笹子トンネル (中央本線)

笹子トンネル
JR EAST SASAGO&SHIN-SASAGO-OTSUKI.JPG
東側坑口、左が笹子トンネル、右が新笹子トンネル
概要
路線 中央本線
位置 山梨県大月市甲州市
座標 入口: 北緯35度36分20.40秒 東経138度49分01.92秒 / 北緯35.6056667度 東経138.8172000度 / 35.6056667; 138.8172000 (笹子トンネル入口)
出口: 北緯35度38分16.38秒 東経138度47分03.13秒 / 北緯35.6378833度 東経138.7842028度 / 35.6378833; 138.7842028 (笹子トンネル出口)
現況 供用中
起点 山梨県大月市笹子町
終点 山梨県甲州市大和町
運用
建設開始 1896年(明治29年)12月9日[1]
開通 1903年(明治36年)2月1日[2]
所有 東日本旅客鉄道(JR東日本)
管理 東日本旅客鉄道(JR東日本)
通行対象 鉄道車両
技術情報
全長 4,656 m[2](下り線専用)
軌道数 1(単線
軌間 1,067 mm
電化の有無 有(直流1,500 V架空電車線方式
最高部 622.3 m[1]
最低部 607.4 m[1][注 1]
勾配 1.25パーミル[1]
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新笹子トンネル
概要
路線 中央本線
位置 山梨県大月市甲州市
座標 入口: 北緯35度36分20.72秒 東経138度49分03.52秒 / 北緯35.6057556度 東経138.8176444度 / 35.6057556; 138.8176444 (新笹子トンネル入口)
出口: 北緯35度38分16.95秒 東経138度47分04.33秒 / 北緯35.6380417度 東経138.7845361度 / 35.6380417; 138.7845361 (新笹子トンネル出口)
現況 供用中
起点 山梨県大月市笹子町
終点 山梨県甲州市大和町
運用
建設開始 1964年(昭和39年)1月20日[3]
開通 1966年(昭和41年)12月12日[2]
所有 東日本旅客鉄道(JR東日本)
管理 東日本旅客鉄道(JR東日本)
通行対象 鉄道車両
技術情報
全長 4,670 m[2](上り線専用)
軌道数 1(単線
軌間 1,067 mm
電化の有無 有(直流1,500 V架空電車線方式
最高部 635 m[4]
最低部 623.1 m[5][注 1]
勾配 5パーミル[5]
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笹子トンネル(ささごトンネル)は、JR中央本線笹子駅 - 甲斐大和駅間にある、全長4,656 m単線鉄道トンネル[2]。当時の正式名称は笹子隧道(-ずいどう)であった。1966年(昭和46年)12月12日に新笹子トンネル(しんささごトンネル、全長4,670 m)が開通し、笹子トンネルを下り線、新笹子トンネルを上り線として複線で運用されるようになった[2][6]

建設の背景

明治初期に東京と京都を結ぶ鉄道を計画するにあたり、東海道経由と中山道経由を比較し、海岸沿いは船の便があって競合するのに対し、内陸は交通が不便であり鉄道が地域の発展に資することができる、との理由で1883年(明治16年)に中山道経由が決定された[7]。これにより長野県諏訪湖周辺の生糸生産地帯にも鉄道が通る予定となり、地元からは期待が持たれていた[8]。しかし実際にこの経路に着工してみると、峻険な山岳地帯を建設するのには膨大な費用が掛かることが判明し、1886年(明治19年)に東西を結ぶ鉄道は東海道経由に変更されて、中山道経由の鉄道は実現しなかった[7]。このため諏訪湖周辺では別途鉄道を実現したいとの希望が高まっていた[8]

