神岡水電

神岡水電株式会社
Inotani old power station.jpg
神岡水電猪谷発電所
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
東京市日本橋区室町2丁目1番地1
設立 1922年(大正11年)8月1日[1]
解散 1942年(昭和17年)9月30日[2]
業種 電灯・電力
代表者 初代会長:牧田環(1922 - 1936年)
公称資本金 1000万円
払込資本金 625万円
株式数 20万株
総資産 1333万4204円
収入 81万6851円
支出 52万7417円
純利益 28万9434円
配当率 年率8.0%
決算期 3月末・9月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1939年9月期決算による[3][4]
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神岡水電株式会社(かみおかすいでんかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和初期に存在した日本の電力会社である。

大手電力会社の大同電力三井財閥に属する三井鉱山の共同出資により1922年(大正11年)に発足。神通川水系にて電源開発を手がけ、水力発電所を運営した。また軌道(通称神岡軌道)を経営する軌道事業者でもあった。1942年(昭和17年)に解散

概要

神岡水電株式会社は、当時神岡鉱山(神岡鉱業所、岐阜県)を経営していた三井鉱山(2009年日本コークス工業に改称)と、木曽川などで電源開発を手がけた大手電力会社大同電力の共同出資によって設立された電力会社である。1922年8月に設立。三井鉱山によって建設された水力発電所を神岡水電が譲り受けて運転する、という形で、岐阜県北部から富山県にかけて流れる神通川水系の河川(高原川跡津川など)にて電源開発を進めた。最終的には3か所、出力合計3万150キロワットの発電所を運転し、年間約2億3100万キロワット時の電力を発電した[5]。発電した電力のうち神岡鉱業所の必要分は低廉な料金で三井鉱山に供給し、余剰分は大同電力へと売電した[5]

電気事業のほか軌道事業も営み、神岡軌道を運営して神岡鉱業所の物資輸送などに従事し、両事業を通じて年間約60万円の利益金を上げていた[5]。しかし日中戦争下において電力国家管理政策が強化されると、1941年(昭和16年)に事業の柱であった発電所2か所に対して国策電力会社日本発送電への出資が指示される。翌1942年9月には残る発電所1か所と軌道事業を三井鉱山へと譲渡し、神岡水電は解散した。

神岡水電から日本発送電へと出資された2か所の発電所はその後、戦後日本発送電が解体されるにあたって北陸電力が継承している。

会社設立の経緯

神岡鉱山の自家発電

神岡鉱業の亜鉛製錬所(2009年撮影)

岐阜県北部の飛騨地方に位置する神岡鉱山は、2001年(平成13年)に採掘が中止されるまで亜鉛鉱山として栄えた鉱山である。三井グループに属する三井金属鉱業(三井金属鉱業神岡鉱業所)が操業していたが、1986年(昭和61年)に神岡鉱業が設立されて鉱山経営に当たるようになり、採掘終了後も同地で引き続き亜鉛の製錬所を操業している[6]。三井金属鉱業による経営となったのは1950年(昭和25年)に石炭・金属両部門の分割により三井金属鉱業が成立して以降のことで、明治から大正、昭和戦前期を通じて神岡鉱山を経営したのは三井財閥系の三井鉱山株式会社であった。

三井財閥による神岡鉱山の経営は、1873年(明治6年)に当時の三井組が一部鉱区を取得したことに端を発する[7]。以降、三井組は順次買収などにより鉱区を拡大し、1889年(明治22年)に神岡鉱山全体を掌中に収めた[7]1892年(明治25年)には三井鉱山合資会社、後の三井鉱山株式会社が設立され、鉱山経営は三井組から同社に移っている[7]

