなり[126]、この形が以後のプロペラ制御盤の標準型となった。

不評だった津軽丸タイプ(津軽丸、八甲田丸松前丸(2代)の3隻)のプロペラ制御盤は、1969年(昭和44年)頃から、両舷プロペラ翼角操縦レバーの動きを軽くするため、補助スタンドから両舷プロペラ翼角操縦レバーが撤去され、バウスラスター翼角操縦レバーだけが残された。また主スタンドでも、外周が指令翼角、内周が実際翼角の丸型の翼角計に変更され、プロペラ翼角操縦レバーも先端グリップを持ちあげるとロックが解除され、その部分を回すと微動調整できる十和田丸(2代)タイプの小型のレバーに交換され、レバー根元の制御盤上には指示翼角が直観的にわかるよう、直線型の目盛板が貼り付けられた。プロペラ翼角操縦レバーの小型化により、盤面手前が空いたため、非常用翼角操縦スイッチや、常用、非常用の切換スイッチ等は、盤面手前側に横1列に広がって配置された。依然バウスラスター翼角操縦レバーは中央奥に残った。

その後、大雪丸(2代)タイプ(大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)の3隻)でも補助スタンドから両舷プロペラ翼角操縦レバーが撤去され、プロペラ制御盤上の箱も撤去され、十和田丸(2代)に準じた形のものとなり、バウスラスター翼角操縦レバーも小さなグリップハンドルに変更された。

しかし、津軽丸から羊蹄丸(2代)までの6隻では依然、プロペラ制御盤上のバウスラスターの翼角操縦レバーや翼角操縦ハンドルと、補助スタンドの翼角操縦レバーとは機械的に繋がったままであったが、その後の関係者の努力で実用に耐えるレベルに維持された[127]

船位自動測定装置(SPレーダー Ship’s Position System)

青函連絡船では、航路がほぼ南北方向のため、、航路途中の7ヵ所の沿岸の通過目標を東西に見る地点を通過地点とし[128]、その通過時刻を見ながら速度調節をし、また通過目標との距離をレーダーで測ることで、予定航路からの左右のずれも知ることができた。

これを自動化するため、沿岸の更木岬、大魚島(おおよしま)、平館灯台、蓬田に反射板を設けて電波定点とし、まず第1レーダーで電波定点の方位と距離を入力すると、前部マスト頂部の円筒形のラドーム内のSPレーダー空中線から、その電波定点の反射板に向けて電波を出し、その反射波を受けると、SPレーダーは、以後その電波定点を捕捉し続け、その方位と距離を連続的に測定し、予め入力してあった予定時刻、予定航路からのずれを、操舵室右側の第2レーダー指示器の左側(八甲田丸のみ右側)に並んで設置された制御表示器の上面中央部の正方形の表示盤に表示した。表示盤には田の字に十字線が描かれており、更に、時間的早遅れを表示する横指針と、左右のずれを表示する縦指針があり、この交差する2本の指針を動かして、現在位置を2本の指針の交点で表示し、時刻、左右のずれ共になければ、この2本の指針による十字と田の字の十字はぴったり合致するが、ずれがあれば、早い遅いは上下のずれとして分単位で、左右のずれは海里単位で表される、視覚的にも分かりやすい表示ではあった。

また、他船を電波追尾すれば、衝突予防レーダーとしても使用できた[129]。しかし電波定点の捕捉に難があり[130]、またこれだけの性能では、従来のレーダーで事足りたこともあり、結局十分使われず、1978年(昭和53年)の、同時に20隻まで監視可能なレーダー情報処理装置(CAS)導入時[131]には撤去されてしまった。 この装置の最終目標は、ジャイロパイロットやプロペラ翼角操縦装置まで繋いでの自動操縦であった[132]