こうした地元の生糸関連業者に東京や横浜の大資本家が加わって1887年(明治20年)に計画されたのが、静岡県御殿場から甲府を経て松本へ至る甲信鉄道であった。当時新進の技術者佐分利一嗣を雇って調査した甲府から御殿場へ至る経路は、甲府から市川大門付近まで南下しそこから芦川に沿って東進し、ケーブルで車両を牽引するインクラインを設置して精進湖へ出て、篭坂峠を越えて御殿場に至るものであった。しかしこれは鉄道局から技術的に困難であるとされて、甲府 - 松本間のみが免許されることになり、さらに再検討を行っているうちに国有鉄道による中央本線計画が開始されたこともあり、計画を放棄して1893年(明治26年)に免許状返納を命じられた[9][10]

また甲州街道に沿って東京と直結する鉄道を主張する一派もあり、雨宮敬次郎らは八王子 - 甲府間を結ぶ山梨鉄道を1889年(明治22年)に出願した。これは甲信鉄道の計画では甲府盆地東部に益がないことを考慮してのものであった。しかし、先願の甲信鉄道が御殿場起点を八王子起点に改める可能性があるとしてこの計画は却下された[11][12]。この計画は後の中央本線にほぼ沿うものとなっており、笹子峠を越える予定とされていた。最急勾配は22.7パーミルでトンネルの長さは約2 kmとされていたが、これが本当に可能であったかは疑問視されている[13]

一方、西南戦争に伴う軍事輸送などで鉄道の威力を認識した当時の陸軍は、1887年(明治20年)に当時の参謀本部長有栖川宮熾仁親王からの建議案において、海岸近くに敷設する鉄道は海上の敵からの攻撃を受けて破壊されやすく防備上不利であり、内陸を貫通する鉄道が必要であると主張した[14]。こうしたこともあり鉄道局長官井上勝も、1891年(明治24年)の「鉄道建設ニ関スル議」という建白書で、山梨・長野の物産の輸送に資して経済的にも利点があることに軍事上の利点を加えて、東京と名古屋を結ぶ鉄道の建設を直ちに着工する必要があると指摘した[15]。こうして1892年(明治25年)6月に鉄道敷設法帝国議会で成立し、その筆頭に「神奈川県下八王子若ハ静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ経テ伊那郡若ハ西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鉄道」が挙げられた[16]。その後比較路線の検討が行われ、八王子を起点とする経路が1894年(明治27年)の第6回帝国議会において承認を受けた[17]

笹子峠周辺の経路についても複数案が検討されていた。笹子からそのまま西進して摺針峠(原文では摺張山脈と記載)を越えて黒駒、石和を通るものがあり、全長14マイルにおよぶアプト式ラック鉄道が必要とされた。また大月から南下して吉田を経て河口湖へ出て、御坂峠(八町峠)を越えて藤の木、黒駒、石和と通る経路もあったが、距離が伸びて建設費も増加するため採用されなかった[18]。こうして笹子峠を通過するルートが採用されることになった。

笹子トンネルの建設

当初、この区間はアプト式のラック鉄道により越える予定であった。トンネルの場合は建設費が400万円(現在の価値に換算すると約230億円)かかり、アプト式の場合はその4分の1に抑えられたからである。また、当時のトンネル掘削技術は未熟だったため、当時の鉄道庁は1マイル(1600m)以上のトンネルを建設することを避けていた。しかし、軍事輸送の面で不利になるという軍部の主張により、最終的にはトンネル掘削に至った。

山間部を通る中央本線の中でも最難関の工事区間とされたのが、この笹子トンネルであった。4000mを超えるトンネル建設は過去に例が無く、成功させることは、中央本線のみならずその後の日本の鉄道建設計画を大きく左右するものであった。笹子トンネルの建設では主に日本人技術者が工事を担い、設計・監督(監督長)を行ったのは古川阪次郎であった。古川は、当時の最新技術を積極的に導入していった。まず、三角測量には20秒角きざみのトランシットを日本で初めて用い、日本で初めてとなるトンネル工事用の水力発電所をトンネル出口付近のに建設した。この電気によって坑内に電灯電話を設置し、空気圧搾機を運転した。掘削には電気雷管を用いてダイナマイトに引火させ、さらにアメリカ製の工事用電気機関車によりズリの搬出と資材の運搬を行った[19]。このトンネルの施工法の多くは、1945年(昭和20年)まで多くの山岳トンネル工事で採用された。なお、鉄道トンネル工事において日本で初めて空気圧搾機や削岩機が使用されたのは、1884年(明治17年)に完成した柳ヶ瀬トンネル(1352m)である。この工事では三角測量も実施された。また削岩機は、1880年(明治13年)完成の、初めて日本人技術者によって造られた鉄道トンネルである逢坂山隧道でも導入されたものの、実際の工事は手掘りであった。