三井鉱山の経営となった神岡鉱山では、1894年(明治27年)3月に初めて発電設備が設置され、夜間の工場照明が石油ランプから電灯に切り替えられた[8]。この電灯点灯は神岡鉱山のみならず、岐阜県全体で見ても初めての電灯導入事例であった[8]。これが神岡鉱山における電気利用の第一歩であるが、この時点ではまだ電気は動力としては使用されず、1897年(明治30年)の導入成功以降ペルトン水車が明治の末期まで選鉱・製錬などの動力源として用いられた[8]。次いで1905年(明治38年)、製錬所の移転にあわせて出力5キロワット(後に30キロワットへ増強)の小型水力発電所が設置された[8]

やがて鉱山の外、船津の町においても、民間の船津電灯という会社の手によって1910年(明治43年)から電気の供給が始まる[9]。同社は供給に余力があったことから神岡鉱山はここから26キロワットの電力を受電することになり、機械動力の電化が始まった[8]。生産の増加に呼応して1917年(大正6年)には出力240キロワットの割石発電所が完成[10]。同発電所の完成により、導入がすでに始まっていた空気削岩機電動空気圧縮機が使用できるようになり、機械による鉱山採掘が本格化した[11]1919年(大正8年)には出力800キロワットの土(第一)発電所も建設されている[10]

三井の水力開発計画

旧神岡町内を流れる高原川(2013年撮影)

以上のように明治時代から三井鉱山が利用してきたのは、跡津川(土第一発電所を建設[12])など神岡鉱山の麓を流れる高原川神通川水系)の支流にあたる河川であったが、大正時代、第一次世界大戦が終息する頃になると高原川本流の開発にも目が向けられるようになる[13]。その契機は逓信省による水力調査であった[13]

神通川を含む飛騨山脈(北アルプス)を水源とする水量豊富な富山県下の諸河川は、明治末期以降に水力発電事業が本格化するとその適地として業界の注目を浴びていた[13]。逓信省においてもこれに着目し、臨時発電水力調査局を置いて水力調査を進めた[13]。同局が1914年(大正3年)、時の大隈内閣により行政整理の一環として廃止されると、三井鉱山は神通川・黒部川などの調査を担当していた技師田中吉政を逓信省から迎える[13]。田中は逓信省の了解を得た上で担当していた河川に関する調査資料を入社した三井鉱山に提供したことから、三井の水力発電計画は急速に具体化し、その後数年間にわたる水量測定、気象観測、地形測量を行って、三井鉱山は神通川水系ならびに黒部川水系において水利権(水利使用許可申請)を出願した[13]。出願地点は、神通川水系では高原川4地点をはじめとする計5地点、黒部川水系では計5地点であった[14]

高原川および黒部川における水利権を出願した三井鉱山であったが、黒部川の開発は実現しなかった。これは、アメリカ資本の導入によるアルミニウム製錬を企画する高峰譲吉が水利権の競願者として現れたためである[14]。この競願に対して政府当局は、三井鉱山に高原川、高峰側に黒部川の水利権をそれぞれ許可する意向を示したことから、電力の提供を条件として1918年(大正7年)に三井鉱山は黒部川における水利権出願を撤回[14]。黒部川の水利権は高峰らの東洋アルミナムに許可され、以降、同社や1928年(昭和3年)に同社を吸収する日本電力の手によって黒部川開発が進むことになる[14]

神岡水電の発足

黒部川の開発を断念した後、三井鉱山は出願していた高原川4地点における水利権のうち、「高原川第四水力」の水利権許可を1919年(大正8年)7月に取得[15]。この許可以前に跡津川など高原川支流にて4地点の水利権を得ており、これですべての発電所が完成した暁には3万キロワット以上の発電が可能となった[15]。だが、高原川第四水力の出願目的であった亜鉛の電解精錬は品質上の問題から断念されて実現しなかった上、土第一発電所が完成して鉱山への供給も間に合っていたため、神岡鉱山では大量に電力を消費する需要は存在しなかった[15]。このことから、三井鉱山は開発にあたって余剰電力の販路を確保する必要が生じた[15]