安全対策

船尾水密扉

津軽丸型のように車両甲板船尾に車両積卸し用の開口があり、車両甲板全幅が車両格納所となっている車載客船では、船の水線長よりわずかに長い波長の大波を、船首方向から受け続けて、大きくピッチングしている状態で、大波によって船首が持ち上げられた時、船尾はその前に通り過ぎた波の斜面に勢いよく突っ込み、海水が車両甲板上にまくれ込む形で流入する。船尾が上がるとこの海水は車両甲板上を船首方向へ流れ下り、再び船首が上がってもこの海水は、前回と同じメカニズムで船尾から新たに流入してきた海水と衝突して、流れ出ることができず、やがて車両甲板上に大量の海水が滞留し、これが自由水のため、左右どちらか低い方へ素早く流れ、これだけで転覆してしまうことが、洞爺丸事件後の模型実験で明らかになっていた[133][134][135]

このため、旅客設備を有する津軽丸型では、船尾水密扉設置は安全上必須で、既に1959年(昭和34年)までに、3隻の客載車両渡船、通称デッキハウス船第六青函丸第七青函丸第八青函丸で、車両甲板船尾3線分をカバーして、船体外殻と同等の強度を有する大型の船尾水密扉が設置されていた[136]

これら3隻では、鋼鉄製の上下2枚折戸式船尾扉で、扉閉鎖状態での耐波性等を考慮し、船尾開口部位置で船内軌道の3線間に2本の梁柱を設置して、船尾扉を内側からも支える構造であった。この梁柱は当然船内軌道の建築限界外に設置されており、船内軌道の間隔は船尾近くでは船尾へ行くほど狭くなるが、車両は隣接する軌道の建築限界と車両限界が交わる接触限界までは積載可能なため、車両積載数確保のためには、船尾扉は接触限界よりも船尾側への設置が望まれた[137]。実際、デッキハウス船では船尾扉設置前の車両積載数がワム換算46両であったのに対し、設置後は43両と、各線1両ずつの減少となっていた。

このため、津軽丸では同じ上下2枚折戸ながら、鋼鉄箱型として強度を増し、梁柱による支持を不要とした。またデッキハウス船ではその開閉に、左右1対のワイヤーを船楼甲板に設置した電動ウィンチで巻き込んで行われたが、この左右のワイヤーの長さ調節に相当手間がかかるため、 その後、1961年(昭和36年)11月に船尾水密扉が設置された洞爺丸型車載客船羊蹄丸(初代)では、1線幅ながら電動油圧式とした。しかしこれはワイヤー式に比べガイドレールの厚みが増して、60cm程度船首側へ寄せなければならない欠点もあった[138][137]

ちょうどその頃、油圧シリンダー内を動くピストンの直線往復運動を、大ピッチの螺旋を用いてピストン軸を中心とした回転運動に変換し、この油圧シリンダーをそのまま自ら動くヒンジとして使う“トルクヒンジ”がスウェーデンのゲタベルケン社で開発され、貨物船のハッチカバーの開閉等に使用され始めていた。“トルクヒンジ”は、歯車類を介さず、船尾扉のヒンジとして直接装備できたため、船尾扉の構造が単純化され、その油圧動力機械は直下の操舵機室内に納めることができ、旅客定員にかかわる船楼甲板を占有しない等の利点が認められ、採用されることになった。当時萱場工業が技術導入して国産化しようとしていた時期で、第1船の津軽丸だけはゲタベルケン社製の輸入品が装備された[139]

このトルクヒンジは、船尾開口部上縁と船尾水密扉の上部扉の間に20ton-mのヒンジを、上部下部扉間には6ton-mのヒンジを装備し、共に外開きとした。閉鎖状態から、まず第1段階として、上下扉間のトルクヒンジを180度回転させて、下部扉を上部扉外側に折り重ねる。続いて、船尾開口部上縁と上部扉の間のヒンジを約90度回転させて、この2枚重ね状態の扉を水平まで持ち上げ、船楼甲板船尾端から突出したポンプ操縦室の下面にロックする構造とした。また全閉時は下部扉下辺内側4ヵ所を船体側から油圧シリンダー駆動のフックで引っ掛けて引き寄せ、水密性を確保する締付け装置があったほか、下部扉両側上部の船尾扉折戸の折れ目の高さ近くの位置に、下扉開閉時のヒンジを中心とした回転運動の円周方向にその先端が沿ったフックを設け、閉鎖時に船体側のアイに納まって、折戸の折れ目が外側に脱転しないよう固定された[140]