義和団の乱に伴う工事の中断や硬い岩盤湧水などのアクシデントが続いたものの、8年と計画されていた工事を6年間で完了させ、[19] 1903年(明治36年)2月1日に開通した。作業人員は延べ195万8000人、実際の建設費は計220万円(建築用具費・運送費を含む)であった。とりわけ、トンネルの掘削にかかった費用は1当たり143円(当時の価値)であり、清水トンネル(同350円)や丹那トンネル(同1,000円)と比べても非常に安上がりであった[19]。笹子トンネルは、1931年(昭和6年)9月1日上越線清水トンネル(全長9,702 m)が開通するまでは日本一長い鉄道トンネルであった[2]

トンネル内はレンガおよびだけで造られている。笹子側のトンネル入り口の額字には「因地利」(伊藤博文著、意味は「地の利に因(よ)って」と解釈できる)、甲斐大和側には「代天工」(山縣有朋著、意味は「天に代わって工事す」)と書かれている(実際はどちらも右書き)。

電化

電化当初に投入されたED17形
狭小断面トンネル対策車の一例、モハ114形800番台の低屋根部

笹子トンネルを含む中央本線の八王子 - 甲府間は長大トンネルと急勾配が連続し、蒸気機関車牽引時代にはB6形9600形D50形と順次機関車が強化されてきたものの、飯田町から甲府まで片道6時間を要し、旅客もトンネルのたびに煤煙で燻されるという苦労をしてきた。東海道本線および横須賀線の東京近郊での電化が1925年(大正14年)に完成していたが、当時の状況では蒸気運転と電気運転の経済的な得失の差ははっきりしていなかった。しかし中央本線のこうした輸送状況もあり、電化が決定された。これには当時の鉄道大臣小川平吉がこの地方を地盤としていたことも一因と推測されている[20]

1929年(昭和4年)1月に飯田町 - 甲府間の電化工事に着手された[21]。電化工事で従来と異なっていたのは、この区間の変電所については将来的に回生ブレーキの使用が可能なように設備が構成されていたことが挙げられる[22]。またこの区間のトンネルは国鉄の中でも特に狭小で、レール面上4,500 mmの天井高さしかないため、特殊設計のがいしを採用してトンネル天井に取り付け、可能な限りトンネル天井に架線を近づけるようにした。それでもトンネル内の架線はレール面上4,200 mmの位置になり、標準より1,000 mm低く一般的な客車が入線するとその屋根の上わずか150 mmほどしか余裕がないものとなった[23]

東京側で完成した区間から順次中央線電車の運転が延長され、残された浅川(現:高尾) - 甲府間でも1931年(昭和6年)4月1日にまず旅客列車から時刻をそのままで電気機関車牽引に切り替えた。7月1日からは貨物列車も電気機関車牽引に切り替えられた。7月20日のダイヤ改正により時間短縮を行い飯田町 - 甲府間は約4時間となり、また従来急行1往復、普通5往復であったのが急行1往復、普通8往復に増発された[21]。これにより開業から28年を経て乗務員や利用客は蒸気機関車の煤煙から解放された[19]。ただしこの当時の列車暖房は電化された東海道本線の一部区間などで電気機関車から給電された電力で各客車に設置された電気ヒーターを動作させる電気暖房が採用されていたが、それ以外の路線では、熱源となる蒸気を客車へ送って温める蒸気暖房を採用しており、電化された区間ではこの蒸気の供給源として暖房車という石炭ボイラーを搭載する車両が連結され、引き続き煤煙を排出していた。やがて蒸気発生装置 (SG) を電気機関車に搭載する方式が普及し、また電気暖房も普及していき[24]、1972年(昭和47年)までに暖房車が全廃され、笹子トンネルを含む区間は国鉄暖房車が最後に使用された区間となった[25]。笹子トンネルは、蒸気機関車が営業運行をおこなったトンネルとしては日本で歴代最長となる。