こうした中、電力の販売先として浮上したのが日本水力株式会社である。同社は、三井物産出身の実業家山本条太郎や、関西の電力会社大阪電灯京都電灯によって1919年10月に設立された新興の電力会社で、関西への電力供給を計画していた[16]。三井鉱山はこの日本水力との間に、高原川開発の共同経営と最大4万7000キロワットの電力販売を契約。日本水力は岐阜県の船津から富山金沢福井敦賀琵琶湖西岸・京都を経て大阪へといたる長距離送電線の建設許可を得ていたので、この送電線を利用して発生電力を関西へと送電することとなった[16]

関西への送電線建設に至る前に日本水力は福澤桃介率いる木曽電気興業・大阪送電との合併して1921年(大正10年)2月に大同電力株式会社となったが[17]、日本水力の権利義務は大同電力に引き継がれたので、三井鉱山の高原川開発の提携先は大同電力に変わった[16]。そして翌1922年(大正11年)8月1日、三井鉱山が許可を取得ないし出願中の高原川本流・同支流の水利権を基礎として電気事業ならびに附帯事業を共同経営する目的で、三井鉱山と大同電力の共同出資により神岡水電株式会社が設立された[1]。資本金は500万円[18]代表取締役会長には三井鉱山の牧田環が就任し、取締役には大同電力の増田次郎など三井・大同から2名ずつ、監査役には両社から1名ずつが送られた[18]。一方で新会社の職員はすべて三井鉱山からの出向であった[18]。本社は東京市日本橋区室町2丁目に置いた[1]

なお、資本金は1929年(昭和4年)7月の増資により1000万円となった[18]

電源開発の進展

跡津発電所

神岡水電の設立に先立つ1920年(大正9年)4月21日、三井鉱山は神岡鉱業所内に「神岡水電建設事務所」を開設し[18]、高原川支流の「跡津川第一水力」の開発に着手、同じく支流の「ソンボ谷川水力」と高原川本流の「高原川第四水力」の建設準備を始めた[16]

跡津川第一水力、すなわち跡津発電所の工事は1920年下期より開始された[18]。そして同発電所は1924年(大正13年)12月に落成して運転を開始した[19][18]。その概要は以下の通り[18]

跡津発電所の建設工事はすべて三井鉱山の名義で行われ、運転開始後の1925年(大正14年)7月になって三井鉱山から神岡水電に譲渡されている[19]。三井鉱山が発電所を建設し、それを神岡水電が譲り受けて運転する、というこの特殊な事業構造はその後の発電所にも適用された[20]

跡津発電所の発生出力は、三井鉱山神岡鉱業所への供給分を除いて発電所渡しにて大同電力へと売電された[18]。この時点ではまだ関西方面への送電線は建設されておらず、この電力は大同電力の手によって同社傍系の立山水力電気へと供給された[21]

中山発電所

跡津発電所に続いて1925年11月、高原川支流のソンボ谷川水力、すなわち中山発電所の建設が三井鉱山により着手された[22][23]。中山発電所は1926年(大正15年)7月に完成[23]。後述の猪谷発電所に建設工事用の電力を供給するための発電所であり、猪谷発電所予定地までの1.6キロメートルに送電線を架設して同年10月より送電を開始した[23]。発電所の概要は以下の通り[23]

  • 河川名:高原川支流ソンボ谷川
  • 発電所出力:最大1,000キロワット、常時600キロワット
  • 使用水量:毎秒0.56立方メートル
  • 有効落差:239.394メートル
  • 水車:横軸ペルトン水車1台(電業社製)
  • 発電機:三相交流発電機・容量1,250キロボルトアンペア(芝浦製作所製)
  • 周波数:60ヘルツ

中山発電所は猪谷発電所の完成後、同発電所とともに1931年(昭和6年)1月に三井鉱山から神岡水電へ譲渡された[22]