この船尾扉は従来のようなシャクトリムシ運動をしないため、ガイドレールも不要となり、在来船とは船尾での係船索使用位置を変更するなどして、船尾扉を十分に船尾側に設置でき、ワム換算48両積載可能となった。また下部扉のみ開放の“半開状態”でも安定して停止でき、全開では入渠甲板上からも、船尾全体を見通せなかったこともあり、出入港時[141]や港内錨泊時などに、半開状態がよく使われた。なおゴムパッキンは今回からは扉側に付けられ、船内軌道が船尾扉の敷居をまたぐ部分での跳ね上げレールは、従来通り船内側へ跳ね上げる構造で、羊蹄丸(初代)同様、開閉操作にはシーケンス制御が採用され、車両甲板船尾右舷と、ポンプ操縦室の開閉制御盤から操作できた[142]

津軽丸は日本初のトルクヒンジ装備船であったが、当初は装備方法や操作の不慣れ、想定設計以上の使用頻度もあり、ゲタベルケン社製の輸入品の6ton-mトルクヒンジは、早くも試運航中の1964年(昭和39年)4月28日には閉鎖状態で動かなくなり、急遽萱場工業製の国産品と交換、同年秋には工事中の不手際から20ton-mも破損し、国産品と交換された[139]。しかしこのトルクヒンジ式船尾扉は、以後新造あるいは改造の青函連絡船全船に装備され、その都度改良を重ね、8隻目の1967年(昭和42年)5月改造就航の石狩丸(2代目)でほぼ完全なものとなった[143]

消防設備

内装はできる限り不燃性、難燃性の材料を採用したうえ、車両甲板下では各水密区画が防火区画となり、船楼甲板では、「前部の船員室」、「前部2等客室」、「食堂と厨房」、「2等出入口広間と右舷2等雑居室」、「後部2等船室」に、遊歩甲板では「前部の船員室」、「1等指定椅子席と1等出入口広間」、「後部1等船室」、等の防火区画に分けられ、その境界線上の扉には防火扉が設置され火災時は閉鎖することとした[144]

これら各区画には各種火災感知器が設置され、火災時は、操舵室後壁の火災警報盤のグラフィックパネルに火災発生場所が表示された。客室は案内所、機関室は総括制御室でも警報ベルが鳴り、操舵室と総括制御室ではボイスアラームが「火災発生」等と音声で警報を発した[145]

車両格納所は船首から船尾まで全通していて区切りようがなく、火災発生時延焼しやすい場所で、津軽丸では79℃で作動するスプリンクラーを、2系統で百数十個設置したが、この方式は熱を受けないと放水しないため、出火しても出火場所しか放水しない恐れがあった。津軽丸型では車両格納所には煙感知に優れたイオン式火災感知器が設置されていたため、この警報を受けてから手動で放水した方が延焼を防げる、ということで、第4船の大雪丸(2代)からは遠隔手動式の9系統に変更された[146]

機関室では、軽油を燃料に使用するため、油ビルジへの引火を考慮して、第1補機室、発電機室、第1主機室、第2主機室、第2補機室の5区画に固定式泡消火装置が設置された。これは二酸化炭素を多く含む泡を噴射して窒息消火するもので[147]、操舵室から遠隔操作できたが、後年固定式炭酸ガス消火装置が第1補機室を除く4区画に追加装備された[148]。その他客室には消防ホース付きの消火栓や消火器が各所に設置された。

ボイスアラーム

津軽丸では、自動化、遠隔操縦化の多用で、設備が複雑となり、警報だけでは区別がつかず、その都度表示灯を確認しなければならない煩雑さを避けるため、音声による警告を導入した。

ボイスアラーム本体は無線通信室左舷の電気機器室に設置され、 録音再生には写真用35ミリフィルムをベースに磁性鉄粉を塗布したエンドレステープを用い、これに6トラックで録音、この 35ミリテープ8本を並べて合計48トラックとし、これらを1組の駆動装置で動かしたため、警報発声時は全テープ48トラック全てを録音再生ヘッドと摺動させ、該当トラックのみ再生する仕組みで、津軽丸では、うち32トラック32種類の警報発声が設定されていた。第4船の大雪丸(2代)からは、1警報が1台の機械部分だけのテープレコーダーにユニット化され、これが48台ボイスアラーム本体に差し込まれていた。増幅はボイスアラーム本体で行われ、警報発声時は該当ユニットだけが動いて再生された[149][150]

