蓮田善明

蓮田 善明(はすだ ぜんめい、1904年明治37年)7月28日 - 1945年昭和20年)8月19日)は、日本の文芸評論家国文学者三島由紀夫の思想形成に強い影響を与えた。著書に『鴎外の方法』、『予言と回想』、『古事記学抄』、『本居宣長』、『花のひもとき』、『鴨長明』、『神韻の文学』、他に小説的作品の『有心』などがある。敗戦時、陸軍中尉として自決。

略歴

1904年(明治37年)7月28日、熊本県熊本市北区(旧・植木町)、浄土真宗金蓮寺住職、蓮田慈善の三男に生まれる。植木尋常小学校、熊本県立中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)を経て、1927年(昭和2年)、広島高等師範学校(現・広島大学教育学部の母体)を卒業。鹿児島歩兵第45連隊幹部候補生として10か月間入隊。その後は1928年(昭和3年)、岐阜県立第二中(現・岐阜県立加納高等学校)、長野県立諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)で教職につき、1932年(昭和7年)、広島文理科大学(現・広島大学文学部教育学部理学部の構成母体)国文学科に入学。1935年(昭和10年)卒業。台中商業学校に赴任する。

1938年(昭和13年)、成城高等学校(現・成城大学)教授就任。同年、清水文雄らと雑誌「文藝文化」を創刊。同人には他に池田勉栗山理一らがいた。のちに同人に加わる三島由紀夫の『花ざかりの森』が掲載された昭和16年9月号の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」[1]と記し、三島を激賞した。

1939年(昭和14年)、中支戦線洞庭湖東部の山地に従軍、歩兵少尉軍務の余暇に各論考、日記を書き綴り、『鴎外の方法』を出版。1943年(昭和18年)、中尉として再召集。1944年(昭和19年)よりインドネシアを転戦。1945年(昭和20年)8月19日、ジョホールバルにて所属する部隊の歩兵第123連隊長・中条豊馬大佐を射殺。その後、ピストル自決。享年41。

翌年の1946年(昭和21年)11月17日に、成城学園の素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」が行なわれた。出席者は、桜井忠温中河與一清水文雄阿部六郎今田哲夫栗山理一池田勉三島由紀夫。出席者だけで蓮田の思い出を小冊子にまとめ、蓮田をよく知っていた版画家・棟方志功の装幀で『おもかげ』という題名で仕上げられた。

人と文学

「ふるさとの 驛におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに」。蓮田の故郷熊本県植木町は、西南戦争の最大の激戦地とされる田原坂の所在地である。この田原坂に、前述の蓮田の歌碑が立っている。江藤淳文芸評論家)は、晩年の著書『南州残影』(文藝春秋)の取材で、歌碑を訪れ、三島由紀夫を見いだしたのが蓮田であることを述べつつ、蓮田と三島を、西郷隆盛に発する自裁と国士の系譜にあると試論している。

蓮田は県立中学校済々黌に進学すると、級友の丸山學(のち熊本商科大学学長)等と回覧雑誌を作って、短歌・俳句・詩を発表し、文芸に親しむようになる。1921年(大正10年)、回覧雑誌「護謨樹」に詩『人は死ぬものである』を発表。その内容からは、青年期から独特の死生観を思索していたことが見て取れる。

広島高等師範学校時代には、生涯の師となる齋藤清衛(1893 - 1981年)教授から強い感化を受け、古典精神へ傾倒してゆく。のち、蓮田を編集兼名義人として清水文雄栗山理一池田勉の広島文理科大学出身者かつ斎藤門下の4人を同人とする月刊誌「文藝文化」が刊行される。「狭い借屋住いの中で子供はうるさいから早く寝せろ」(夫人の談話)と、叱りながらも勉学に励んでいた蓮田は、このときから、『鴎外の方法』、『予言と回想』、『本居宣長』、『鴨長明』、『神韻の文学』、『古事記学抄』、『忠誠心とみやび』、『花のひもとき』など、古典回帰の著作を精力的に重ねる。またこの「文藝文化」は、学習院で国語教師として教鞭を執っていた清水文雄の生徒・三島由紀夫の小説『花ざかりの森』(のち短編集『花ざかりの森』が七丈書院から処女出版された)が掲載されたことでも知られる。