猪谷発電所

三井鉱山が1919年7月に水利権を得た「高原川第四水力」[15]では、同社の手により猪谷発電所1923年(大正12年)10月に着工された[16][24]岐阜県吉城郡船津町大字土(現・飛騨市神岡町土)にて高原川本流にダムを構築し、富山県上新川郡大沢野村大字猪谷(現・富山市東猪谷)まで導水して同地に発電所を設ける設計である[24]1929年(昭和4年)6月に完成し、7月1日より発電を開始した[24]。前述の通り、完成後の1931年1月に中山発電所とともに三井鉱山から神岡水電へと譲渡されている[22]

発電所の概要は以下の通り[24]

  • 河川名:高原川
  • 発電所出力:最大2万2300キロワット、常時1万1150キロワット
  • 使用水量:毎秒30.61立方メートル
  • 有効落差:93.939メートル
  • ダム:長さ30.3メートル、高さ16.970メートル
  • 水車:縦軸フランシス水車2台(電業社製)
  • 発電機:三相交流発電機・容量1万3500キロボルトアンペア2台
  • 周波数:50ヘルツまたは60ヘルツ
    • 50ヘルツの商用電源周波数が使用される関東方面、60ヘルツが使用される関西方面の双方へと送電できるように周波数の変更設備を設けた。
  • 変圧器:4台(芝浦製作所製)

猪谷発電所と中山発電所の発生電力は三井鉱山では消化できないため、すべて発電所渡しにて大同電力に売電された[24]。なお、大同電力は神岡水電から受電した電力を立山水力電気に供給していたが、1927年(昭和2年)上期からは日本電力を通じて大阪方面へと送電するようになり[21]、次いで日本水力の計画が元となっている昭和電力北陸送電幹線が1929年6月に富山県から大阪府まで完成すると、昭和電力が発電所渡しにて神岡水電から電力を購入、大阪で大同電力へと供給する体制へと変更された[25]

東町発電所

東町発電所(2010年撮影)

猪谷発電所の完成後、神岡鉱山の需要増に応ずるため三井鉱山は跡津川の土第一発電所の出力を増強するとともに、1935年(昭和10年)には出力1,100キロワットの土第二発電所を建設した[26]。ただしこれらの発電所は神岡水電に譲渡されていない。一方神岡水電は高原川上流や支流双六川などでの水利調査を続け、1934年(昭和9年)には蔵柱川の水利権を出願した[20]

神岡水電はその後開発計画を再検討し、かねてより申請していた高原川の水利権(高原川第二・第三水力)と蔵柱川の水利権を統合、発電所を1か所に絞って開発する計画を立案して1937年(昭和12年)9月に工事実施認可を申請する[20][27]。これに対して当局は工期や資材の関係から分割して発電所を2つとするよう内示したため、神岡水電は上流側を「東町発電所」と命名しここを先に建設することとした[20][27]

東町発電所の建設準備中であった1938年(昭和13年)に電力管理法が公布され、8月には関連する勅令により着工されていない出力5,000キロワット以上の新規水力発電所はすべて国策会社日本発送電が行うこととなった[20]。東町発電所は出力3万1300キロワットであり、これにより権利が神岡水電から日本発送電に移った[20]。日本発送電は1939年(昭和14年)10月、東町発電所の建設命令を受けるが、建設要員の準備を終えていた神岡水電が同社に代って出願手続きや施工監督の一切を請け負い、神岡水電の手で1940年(昭和15年)3月に着工[20][27]1942年(昭和17年)4月に1号機、9月に2号機を完成させ、日本発送電に引き渡した[20][27]。なお、上流側の東町発電所に対して下流側は「牧発電所」と命名され、神岡水電ではなく日本発送電が直接起工した上で1942年に運転を開始している[28]