貨車海中投棄装置

液体塩素や石油類を輸送するタンク車など、危険物積載車両搭載は貨物便の船1番線、船4番線の各船尾3両以内とされていたが[151]、当時これら危険物積載車両の輸送が増加してきており、これらは車両甲板のスプリンクラー程度で対処できるものではないため、1964年(昭和39年)12月3日に、11月30日終航したばかりの第八青函丸を使って貨車海中投棄試験が行われた。この時は速力3.9ノットで航行しながら、石炭がらを満載した2軸貨車を、キャプスタンのほか、人力でも海中投棄を行い、トリムをつけて船尾を下げれば転動テコでも始動できることも確認されたが、いずれも貨車の速度は秒速1.5m程度で、車体の長い車両では車両甲板後端にひっかることも懸念された。

このため、貨車引き出しに、航行する船から見て、後方へ流れる海水の水中抵抗を利用することが考えられ、落下傘のような直径60cmの金属製の半球形の水中傘が試作され、翌1965年(昭和40年)9月4日、8月31日に終航したばかりの 渡島丸(初代)を用い、2回目の貨車海中投棄試験が行われた。速力14.2ノットで航行しながら、石炭がら満載のボギー無蓋車トキ15000形1両(台車中心間9.7m全重量41.1トン)の連結器に、50mのワイヤーの更に先に、この金属製水中傘を5m間隔で4個繋ぎ、更にその先30mに円錐形浮標をつけたワイヤーを繋ぎ、先端の円錐形浮標と水中傘を海中に投げ込んで、水中傘が海水の抵抗で後方へ引っ張られて、貨車を引き出し、そのまま海中投棄までできるかが試みられた。 引き続きチキ300形2両連結(台車中心間8.0m全重量24.5トン×2)を、水中傘を8個としたもので、同様に海中投棄を試みた。それぞれ秒速3.8mと3.4mで、問題なく海中投棄できた[152]。この実験の成功により、津軽丸型6隻を含む当時就航中の全船は、1966年(昭和41年)までに車両甲板後端のエプロン甲板との段差部分に収納場所を設け、この水中傘貨車投棄装置が収納された。また、その後建造された十和田丸(2代) [153]を含む青函連絡船全船でも、同様の対応がとられた。

救命設備

1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)では、端艇甲板には大きな救命艇が10隻も並んでいたが、津軽丸では、小さな救助艇が航海甲板に2隻あるだけで、あとはカプセル型のコンテナが航海甲板両舷の多数の架台上に2~3個ずつ載っていたが、遠目には目立たないものであった。

このコンテナには、25人乗りのゴムボートである膨張式救命いかだ(ライフラフト)が折りたたまれて収納されており、乗員乗客全員収容できるだけの数を備えていた(新造時52個)。緊急時には操舵室後壁の非常操作盤内のハンドル操作で、架台のストッパーを油圧(津軽丸と松前丸(2代)以外は空気圧)で外し、片舷ごとの一斉投下ができたほか、各架台においても手動で個別に投下できた。海面に投下されれば、一端を船体に結び付けた紐が、コンテナ内の炭酸ガスボンベの口金を破り、折りたたまれたゴムボート内へ炭酸ガスが自動注入されて膨張し、海面に浮くようになっていた[154]

この救命いかだ一斉投下と前後して、航海甲板の片舷3ヵ所ずつから、幅1.5mの網梯子も放出されるが、名前どおりのアミバシゴで、使えるのは元気な人だけ[155]救命艇のように、高い端艇甲板から乗客を乗せて海面に降ろせないため、客室から 救命いかだの浮かぶ海面まで、乗客を降ろす手段が必要になった。