蓮田は日中戦争から太平洋戦争へと戦局が拡大される時期に、2度、召集を受けて出兵している。初めて戦場に赴く蓮田が池田勉に向かって、「日本人はまだ戦ひに行くことの美しさを知らない」と言って微笑んだという逸話は、蓮田の「実践的死生観」の精神を端的に現している。伊東静雄は熊本へ向かう蓮田を大阪駅頭に迎えて、「おほきみにささげしいのち」と、壮行の辞を鉛筆で蓮田の日記帳に記したという。死後に刊行された小説『有心』、または日記『陣中日記』では戦場の体験が描かれている。その内容から戦場は蓮田にとって、死を直視した「末期の眼」を持って生と芸術(文学)の充実を確認させ、昇華させる貴重な舞台であることが見て取れる。蓮田は軍務のあいまを縫って、時間を惜しむようにいつも机に向かい執筆をしていたという。

1945年(昭和20年)8月19日、敗戦を中隊長(陸軍中尉)として迎えての4日後、応召先のマレー半島ジョホールバルの連隊本部玄関前で上官である連隊長・中条豊馬陸軍大佐を射殺。その数分後に同じピストルをこめかみに当てて自決を遂げた。その時、左手に握り締めていたものは、「日本のため奸賊を斬り皇国日本の捨石となる」という文意の遺歌を書いた一枚の葉書だったといわれる。

鳥越春時副官の記憶によると、中条豊馬大佐は、「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という。蓮田はその集会の直後、くずれて膝を床につき、両腕で大隊長・秋岡隆穂大尉の足を抱き、「大尉長殿!無念であります」と哭泣したという。鳥越副官は日頃、中条へ来る郵便物が金某という宛名で来ることを不審に思っていた。しかも中条大佐の出身地が対馬であったことから、朝鮮から渡って来て中条家の養子になった人物ではないかと推理していたという。また、中条は前線の視察も、現地人出迎者の応対が慇懃であったという[2]。しかし、松本健一による遺族への直接取材によると、中条豊馬は中条家に婿入りしたのは事実だが、元の姓は「金」ではなく、「」であるという。養子になる以前の名は「陳豊馬」で、大分県宇佐郡の出身で、朝鮮出身ではないという[3]

千坂恭二は、蓮田の自決は突発的な偶然事であり、むしろ第一次応召と第二次応召の間に著された鴨長明論に、蓮田のありえたかもしれない「戦後」を先行的に見ることが出来ると言う[4]

蓮田善明は先鋭な古今主義者で、今日に生きる自分の切実な問題意識に応えるものとして、「自然に芸術的秩序を命課する絶対世界」である古今集を強く押し出した。蓮田は、『詩と批評』で、「文学の噴出点は、凡ゆる意味の現実自然の素材天質から抽象された文学的世界である。抽象といつても、正しく言へば、自然から抽象されたやうに見えるが、実は自然に芸術的秩序を命課する絶対世界の開眼である。これに触れることによつてのみ自然も文学の素材となり、素質も文学的元質を発輝する。(中略)彼らのうちたてた風雅の秩序は遂に此の現身の世界を蔽つて、文化世界へ変革をなしとげた」[5]と記している。

蓮田善明と三島由紀夫

蓮田は三島の少年期の「感情教育の師」とされ、三島は生涯を通じて、蓮田の「実践的死生観」に強く影響を与えられた。特に美学と天皇の関係は鋭く犀利であり、美的天皇主義をまだ若かった三島に託された形となった。三島が『伊勢物語のこと』を掲載した「文藝文化昭和17年11月号には、蓮田は『神風連のこころ』と題した一文を掲載した。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評である。三島は後年、1966年(昭和41年)に神風連の地、熊本を訪れた際に森本忠と会っている。

三島死後のに行なわれた池田勉栗山理一塚本康彦の鼎談の中で、栗山理一は、「同じ雅びを論じても、僕なんかの考え方と蓮田の考え方とは、その淵源が違うわけです。(中略)僕が雅びということを考えたときには、日本の古典、文化というものを対象としたのですが、雅びはみやこびですから、それは都雅であり、その都の中心は天皇ですから、天皇が文化の淵源であられるという認識で雅びを考えたわけですが、蓮田はもう一つそこを乗り越えて、信念として絶対視するというところがあったのです」[6]と述べている。そして、塚本康彦は、三島や保田與重郎の天皇観と蓮田のそれとは違うのではないかと話をふると、栗山理一は自身も三島と保田に近い立場ととらえ、池田勉は、「(保田や三島などの天皇観は)おっしゃるように、観念的であり、傍観者の立場ですわね」と述べた。また池田は蓮田について、「天皇の宮居の花守になるとか、御垣を守るとかいうふうな、ああいう国学者の純粋さを蓮田ははっきり持っておったと思うんですがね。これがやっぱり彼の生まれた火の国の激情というものだし、詩人の純粋さじゃないかと思うんです」[6]と述べている。また塚本康彦が、「三島は、蓮田さんの死をダシにして己れの想念を述べていたようなふしがある」とふると、栗山理一は、「(三島には)勝義の自己劇化があると思うんです。三島らしい非常に計算された生き方であって、それはそれなりに評価しなきゃならないと思う」と述べている。また、池田勉は、「三島君が、蓮田の二十五回忌に出席したときに、いま栗山の話したようなことをいった(三島が「私の唯一の心のよりどころは蓮田さんであって、いまは何ら迷うところもためらうこともない」と言った)のと同時に、私も蓮田さんのあのころの年齢に達したということをいってたな。蓮田は(かぞえの)四十二歳で亡くなっておりますがね」[6]と述べている。