軌道事業と流材問題

神岡水電は1932年(大正7年)1月、猪谷富山県婦負郡細入村)と東町(岐阜県吉城郡船津町)を結ぶ三井鉱山の軌道を譲り受ける許可を得て[29]、同年3月8日付でこれを実施した[30]。「神岡軌道」と呼ばれた同線は、明治末期から大正にかけて敷設された神岡鉱山の馬車軌道が前身で、1923年(大正12年)に軌道法に準拠する軌道となった後、1927年(昭和2年)から三井鉱山が運営していた[31]。神岡水電がこの軌道を運営したのは、ダム建設により不可能になる河川を用いた木材流送(流材)を代替するためである。

三井鉱山が高原川第四水力(猪谷発電所)の水利権を得た当初、会社は流材への配慮を義務付けられていた。水利権の許可条件にダムへの流木路設置ならびに使用水量1,100立方尺(30.61立方メートル)のうち400立方尺(11.13立方メートル)の放流が盛り込まれていたのである[32]。しかしこれでは発電事業として採算がとれないので、岐阜県・富山県当局や高原川上流地域の国有林を管轄する大阪営林局と交渉し、官材をすべて神岡軌道にて陸送し流材を代替する、大阪営林局と陸送に関する協定を締結する、という条件で流木路設置・使用水量制限の許可条件解除の許可を得た[32]。そして実際に大阪営林局との協定の交渉を進める都合上、神岡軌道を自社の所有とする必要があったため、神岡水電は前述の通り1932年にこれを譲り受けた[32]。譲り受け価格は57万5000円であった[33]

大阪営林局との協定は交渉の末、1935年(昭和10年)11月に締結された[33]。協定により神岡水電は、神岡軌道の輸送力増強、軌道の延伸ならびに船津営林署森林軌道との接続、貯木場の新設を義務付けられ、さらに官材を流送相当額の運賃にて神岡軌道で輸送することとなった[33]

また神岡軌道は官材輸送のほか、飛州木材との流木争議にも関係した。同社は1926年(大正15年)以来、同じく北陸を流れる庄川において慣行流木権を侵害するとしてダム建設を進める庄川水力電気日本電力系列)ならびに昭和電力に対して訴訟を起こしていたが(庄川流木争議)[34]、高原川でも猪谷発電所のダム建設により木材流送が不可能になったとして損害賠償を求め訴訟を起こした[32]。飛州木材は流木権を主張して実際に高原川上流から多数の木材を流送して争ったので、神岡水電はダムに仮流木路を設けて流木を下流へ流下させ、さらには神岡軌道を用いて流木を運搬することで対抗した[32]。この飛州木材との争議は高原川に関する限り、神岡軌道を三井鉱山から譲り受けて木材流送の代替輸送機関を確保した神岡水電に有利に展開[33]。最終的に内務省の仲介で庄川での争議も含めて和解が成立し、1933年(昭和8年)に飛州木材と庄川水力電気・昭和電力に神岡水電を加えた4社が共同声明を宣言してすべての紛争が終結している[35]

会社解散

電力管理法

1938年(昭和13年)4月、昭和に入って以来の懸案であった電力国家管理問題が決着、電力の国家管理をうたう「電力管理法」が公布されるに至った[36]。これによって全国の電気事業者から火力発電所と主要送電線現物出資させて翌1939年(昭和14年)4月に国策電力会社日本発送電株式会社を設立することが決定した[36]

その後出資すべき設備の範囲が確定し、33の事業者を対象に発送電設備の現物出資が指示された[37]が、この時点では神岡水電は対象に含まれなかった。しかしながら親会社の大同電力は全固定資産の4割に相当する設備の出資を命ぜられ[38]、最終的にすべての資産・負債を日本発送電へと継承させる道を選んだため、1939年4月2日付で解散した[39]。大同電力の解散により同社が保有する神岡水電の株式は日本発送電に継承され、電力の供給先も同社へと切り替わった[40]。また電力管理法の影響により新規の水力開発が不可能になり、建設準備を進めていた東町発電所の権利が日本発送電へと移行したのは前述の通りである。