このため津軽丸では、三菱電機で開発された世界初の、甲板から海面まで滑り降りることのできる膨張式滑り台が搭載された[156]。これは、通常は小さくたたんで収納され、非常時放出されると、高圧窒素と随伴して吸い込まれる空気で膨張し、最終的には内圧が約2気圧のとなり、相当剛性の強い気柱のトラス構造の滑り台が形成される仕組みで、トラス内部には人が滑り降りる救助袋が展開され、先端には滑り降りた人を一旦収容するゴムボートも付属した形の滑り台となった。

遊歩甲板用は1等出入口の直後の1層上の航海甲板両舷側に設けられた箱に収納され、乗客はその直下の遊歩甲板舷側から滑り込める形の、長さ14mの膨張式滑り台で、左右1組ずつ、船楼甲板用は、左舷は左舷前部2等椅子席前端と、左舷後部2等椅子席前端、右舷は右舷前部2等雑居室前端と、旅客食堂後ろの通路先の行き止まりの4カ所に収納場所を設け、乗客はそこから滑り込む形の、長さ10m(第2船の八甲田丸以降は11m)の膨張式滑り台が、左右2組ずつ設置された。船体とは直角方向に、舷側から海面へ斜めに突き出した滑り台となるため、多少の船体横傾斜には対応できる構造であった[157]。この放出操作も操舵室後壁の非常操作盤内のハンドルでの遠隔操作のほか、現場での手動操作も可能であった[158]

津軽丸型就航前後からの青函航路

基準航路

津軽丸型が就航する前年の1963年(昭和38年)までは、青函航路には明確な基準航路の設定はなく、上り便は、南10度西の針路で27海里進むと、平館灯台まで10海里の地点に達し、ここで平館灯台を右12度に見る針路をとれば、平館灯台2海里沖を航過でき、以後南1度西の針路で青森に向かう。下り便は、北1度西の針路で45海里進むと、葛登支灯台まで10海里地点に達し、左12度に葛登支岬灯台を見る針路をとれば、葛登支灯台2海里沖に達し、以後函館に向かう、というレーダーのなかった昔からの航法を基本とし、青森から函館に至る、南北に細長い帯状の非占位帯を設け、上り便はその東側を、下り便は西側を航行して、上下便同士が衝突しないようにしていた[159]

1963年(昭和38年)は、既に全船がレーダーを装備し、容易に船位測定が可能な時代となっていた。そこで国鉄では、津軽丸型の就航を見据え、高速便も混じった多数便運航に対応するため、同年10月には全連絡船が一定の航路上を航海する基準航路試案を作成し、試行を開始し、翌1964年(昭和39年)1月には修正を加え、4月からは津軽丸型も加えて試行を重ねた上、1965年(昭和40年)4月1日にこの基準航路を「青函船舶鉄道管理局連絡船運航基準規程」に掲載し、正式に採用した[160][161]

このとき設定された青函航路通過物標間所要時分表[162]では、途中の通過物標間の所要時間と速力が提示され、津軽丸型が運航する3時間50分便は、上り便では、函館離岸から穴澗(穴澗岬300度1海里)までが25分、穴澗から湯の島(湯の島山頂から270度4.3海里)[163]までの52.28海里を18.16ノットで2時間53分、湯の島から青森着岸までが32分と決められ、下り便では、青森離岸から湯の島(湯の島山頂から270度5.1海里)まで21分、湯の島から葛登支(葛登支岬灯台から90度2海里)[164]までの51.35海里を17.78ノットで2時間53分、葛登支から函館着岸までが36分と決められた。しかし、出港時の所要時間は在来船より2分、入港時は青森側で4分、函館側では3分しか短く設定されておらず、その後の津軽丸型での操船の慣熟につれ、出入港時にそれぞれ数分ずつの余裕時間を持つに至り、荒天時や到着列車遅れ時の回復運転、平穏時の省エネ運航に活用された。

運航

デッキハウス船の第六青函丸1964年(昭和39年)5月3日に運航終了し、入れ替わるように、津軽丸が5月10日に就航し、第2船の八甲田丸は同年8月12日に就航し、車載客船大雪丸(初代)が8月31日運航終了した。1964年(昭和39年)9月30日までは従来通り深夜の特急接続便の1便が4時間25分、2便が4時間30分運航していた以外は、下り4時間30分上り4時間40分運航の最大22往復(通常19往復)で、うち旅客扱い便は最大6往復(通常5往復)で、両船も他の在来船と共通運用であった[165]