池田勉は、『蓮田善明 現代作家における神話的世界』の中で、善明の『神韻の文学』から「雲」のところを引いている。池田は、「雲 ― この形定まらず、あくまで定型や定律を否定しつづける雲も、ただ形式以前のつかみどころのない茫漠でなく、生命の根元の非常に美しいものをあらわしていると私には信じられてならなかった。(中略)蓮田の魂が想い描き、やがて昇り還っていった、雲の意匠による神話的世界を、三島もはやくから悲願として、心通わせるところのあったことが明らかであろう」[7]と述べている。

栗山理一は、復刻版『文藝文化 全7巻』別冊付録の『蓮田のこと 三島のこと』と題する一文で、古今集をよしとする三島が林富士馬と「はげしく論争したこと」を思い返し、「一貫して変わらぬ三島美学の条理」を再認識している。栗山は、「そのころ(注:昭和19年)三島は林富士馬君らを誘って私の家に遊びにくるようになった。あるとき、三島は林君とはげしく論争したことがある。林君は『万葉集』を推賞し、三島は『古今集』をよしとした。(中略)後年になって清水広島大学を停年で退官した折り、大学の機関誌『国文学攷』が記念特集号を編み、三島が『古今集新古今集』と題する一文を寄稿している。四十二年一月一日執筆と付記されており、論旨は『古今集』の特質を闡明した卓説である。作家としての出発の頃から一貫して変わらぬ三島美学の条理を改めて再認識したことであった」[8]と述べている。

松本徹は、『古今和歌集の絆 蓮田善明と三島由紀夫』の中で、三島をめぐる保田與重郎と蓮田善明について、「蓮田と保田とは、はっきり異なった立場に立って」おり、「三島が、保田ではなく、蓮田に“結縁”した」と断定している。松本は、「蓮田と保田とは、はっきり異なった立場に立っていたのである。繰り返して云うが、蓮田は徹底した古典主義者であり、普遍的で公の、正統的秩序を第一とかかげていたのである。頽廃を口にしたが、それとても“みやび”“風雅”といった正統に繋るものであった。それに対して保田は浪曼主義者であり、独創を尊び、敗北とデカダンス、そしてイロニーを熱心に語った。すなわち、「あめつちをうごかす」ことを夢想しながらも、早々に断念したところに、立っていたのである。(中略)保田が敗戦という事態に耐え、やりすごすことができたのに対して、蓮田にはできなかったのも、このところと無縁ではなかろう。自らが“信従”したところのものに殉ずるよりほか、蓮田には、道がなかったのである。三島が、保田ではなく、蓮田に“結縁”したのも、まさしくこのゆえであろう」[9]と述べている。

また、松本徹は、「三島と蓮田の言っていることの間には、ほとんど径庭が認められない。二人ともに文学は、自然そのもの、また作者自身の自然的感情なり体験を語るものでなく、世界をおおっている文化秩序にあずかるところに、成立するものだ、という基本的態度を、わが国の王朝文化を踏まえて、徹底的に貫いているのである」[10]と述べている。また、「三島に強い影響を与えた文学者を三人挙げるとすれば、第一に指を屈すべきは蓮田善明である。ついで伊東静雄であり、もう一人は、焼跡で出合った林房雄であろうか。蓮田は少年期と晩年の三島にとって、優しい父親の役割を果たしたと言ってよかろうと思う」[10]と述べている。