こうして電化されたが、当初配置された電気機関車は東海道本線および横須賀線から転属してきた中古機で、しかも初期故障が頻発し不評を買ったイングリッシュ・エレクトリック(デッカー)製のED50形・ED51形・ED52形などの歯数比を変更して低速強トルク特性の貨物列車牽引用に改造したED17形ED18形(初代)などであった。これらは元来平坦線で軽荷重の旅客列車を牽引すべく設計された機関車であり、横須賀線の旅客列車が電車へ置き換えられた結果余剰となり、時期の重なった中央本線電化に合わせて改造・転用が図られたものであった。これらは中央本線においてもやはり故障が多く、保守には大変苦労させられたという。特に主電動機の故障が多く、さらに曲線通過を円滑にするための先台車を持たないこれらの形式は、急曲線区間の多い中央本線では車輪のフランジの摩耗も激しく、6か月検査を待たずに使用限度に達するなどの問題があった。また台車の軸箱支持機構が各軸ごとに独立した設計で、各車軸にかかる荷重を平均化させる釣り合い梁を持たないこれらの形式は急勾配での空転も多く、砂撒き装置が頻繁に使用された結果、運転の途中で砂を補充しなければならないほどだったという[26]

これらの問題については、やがて国産で先台車を備え、しかも各動軸間に釣り合い梁を備えたED16形やこれを6動軸に拡大したEF10形、その改良型で回生ブレーキを搭載したEF11形などが配置された他、ED17形などの輸入機についても順次搭載機器の国産品への交換が実施され、状況が改善された[26]

さらに第二次世界大戦後はEF10形の出力向上形にあたるEF12形の設計を大幅に簡略化した戦時設計機のEF13形が配置されたのに続き、これと同じくEF12形の後継機種で、戦後の国鉄で直流電化区間用標準貨物形機関車として量産が進められたEF15形が配置され、長く使用された。

1950年代後半になると、アメリカからの最新技術導入などで軽量かつ強力な電動機が製作可能となり、また再粘着性能を向上させるための様々な新技術が開発・実用化された事を背景として、輸送力増強のためにより高性能な機関車が求められるようになり、まず使用条件の厳しい中央本線系統へ新形機が配置されることになった。この計画に従い、ED60形とこれをベースに回生ブレーキ機能を付加したED61形の2形式が投入され、後者が中央本線貨物列車牽引の主力形式となった。もっとも、このED61形は重連総括制御機能により2両単位で大重量の貨物列車牽引に充てられていたが、回生ブレーキを使用するこの形式の場合、2両のタイヤ厚の差が大きいと各車のモーターで発生する電圧に差が生じるため、ブレーキ力が安定しないという問題があった。さらに、戦後の技術革新で変電所にシリコン整流器が導入されるようになり、電力網への回生電力の送り戻しが事実上不可能となった結果、特に列車の運行間隔の長い区間・時間帯では発生電力を消費する相手が存在しないため架線電圧が上昇しすぎて回生ブレーキが全く機能しなくなる、回生失効と呼ばれる現象が頻発するようにもなった。これらの問題から中央本線貨物列車でのED61形の継続使用は断念され、回生ブレーキと異なり自機搭載の抵抗で発生電力を消費・放熱するため、使用条件によらず確実にブレーキ力が得られる発電ブレーキを搭載し、さらに4動軸であったED61形で重連とせねばならない運用が多く不経済であったことからより強力な6動軸としたEF64形1964年に開発され、1975年までにED61形を含むほとんどの在来形式を置き換えている。