日本発送電の発足後、日中戦争が拡大する中で政府は電力国家管理の強化を指向し、水力発電所を含む主要電力設備を日本発送電に帰属させることを決定[41]勅令により電力管理法施行令を改正し、1941年(昭和16年)5月・同年8月の2度にわたり全国の電気事業者に対して設備の出資命令を発した[41]。出資期日は1941年10月1日(=第1次出資)か翌1942年(昭和17年)4月1日(=第2次出資)のいずれかで、第1次出資には27、第2次出資には23の事業者がそれぞれ指定され、第1次・第2次合計で水力発電所292か所、火力発電所9か所、送電設備297路線、変電設備25か所に及ぶ電力設備の出資が命ぜられた[41]

設備出資・譲渡と解散

日本発送電設立時には設備出資の対象とならなかった神岡水電だが、1941年5月公告の出資命令により日本発送電への設備出資を命ぜられた[42]。対象となったのは猪谷・中山両発電所と、両発電所間を結ぶ送電線(中山線、使用電圧6.6キロボルト)である[42]。同年10月1日付で出資は実施され、設備の評価額が717万5699円50銭とされたため神岡水電には日本発送電株式14万3513株(717万5650円)が割り当てられ、残額の49円50銭が現金にて交付された[43]。なお日本発送電は猪谷・中山両発電所のみならず神岡水電の全事業を移管するよう要請していたが、跡津発電所の建設当時の事情および神岡軌道を三井鉱山から譲り受けた経緯を説明してこの両者を神岡水電の手に残す了解を得、全事業の移管を免れた[40]

神岡水電が建設を引き受けていた日本発送電東町発電所は、前述の通り1942年9月までに完成した。また長年調査を進めていた高原川本流、支流の双六川・蒲田川における約8万7000キロワットに及ぶ電源開発計画も電力管理法により断念せざるを得なくなり、一方で既存事業の中心であった猪谷・中山両発電所を日本発送電へと出資したため、会社の存在意義を喪失した[40]。かくして会社に残った跡津発電所と神岡軌道を親会社の三井鉱山に譲渡し、さらには全職員・従業員をも同社に引き継いで解散することを決定、1942年9月30日付で解散して神岡水電は消滅した[40]。解散後の清算事務は1947年(昭和22年)まで続けられた[40]

神岡水電から日本発送電へ出資された猪谷・中山両発電所は、太平洋戦争後の1951年(昭和26年)、日本発送電の解体とともに北陸電力株式会社へと引き継がれた[44]。また三井鉱山へと戻った跡津発電所は、戦後双六川に建設された金木戸発電所とともに引き続き神岡鉱業所の事業を支えることになる[20]