大久保典夫は、「蓮田善明の文学は、戦争による日本の国土と人心の荒廃におよそ蚕食されることを知らぬ超現実の絶対理念を志向した文学だった。彼はおそらく他者というものを知らなかったし、もちろん彼の内部にも他者の棲んでいた形跡はない、といっていい。その点、純日本製の“絹”にあこがれつつも、自己の内部に“明察”者という他者の棲んでいるのを知悉していて、最後までそれを追い払えずにいた三島由紀夫と決定的に違うのだが、三島はむしろ純粋の武人であったそういう蓮田善明にあこがれていたのかもしれない。(中略)わたしは、もともと、三島由紀夫は保田與重郎よりも蓮田善明に近く、三島自身、蓮田いた小高根氏の『蓮田善明とその死』の序文を読んでも知れるし、わたし自身『批評』同人として比較的近くにいて、晩年、彼が蓮田善明の全集を出したがっていたのを、その切実な気持ちを漠然と推察していたのだ」[11]と述べている。

また、大久保典夫は、「小高根氏によると蓮田善明も三島におとらぬ早熟の才能で、すでに十五歳のとき『“如何に死すべきか”で想定した結論から、逆にこれから生きてゆく軌跡を帰納しようという徹底した悟達ぶり』を示しているという。これは同年で『凶ごと』という夭折願望の詩を書いた三島由紀夫と驚くほど似ているが、たしかに二人の間に『早熟の天才の感応』があったことは事実で、三十八歳の蓮田が十七歳の三島氏におのれの十七歳を回想したように晩年の三島由紀夫も蓮田の享年に近づいてはじめて蓮田の憂国の至情を共有したのだろう。(中略)三島氏の『檄』をみると『共に起って義のために共に死』のうと呼びかけているが、ここにはあきらかに蓮田善明につながる『死は文化である』という思想があるはずで、それはそのまま二人の天皇観につながっていよう」[12]と述べている。

さらに、大久保は『昭和文学史の構想と分析』で、「はげしい右翼イデオローグの汚名を着た」と三島が形容した蓮田善明の文学の一項をもうけて、「保田與重郎と蓮田善明の究極の違いを、ふたりの古典観に帰着するもの」と見たてる。そして、蓮田の古典とは、「超現実の絶対理念」で、これは「三島由紀夫と非常によく似ている」、ゆえに、「三島は『文藝文化』の蓮田善明の直系と考えたほうがいい」と結論づけている。大久保は、「わたしは、保田與重郎と蓮田善明の究極の違いを、ふたりの古典観に帰着するものと考えている。保田にとって、古典とは、彼の故郷の大和桜井にまつわる“風景と歴史”であったが、蓮田においては、超現実の絶対理念なので、その点、フィクションを信じられた(というより、信じようとした)三島由紀夫と非常によく似ている」[13]と評している。

蓮田は、1943年(昭和18年)、中尉として召集され、11月に戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、 よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という別れの一首を三島由紀夫に遺している。1946年(昭和21年)11月17日に行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で三島は、「古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす」という詩を、亡き蓮田に献じた。また、偲ぶ会の翌日、清水文雄に宛てた絵葉書には、「黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?」[14][15]と書き送っている。

三島は、『蓮田善明とその死』(小高根二郎著)の序文の中で、「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる』(『大津皇子論』) この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分がそのやうにして『文化』を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る。(中略)私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた文化のために、憤りにかられてゐたのである」[2]と記している。

また、1967年(昭和42年)11月8日付の小高根二郎への手紙で三島は、「前略 『蓮田善明とその死』感激と興奮を以て読み了へました。毎月、これを拝読するたびに魂を振起されるやうな気がいたしました。この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確められ固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました。一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に罪を報いて来るやうであります。今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄へて生きてゐたとは思ひたくありません。時代に憤つてゐても氏にはもう一つ、信ずべき時代の像があつたのでした。そしてその信ずべき像のはうへのめり込んで行けたのでした」[15]と述べている。

福島鑄郎は、「神風連事件の思想の延長線上にあった蓮田善明の『死』こそが、三島由紀夫に寄りそいながら、すでに過去の遺物として吐瀉されてしまった日本の伝統をかたくなに見守ってきたのであった。それが現実と融合する時こそ三島由紀夫の生命は白炎と化し燃焼せざるを得なかった」[16]と述べている。また、伊藤左喜雄は、「三島由紀夫は蓮田善明に倣いたいと希った。南方ジョホールバルでの蓮田さんのはげしい行動と死 ― その事実の闡明が『コギト』の小高根二郎によってなされたとき、三島君は自分自身の行動と死を決定したにちがいない」[16]と語っている。

1969年(昭和44年)10月、蓮田善明二十五回忌の席上、「伊東静雄全集と同じような一巻全集の蓮田善明全集を作ろう」という発案が三島によってなされた[3]