前述のように笹子トンネルを含む中央本線の東部では、狭小トンネルをそのまま電化している。こうしたトンネルを電化する際には、普通は路盤を削って線路の位置を下げるか新しいトンネルを掘り直して対応するが、中央本線においてはこの工事費を節約するためにそのまま電化するという手段が採られることになった。このためこうした狭小断面トンネル区間ではパンタグラフの折り畳み高さが不足することになり、車両側での対応を必要とすることになった[27]。対応するのは115系165系などで800番台に分類される車両などで、屋根全体を低くするかあるいはパンタグラフ搭載部を低くして低屋根車としている。低屋根車には区別のため、車両形式の部分に◆マークが描かれている[28]。しかし最小折り畳み高さを改良したPS23形パンタグラフの開発以降は、特に低屋根にすることなく対応できるようになっている[27]

新笹子トンネルの建設

笹子トンネルは開通以来60年以上にわたり単線で列車の往来に供されてきたが、輸送需要の増加に伴い線路容量は限界に達していた。このため、国鉄では第2次5か年計画に基づき高尾 - 甲府間の複線化を決定し、最大の難工事である笹子峠についても1961年(昭和36年)から調査を開始し、1963年(昭和38年)12月に新笹子トンネルに着工された[5]。起工式は1964年(昭和39年)1月20日に行われている[3]

新笹子トンネルは、既設の笹子トンネルに対し下り列車から見て右側に約25 m離れた位置に建設された[29]。当初は全長4,665 mと計画されていたが、東京方の坑口での国道20号との交差の都合で5 m東京方にトンネルを延長したため最終的に総延長4,670 mとなった[30]。東京方を第1工区とし大林組が、名古屋方を第2工区として間組が請け負った。当初は第1工区2,110 m、第2工区2,255 mを契約して中間に300 mの未契約区間を残し進捗状況を見極めて契約する方針とし、結果的に進捗状況はほぼ同じであったためトンネルの頂点となる地点で工区を分けることになり、第1工区2,292 m、第2工区2,378 mとして施工された[30]。坑口標高は東京方623.5 m、名古屋方623.1 mで、双方とも5パーミルの拝み勾配で頂点を635 mとしている[5][4]。断面は単線1号形(側壁直)で、幅4.76 m、レール面上高さ5.1 mとなっている[31][4]。なお、笹子トンネル建設の際に将来の複線化も考慮して、複数の箇所で工事に着手できるようにトンネル内から側方へマンホールを40 mおきに設置してあったが、列車本数の増大によりこうしたマンホールを生かした工事は実際には採られなかった[32]

第1工区では、当時本来は貨物扱いをしていなかった笹子駅を臨時にセメントのみの異例扱いとして搬入し[30]、既設線、国道20号、笹子川に挟まれた新トンネル坑口付近の狭隘な場所にセメントプラント、充電場、修理工場等を設置した[33]。坑口から100 mほどの範囲は地質上の理由から導坑を先に掘削してから後で全断面に切り広げる底設導坑先進上部半断面工法を採った[30]。これに対して100 mほど先からは笹子峠の主な岩質である粘板岩につきあたり、全断面掘削を開始した[34]。レッグジャンボーを用いて穿孔し、ダイナマイト発破を行ってずりだしを行い、支保工を立てるというサイクルの繰り返しで工事が進められた。既設線との間隔の問題から装薬量は60 kg以下とする制約を受けた[35]。既設トンネルがあるため湧水量は少ないと予想されていたが、実際には予想を上回り最大200リットル/分の湧水があり、穿孔・装薬の作業に悩まされた[36]。最大日進は14.0 m、月間最高進行は299 mを記録した[36]。その後覆工コンクリートの施工を行い、国道20号と交差する部分については一時的に道路の付け替えを行って対応した[37]