年表

脚注

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  1. ^ a b c 『大同電力株式会社沿革史』371-373頁
  2. ^ 「神岡水電株式会社の回顧」241頁
  3. ^ 『昭和15年電気年鑑』66頁、NDLJP:1115119/118
  4. ^ 『日本全国銀行会社録』第48回上編69頁、NDLJP:1083017/131
  5. ^ a b c 「神岡水電株式会社の回顧」234-235頁
  6. ^ 『神岡町史』通史編1 174頁
  7. ^ a b c 『神岡鉱山写真史』42頁
  8. ^ a b c d e 『神岡鉱山写真史』70頁
  9. ^ 『神岡町史』通史編1 715-716頁
  10. ^ a b 『神岡鉱山写真史』106頁
  11. ^ 『神岡鉱山写真史』92頁
  12. ^ 『三井のアルミ製錬と電力事業』11頁
  13. ^ a b c d e f 「神岡水電株式会社の回顧」219-220頁
  14. ^ a b c d 『三井のアルミ製錬と電力事業』5-7頁
  15. ^ a b c d e 『三井のアルミ製錬と電力事業』7-9頁
  16. ^ a b c d e 『三井のアルミ製錬と電力事業』9-12頁
  17. ^ 『大同電力株式会社沿革史』40-42頁
  18. ^ a b c d e f g h i 「神岡水電株式会社の回顧」221-223頁
  19. ^ a b 『北陸地方電気事業百年史』149・854-855頁
  20. ^ a b c d e f g h i 『三井のアルミ製錬と電力事業』45-47頁
  21. ^ a b 『大同電力株式会社沿革史』271頁
  22. ^ a b c 『北陸地方電気事業百年史』150・855-858頁
  23. ^ a b c d 「神岡水電株式会社の回顧」225-227頁
  24. ^ a b c d e 「神岡水電株式会社の回顧」227-229頁
  25. ^ 『大同電力株式会社沿革史』365-366頁
  26. ^ 『三井のアルミ製錬と電力事業』13頁
  27. ^ a b c d 『日本発送電社史』技術編86頁
  28. ^ 『日本発送電社史』技術編85頁
  29. ^ 「軌道譲渡許可」『官報』第1526号1932年2月3日付。NDLJP:2957996/5
  30. ^ 『鉄道統計資料』昭和6年度第3編207頁。NDLJP:1073601/108
  31. ^ 『鉄道廃線跡を歩く』8 139-143頁、『私鉄の廃線跡を歩く』318-19頁
  32. ^ a b c d e 「神岡水電株式会社の回顧」229-231頁
  33. ^ a b c d 「神岡水電株式会社の回顧」232-234頁
  34. ^ 『北陸地方電気事業百年史』143-146頁
  35. ^ 『北陸地方電気事業百年史』305-307頁
  36. ^ a b 『関西地方電気事業百年史』403-405頁他
  37. ^ 『東邦電力史』570-573頁
  38. ^ 『関西地方電気事業百年史』450-453頁
  39. ^ 『大同電力株式会社沿革史』452-453他頁
  40. ^ a b c d e 「神岡水電株式会社の回顧」238-241頁
  41. ^ a b c 『東邦電力史』575-580頁
  42. ^ a b 「日本発送電株式会社法第5条の規定に依る出資に関する公告」『官報』第4313号1941年5月27日付。NDLJP:2960811/11
  43. ^ 『日本発送電社史』業務編12頁
  44. ^ 『北陸地方電気事業百年史』

参考文献

  • 電力・鉱山関連
    • 上野薫『日本全国銀行会社録』第48回、商業興信所、1940年。NDLJP:1083017
    • 関西地方電気事業百年史編纂委員会(編)『関西地方電気事業百年史』関西地方電気事業百年史編纂委員会、1987年。
    • 大同電力(編)『大同電力株式会社沿革史』大同電力、1941年。
    • 電気之友社(編)『電気年鑑』昭和15年、電気之友社、1940年。NDLJP:1115119
    • 東邦電力史編纂委員会(編)『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。
    • 日本発送電『日本発送電社史』技術編、日本発送電株式会社解散記念事業委員会、1954年。
    • 日本発送電『日本発送電社史』業務編、日本発送電株式会社解散記念事業委員会、1954年。
    • 飛騨市教育委員会(編)『神岡町史』通史編1、飛騨市教育委員会、2009年。
    • 北陸地方電気事業百年史編纂委員会(編)『北陸地方電気事業百年史』北陸電力、1998年。
    • 三井金属鉱業修史委員会事務局(編)『神岡鉱山写真史』三井金属鉱業、1975年。
    • 宮岡成次『三井のアルミ製錬と電力事業』カロス出版、2010年。
    • 余川久太郎「神岡水電株式会社の回顧」『三井金属修史論叢』第5巻、三井金属鉱業修史委員会事務局、1971年4月、 219-241頁。
  • 神岡軌道関連
    • 鉄道省『鉄道統計資料』昭和6年度第3編、鉄道省、1933年。NDLJP:1073601
    • 寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩く』3(北陸・上越・近畿編)、JTBパブリッシング、2008年。ISBN 978-4-533-07145-4
    • 宮脇俊三(編)『鉄道廃線跡を歩く』8、JTB、2001年。ISBN 978-4-533-03907-2