1964年(昭和39年)10月1日ダイヤ改正で、初めて津軽丸型専用の4往復が設定され、東北本線初の寝台特急はくつると、北海道内では2番目の設定となる特急おおとりとを接続する3便、4便のみで3時間50分運航を開始し、深夜の特急接続便1便、2便を含む6本の便では4時間20分運航を開始した。在来船でも運航できる2往復も含め、旅客扱い便は6往復となったが、最大22往復には変わりはなかった[166]

1965年(昭和40年)8月5日の第6船の羊蹄丸(2代)就航で、当初予定の6隻が出揃い、引退予定の老朽船も9月30日運航終了の石狩丸(初代)を最後に全て引退した。また青森第2岸壁と函館第2岸壁では、55分折り返し運航が可能となった。

1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正で、ようやく一部に2.5往復運航が開始された。津軽丸型5隻12往復で、うち8往復が旅客扱い便、津軽丸型1隻と在来船4隻で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)、十和田丸(初代)1隻1往復の4時間30分運航の旅客扱い便の、最大23往復(通常20往復)となり、うち旅客扱い便は10往復と一気に増えた。津軽丸型5隻で運航する12往復は全て3時間50分運航となった[167][168]

1966年(昭和41年)10月1日ダイヤ改正では、十和田丸(初代)が車両渡船への改造工事のため休航し、代わりに追加建造の津軽丸型第7船 十和田丸(2代) が11月1日に就航したため、津軽丸型5隻12往復、1隻2往復、、津軽丸型1隻と在来船4隻で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)で、最大24往復(通常22往復)となったが、旅客扱い便は10往復のままであった。このダイヤ改正から、旅客扱い便は全て津軽丸型になり、原則3時間50分運航になったが、深夜の特急接続便の後発の101便は4時間10分運航であった。1967年(昭和42年)5月には車両渡船として十和田丸(初代)改造の石狩丸(2代)の再就航があったが、最大運航本数に変化はなかった[169][168]

1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正時には、青森、函館両駅の構内配線が改良され、青森第1岸壁、函館第1岸壁で、それぞれの第2岸壁との同時作業での55分折り返し運航可能となった。ここに全面的2.5往復運航が始まった。津軽丸型2隻5往復運用を3組とし、それぞれ、甲、乙、丙系統とした。津軽丸型1隻と在来船4隻(または在来船のみ5隻)で10往復(いずれも4時間30分運航の貨物便)、最大25往復(通常23往復)、うち旅客扱い便は11往復となった[170][171][168]

1969年(昭和44年)10月1日ダイヤ改正では最大28往復(通常26往復)が設定され、その当日に1日2.5往復可能な高速車両渡船渡島丸(2代)が就航した。津軽丸型6隻15往復で、1隻余った津軽丸型と、この渡島丸(2代)の2隻で5往復し、在来船の檜山丸型2隻、石狩丸(2代)、更に引退間際の蒸気タービン船十勝丸(初代)の4隻もフル稼働8往復して青函航路初の28往復運航を、11月12日から24日まで行った[172][173]

1970年(昭和45年)6月30日までに高速車両渡船渡島丸(2代)型3隻が就航し、蒸気タービン船は引退し13隻体制となっていた。1972年(昭和47年)3月ダイヤ改正からは最大30往復(通常28往復)が設定され[168]、同年秋冬繁忙期の10月6日から31日まで津軽丸型6隻で15往復、1隻で2往復、渡島丸(2代)型2隻で5往復、1隻で2往復、檜山丸型2隻と石狩丸(2代)の在来船3隻で6往復して、青函航路初の30往復運航が行われた[174]。青森、函館両桟橋の折り返し容量から30往復が限度であった。