第2工区では初鹿野駅(現:甲斐大和駅)の貨物扱いを利用して搬入を行い、国道から坑口までの標高差があったことから約250 mの工事用道路を仮設して取り付いた[30]。第1工区同様に当初の50 mほどの区間を底設導坑先進上部半断面工法で工事した後は全断面工法とした[38]。工事は順調に進められ、1965年(昭和40年)1月11日には日進16.1 mの掘削記録を達成している[39]。1965年(昭和40年)3月18日に貫通した[29]

最終的に、掘削土砂の量は135,330立方メートル、覆工コンクリートは21,990立方メートル[31]、総工費は約7億6000万円であった[29]。工事期間中に死者はなく、笹子トンネルが着工から覆工巻き立て完了まで6年かけたのに対し新笹子トンネルは1年5か月で完了と、この間のトンネル工事技術の進歩を示した[40]。1966年(昭和41年)12月12日に供用開始となり、既設の笹子トンネルが下り線、新笹子トンネルが上り線となった[2]

複線化工事と並行してトンネル周辺部の線形改良などが行われ、笹子駅のスイッチバックも25パーミル勾配の本線上に島式ホームを設置することで廃止された[41]

年表

  • 1896年(明治29年)12月9日 - 笹子トンネル建設開始。
  • 1902年(明治35年)7月12日 - 笹子トンネル貫通。
  • 1903年(明治36年)2月1日 - 大月 - 初鹿野(現・甲斐大和)間開業時から供用開始。
  • 1931年(昭和6年)
    • 4月1日 - 笹子トンネルを含む区間が電化開業、旅客列車を電気機関車運転に切り替え[21]
    • 7月1日 - 貨物列車も電気機関車運転に切り替え[21]
    • 7月20日 - 電化に伴うダイヤ改正を実施、増発・スピードアップを実現[21]
  • 1964年(昭和39年)1月20日 - 新笹子トンネル起工式[3]
  • 1965年(昭和40年)3月18日 - 新笹子トンネル貫通[29]
  • 1966年(昭和41年)12月12日 - 新笹子トンネル開通、従来の笹子トンネルは下り列車専用、新笹子トンネルは上り列車専用とする[2]
  • 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承。
  • 2009年(平成21年)2月6日 - 笹子トンネルが経済産業省近代化産業遺産に認定される[42]

歌での言及

1911年(明治44年)に制作された『中央線鉄道唱歌』(作詞: 福山寿久、作曲: 福井直秋)でも、笹子峠とトンネルは次のように歌われた。

16.いで武士(もののふ)の初狩に 手向けし征箭(そや)のあとふりて 矢立の杉も神さびし 笹子の山の峠路や
17.横に貫くトンネルは 日本一の大工事 一万五千呎(フィート)余の 常夜の闇を作りたり

関連項目

ギャラリー

脚注

注釈

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  1. ^ a b 笹子トンネルと新笹子トンネルで坑口標高が16 m近くずれている理由は不明