小島千加子は、「原稿渡しの最後の日となった10月の締切日」の蓮田にまつわる三島とのエピソードを描いている。昼食を三島の自邸で一緒に摂ってから他の編集者と去ろうとした時のことを小島は、「玄関から門に到る白い敷石の上に、三島さんと私の二人だけが佇むしばらくの間があった。そのわずかな時間をねらっていた、とでもいう風に、私の真正面に立ち、静かに、しかし、ひたと迫る口調で切り出した。(中略)このごろになって、ようやく蓮田善明の気持ちが分かってきたよ。善明が何を言わんとしていたのかって。善明は、当時のインテリ、知識人に、本当に絶望していたんだ。(中略)黒と白にはっきり分かたれた大きな強い目が、まともに私の方に向けられているかに見え、だが、私を通り越して天に注がれている。天にある善明の霊に訴えんとしているようでもある」[17]と記している。

著作

  • 『鴎外の方法 (文藝文化叢書)』(子文書房、1939年)
  • 『預言と回想 (文藝文化叢書)』(子文書房、1941年)
  • 本居宣長 (日本思想家選集)』(新潮社、1943年)
  • 鴨長明 (八雲書林選書)』(八雲書林、1943年)
  • 『神韻の文学』(一條書房、1943年)
  • 『花のひもとき 古文学の栞』(河出書房、1944年)
  • 『忠誠心とみやび』(日本放送出版協会〈ラジオ新書〉、1944年)

没後刊

  • 『蓮田善明全集』(全1巻、島津書房、1989年)
  • 林房雄保田與重郎亀井勝一郎/蓮田善明集 現代日本文學大系61』(筑摩書房、1970年)
  • 『陣中日記・をらびうた (古川叢書)』(古川書房、1976年)
  • 古事記 ― 現代語訳 (古川叢書)』(古川書房、1979年)/岩波現代文庫(解説坂本勝、2013年9月)
  • 『有心 今ものがたり』(島津書房、1985年)
  • 『叢書日本人論 39 忠誠心とみやび』(復刻 大空社、1997年)
  • 『蓮田善明/伊東静雄 近代浪漫派文庫35』(新学社 2005年)

伝記・研究

※三島由紀夫の著名な序文を収む。遺著『蘭陵王』(新潮社、1971年)に収録

脚注

  1. ^ 全文は、「『花ざかりの森』の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである」(蓮田善明「文藝文化」昭和16年9月号 編集後記)
  2. ^ a b 小高根二郎『蓮田善明とその死』(筑摩書房、1970年)
  3. ^ a b 松本健一『蓮田善明 日本伝説』(河出書房新社、1990年)
  4. ^ 「東大陸」1993年第3号
  5. ^ 蓮田善明『詩と批評』(文藝文化 1939年11月 - 1940年1月号)
  6. ^ a b c 栗山理一池田勉塚本康彦の鼎談『雅を希求した壮烈な詩精神―蓮田善明 その生涯の熱情』(浪曼 1975年新年号に掲載)、同誌は宮崎正弘等を編集人として1970年代に刊行された。
  7. ^ 池田勉『蓮田善明 現代作家における神話的世界』(国文学 解釈と鑑賞 1972年1月号に掲載)
  8. ^ 栗山理一『蓮田のこと 三島のこと』(復刻版『文藝文化 全7巻』別冊付録)(雄松堂出版 オンデマンド版、2007年)
  9. ^ 松本徹古今和歌集の絆 蓮田善明と三島由紀夫』、佐藤秀明編集『三島由紀夫 ― 美とエロスの論理(日本文学研究資料新集)』(有精堂出版、1991年)に収む。
  10. ^ a b 松本徹日本浪曼派と戦後』(国文学 解釈と鑑賞 1979年1月号)
  11. ^ 大久保典夫『日本浪曼派における古典 保田與重郎と蓮田善明』
  12. ^ 大久保典夫(東京学芸大学教授)『日本浪曼派と狂気』(伝統と現代 1971年4月号に掲載)
  13. ^ 大久保典夫『昭和文学史の構想と分析』(至文堂、1971年)
  14. ^ 三島由紀夫『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)
  15. ^ a b 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)に収む。
  16. ^ a b 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
  17. ^ 小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』(構想社、1980年。 ちくま文庫で再刊、1996年)

参考文献

※三島由紀夫の著名な序文を収む。
  • 松本健一『蓮田善明 日本伝説』(河出書房新社、1990年)
  • 千坂恭二『蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜』(「東大陸」第3号1993年
  • 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
  • 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
  • 西法太郎『蓮田善明と三島由紀夫』(三島由紀夫の総合研究 2010年3月9日 - 10日号)