このように、1968年(昭和43年)10月以降は、津軽丸型は持てる能力をフルに発揮する稼働を続け、就航前の1963年(昭和38年)の旅客輸送人員が366万人、輸送貨物量593万トンであったのに対し、1970年(昭和45年)にはそれぞれ470万人、847万トンに達していた[175]。しかし貨物輸送は、これでも輸送能力が輸送需要に追い付けず、1966年(昭和41年)以来輸送制限を行っていた[176][12]。しかし、このような中、航空運賃の相対的低下や長距離フェリーの就航、1973年(昭和48年)秋には第1次オイルショックによる景気低迷もあり、旅客は1973年(昭和48年)の499万人、貨物は1971年(昭和46年)の855万トンをピークに以後急激に減少していった[175]

国鉄では、歯止めのかからない貨物輸送量の減少に対し、1978年(昭和53年)10月ダイヤ改正では、1972年(昭和47年)3月以来の、最大30往復の運航ダイヤを見直し、最大27往復に減便し、車両渡船渡島丸(2代)を係船した。更に1980年(昭和55年)10月には車両渡船日高丸(2代)を係船し、最大24往復へと減便し[177]1981年(昭和56年)の旅客輸送人員は248万人、貨物輸送量は465万トンと、ピーク時から半減していた[175]

その頃掘削中の青函トンネルは、1980年(昭和55年)における開業予定時期は1984年(昭和59年)であったが[178]、未だ流動的で、初期の津軽丸型は、耐用年数の18年を1982年(昭和57年)に迎えることことになった。これは国鉄の財産管理上の基準年数で、必ずしも物理的なものではなく、実際過去にも20年以上稼働した船はあるが、老朽化とともに維持費も増大するため、係船機器やヒーリングポンプ、可変ピッチプロペラ等が他船と異なった津軽丸と松前丸(2代)を引退させ、他の5隻は1981年 (昭和56年)から順次延命工事を施行して、継続使用することとした[179]。しかし、旅客数が減少したとはいえ、利用客の集中する深夜便は、多客時には津軽丸型1隻では運びきれず、従来通り続行便が必要で、このため、1982年(昭和57年)には、 1976年(昭和51年)と 1977年(昭和52年)建造の、船齢の若い車両渡船 檜山丸(2代)石狩丸(3代)に、650名の旅客と20台の乗用車を積載できる甲板室を造設して、客載車両渡船とした。

津軽丸は1982年(昭和57年)3月4日、松前丸(2代) は同年11月12日に運航終了した。残った5隻のうち、大雪丸(2代)は検査切れのため、青函航路終航2ヵ月前の1988年(昭和63年)1月6日運航終了し、その他4隻は同年3月13日の航路終航まで運航された。

更に、羊蹄丸(2代)十和田丸(2代)は、青函トンネル開通記念博覧会の協賛事業として、同年6月3日から9月18日まで復活運航を行った。 羊蹄丸(2代)が函館側から毎日1往復、十和田丸(2代)が青森側から毎日1往復の計2往復で、車両航送は行われなかった[180]

沿革

青函連絡船時代(一部同型他船も含む)

終航後

  • 1982年(昭和57年) 12月24日 –東京の大久保商店(大久保尚志)に83,585,000円で売却されたが、函館ドックで係留継続[187][188][189]
  • 1983年(昭和58年)3月 25日[189]北朝鮮に転売され、日本人回航員の手によって自航で元山へ向け函館を出港。回航に先立ち函館ドックで白と紺色に化粧直しされた。北朝鮮では、「HAE YON」などに改称し、主に元山港を母港に貨物船として運航されていたという。
    • なお、この北朝鮮への転売の際には、兵員輸送など軍事転用への懸念から、国会で転売を問題視する声が挙がっている[187][190]。回航の際、CASなどは基板が何枚か抜かれ、使用できないようにされていた。
  • 1987年(昭和62年)3月 - サウジアラビアの船舶会社に売却され、「AL JAWAHER」に船名を改称。スエズエジプト) - ジェッダ(サウジアラビア) - ポートスーダンスーダン)の定期航路のカーフェリーとして運航されていた。この間、ジェッダ港で社外船に転職していた元青函連絡船乗組員に目撃され、報道されるなどした。イスラム教巡礼期はメッカ巡礼船としてトリポリリビア) - ジェッダ(サウジアラビア)で運航されたという。
  • 1996年(平成8年) - エジプト政府に納付金滞納により差し押さえられる。
  • 1998年(平成10年)5月21日 - 係留中に火災が発生。
  • 1998年(平成10年)12月14日 - スエズで解体される。