出典

  1. ^ a b c d 『日本国有鉄道百年史』3 p.656
  2. ^ a b c d e f g h i 「中央本線 歴史の興味」p.20
  3. ^ a b c 「新笹子トンネルの施工」p.24
  4. ^ a b c 「新笹子トンネルの施行計画設計について」p.72
  5. ^ a b c d 「新笹子トンネルの工事計画」p.130
  6. ^ 「中央線新笹子トンネル貫通」p.97
  7. ^ a b 「中央線の建設とそのルートをめぐって」p.9
  8. ^ a b 「中央線の建設とそのルートをめぐって」p.10
  9. ^ 「中央線の建設とそのルートをめぐって」pp.10 - 11
  10. ^ 『日本国有鉄道百年史』3 pp.641 - 644
  11. ^ 『日本国有鉄道百年史』3 p.644
  12. ^ 「中央線の建設とそのルートをめぐって」pp.11 - 12
  13. ^ 「中央線の建設とそのルートをめぐって」p.12
  14. ^ 「中央線の建設とそのルートをめぐって」pp.9 - 10
  15. ^ 「中央線の建設とそのルートをめぐって」pp.12 - 13
  16. ^ 「中央線開業の歴史過程」p.10
  17. ^ 『日本国有鉄道百年史』3 pp.647 - 651
  18. ^ 『日本鉄道史 中篇』 p.136
  19. ^ a b c d 『交通今昔物語』
  20. ^ 「中央線甲府電化の憶い出」p.15
  21. ^ a b c d e 『日本国有鉄道百年史』3 pp.574 - 575
  22. ^ 「勾配線を征服したる中央線電化工事に就いて」p.4
  23. ^ 「勾配線を征服したる中央線電化工事に就いて」p.7
  24. ^ 『国鉄暖房車のすべて』pp.2 - 3
  25. ^ 『国鉄暖房車のすべて』p.46
  26. ^ a b 「中央線甲府電化の憶い出」pp.16 - 17
  27. ^ a b 「中央本線 歴史の興味」p.19
  28. ^ 『詳解 鉄道用語辞典』pp.320 - 321
  29. ^ a b c d 「中央線新笹子トンネル貫通」p.96
  30. ^ a b c d e 「新笹子トンネルの施工」p.14
  31. ^ a b 「新笹子トンネルの施工」p.15
  32. ^ 「新笹子トンネルの工事計画」p.132
  33. ^ 「新笹子トンネルの施工」p.16
  34. ^ 「新笹子トンネルの施工」p.17
  35. ^ 「新笹子トンネルの施工」pp.18 - 19
  36. ^ a b 「新笹子トンネルの施工」p.19
  37. ^ 「新笹子トンネルの施工」p.20
  38. ^ 「新笹子トンネルの施工」pp.24 - 26
  39. ^ 「新笹子トンネルの施工」p.26
  40. ^ 「新笹子トンネルの施工」p.27
  41. ^ 「中央線の輸送形態の移り変わり」p.21
  42. ^ 「近代化産業遺産群 続33」を選定しました”. 経済産業省 (2009年2月6日). 2012年12月15日閲覧。

参考文献

書籍

雑誌記事・論文

  • 青木栄一「中央線の建設とそのルートをめぐって」『鉄道ピクトリアル』第280号、電気車研究会、1973年7月、 9 - 14頁。
  • 田中隆三「中央線甲府電化の憶い出」『鉄道ピクトリアル』第280号、電気車研究会、1973年7月、 15 - 17頁。
  • 中川浩一「中央線開業の歴史過程」『鉄道ピクトリアル』第467号、電気車研究会、1986年8月、 10 - 15頁。
  • 祖田圭介「中央線の輸送形態の移り変わり」『鉄道ピクトリアル』第467号、電気車研究会、1986年8月、 16 - 23頁。
  • 今田保「中央本線 歴史の興味」『鉄道ピクトリアル』第869号、電気車研究会、2012年11月、 10 - 23頁。
  • 森田重彦「勾配線を征服したる中央線電化工事に就いて」『交通と電気』第10巻第4号、電通社、1931年4月、 3 - 9頁。
  • 「中央線新笹子トンネル貫通」『土木学会誌』第50巻第4号、土木学会、1965年4月、 96 - 97頁。
  • 吉村恒・塚本昌「新笹子トンネルの施行計画設計について」『東工』第16巻第1号、日本国有鉄道東京第一工事局、1965年1月、 70 - 78頁。
  • 鴨志田芳保・塚本昌「新笹子トンネルの工事計画」『交通技術』第19巻第4号、交通協力会、1964年4月、 130 - 132頁。
  • 山田清・小藪泰明・武田四郎「新笹子トンネルの施工」『土木施工』第6巻第7号、山海堂、1965年7月、 13 - 27頁。