鍋立山トンネル

鍋立山トンネル(なべたちやまトンネル)は、新潟県十日町市北越急行ほくほく線まつだい駅ほくほく大島駅間にあるトンネルである。両駅がトンネルにほぼ密接している。

トンネル概要

経緯

改正鉄道敷設法別表55ノ3に、「新潟県直江津ヨリ松代附近ヲ経テ六日町ニ至ル鉄道及松代附近ヨリ分岐シテ湯沢ニ至ル鉄道」が存在し、これに基づいて国鉄北越北線とするため日本鉄道建設公団1974年に工事を開始した。

日本有数の地すべり地帯に存在する特殊な膨張性地山を貫くトンネルであり、地圧は異常に高く地質は脆く、しかもたびたびメタンガスが噴出するという過酷な状況であった。特に中工区はそうした地層が複雑に入り組んでおり、中には1m³あたり21tもの土砂が詰まっている様な場所も存在するという、これはトンネル技術者にとってもとんでもない山であり、「豆腐の山にトンネルを通す様なもの」とさえ喩えられた。東工区は1976年に、西工区は1981年に貫通したものの、北越北線自体の工事が日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)によって凍結されてしまったため、中工区は1978年8月に松代町側から2,400mの所まで掘り進み、そこから先の難工事で苦戦していた所で1981年に一旦工事がストップしてしまった。この時点で中間部645mが未掘削のまま残されていた。

その3年後、1984年に北越北線を引き受ける第三セクター鉄道の運営会社として北越急行が設立されたため、1986年より工事が再開された。だが残区間の難工事は相変わらずで、路線開業の成否は政治や営業実績の問題ではなく、このトンネルの開通にかかっていたと言われる。そのためNATMなどありとあらゆるトンネル技術が試みられた。だが掘り進むごとに地圧は強くなり、壁面を仮に支える支保工はねじ曲げられ、切羽(掘削面)からの押し出しが激しくなり、ついには厚さ90cmのコンクリート壁が破壊されるという有様であった。かくて、1988年3月にはNATMによる掘削の断念を余儀なくされる。

替わって1989年1月には先進導坑掘削のため、3,500tもの推力を持つトンネルボーリングマシン(TBM)が導入されたが、70mほど進んだところで泥火山による水とメタンガスと硬い岩石が混ざったヘドロ状の土に阻まれて前進も後退も出来なくなってしまう。ついには地圧に負けて押しつぶされたあげく、掘削開始地点より手前にまで押し戻されてしまった。

最後には周辺地層に大量の急速硬化型のセメント系地質改良材を注入しながらの掘削という形でようやく工事を進められたが、それでもなお貫通までに6度もの押し出しに遭遇している。中央導坑が貫通したのは1992年10月、平均して一日あたりわずか20cmしか進めなかった計算になり、この数字からも難工事ぶりが窺われる。1995年8月に建設再開から10年半、建設開始から実に21年もの歳月を要してトンネルは開通し、1997年3月の北越北線改めほくほく線開通で供用が開始された。かくして、これは青函トンネル英仏海峡トンネル、異常出水などに苦められ費用面では青函トンネルを上回った上越新幹線中山トンネルをも凌ぐ屈指の難工事といわれ、世界の技術者の間でも「ナベタチヤマ」の名は高く知られている。

最後の難関であった中工区は、十日町市の蒲生集落の下に相当する。十日町市松代地区は地滑り頻発地帯であり、その中でも蒲生集落の付近は、江戸時代に地滑りのために無人となったいくつかの集落(例えば、旧蒲生、仙納平、天屋原)があるほど、とりわけ地滑り多発地帯であった。また、中工区に相当する蒲生集落では噴出する天然ガスを利用してきた歴史があり、西工区に相当する儀明集落付近では江戸時代に草生水(石油)が掘削されたこともある。2006年には、蒲生集落付近が泥火山であることが本州で初めて発見された。

北越北線は松之山町を通る北越南線案との間で「南北戦争」とも言われる激しい誘致合戦の末に決定された経緯があるが、北線案が採用された理由は、建設する距離が相対的に短い事の他、南線案では松之山温泉の90℃に達する熱水に遭遇する可能性があったためと考えられる。

脚注・参考文献・外部リンク