その他

  • 津軽丸のとされるものは、1つは青森市みちのく北方漁船博物館(以前は中三デパート前)、もう1つは函館市青函連絡船記念館摩周丸に程近い旧函館桟橋の一角に展示されている(以前は函館駅の駅舎正面に保存されていた)が、北朝鮮への売却前にとりはずされた本物であるという説と、各船の予備の錨を津軽丸の錨として展示したとの説があり、本物であるかどうかは定かではない。

脚注

  1. ^ a b 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p162 成山堂書店1988
  2. ^ 1967年8月1日の規程改正で船尾水密扉で閉鎖された車両格納所容積が総トン数に加算されなくなった:古川達郎 鉄道連絡船のその後p46,47 成山堂書店2002
  3. ^ a b 航跡p329 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  4. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp11 船舶技術協会1971
  5. ^ 青函連絡船栄光の航跡p371青函連絡船要目表 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  6. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp16 船舶技術協会1971
  7. ^ 青函連絡船史p72~75 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  8. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p160 成山堂書店1988
  9. ^ a b 青函連絡船史p77 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  10. ^ 青函連絡船史p78 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  11. ^ a b 古川達郎 続連絡船ドックp12 船舶技術協会1971
  12. ^ a b 航跡p27 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
  13. ^ 青函連絡船栄光の航跡p80 北海道旅客鉄道株式会社1988
  14. ^ 鉄道ファンNo.324 1988年4月1日発行
  15. ^ 船員給食外注化等の要員数減も含まれた:青函連絡船史附表p12 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
  16. ^ 青函連絡船栄光の航跡p370附表 北海道旅客鉄道株式会社1988
  17. ^ 青函連絡船栄光の航跡p240 北海道旅客鉄道株式会社1988
  18. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp82、83 船舶技術協会1971
  19. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp211~214 船舶技術協会1971
  20. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp296 船舶技術協会1971
  21. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p232、p235 船舶技術協会1971
  22. ^ レーダーマスト機器装備図 JNR図番233
  23. ^ 大神隆 青函連絡船物語p42~44 交通新聞社2014
  24. ^ a b 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p205,206 船舶技術協会1972
  25. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p220~222 船舶技術協会1972
  26. ^ a b 青函連絡船栄光の航跡p402 北海道旅客鉄道株式会社1988
  27. ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p79 船舶技術協会1977
  28. ^ 古川達郎 続連絡船ドックp340 船舶技術協会1971
  29. ^ 各船一般配置図 JNR図番104
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  32. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p168 成山堂書店1988
  33. ^ 青函連絡船栄光の航跡p123 北海道旅客鉄道株式会社1988
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  35. ^ 泉益生 連絡船のメモ(中巻)p208~234 船舶技術協会1975
  36. ^ 津軽丸、八甲田丸、松前丸は川崎MAN W8V22/30ATL、大雪丸、摩周丸、羊蹄丸は三井B&W 626MTBH-40, 十和田丸は川崎MAN W8V22/30mAL:泉益生 連絡船のメモ(上巻)p207 船舶技術協会1972
  37. ^ 泉益生 連絡船のメモ(上巻)p205,206 船舶技術協会1972
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  40. ^ 川崎重工(株)精機事業部 小山三雄 山本茂 わが国最大の可変ピッチプロペラについて 船の科学19巻7号p94,95 1966
  41. ^ 津軽丸一般配置図 浦賀重工 図番110-846-0 S39.3.28
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  76. ^ 青函連絡船栄光の航跡p168~171 北海道旅客鉄道株式会社1988
  77. ^ 表記人数は直接係船索を引張る人数で、着岸時の甲板掛人数は船首7名、船尾5名:泉益生 連絡船のメモ(下巻)p15~22 船舶技術協会1975
  78. ^ 泉益生 連絡船のメモ(下巻)p62 船舶技術協会1975
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  86. ^ クラッチが無ければ、1台でも故障するとその軸は運転不能となる
  87. ^ 巨大船に関する技術報告書の概要 船の科学20巻7号p129 1967
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外部リンク