鷹峯[1](たかがみね)は、京都市北区の鷹峯街道(京都府道31号西陣杉坂線)を中心に広がる地域名であり、その西南方に連なる丘陵の名称でもある。
京都市北区南西部に位置し、右京区と接している。京の七口の一つである長坂口(ながさかぐち)から丹波国、若狭国へ続く、かつての鯖街道の入口にあたる。1780年(安永9年)に刊行された『都名所図会』(みやこめいしょずえ)では、街道を往来する人物が複数描かれ、その半数が荷物を担いでいる様子が窺え、鷹峯地域が物資輸送上、重要であったことを示唆している[2]。
南東から北西にかけて細長く広がり、東に隣接する大宮学区とほぼ並行している。地域の東側は鷹峯街道沿いの台地に、西側は紙屋川沿いに谷間の狭隘地になっている。それらの北西後方には杉阪集落に至るまで、小高い山々が広がっている。
後述の通り、江戸時代より御典医藤林氏が、当地に広大な薬草園を開いて野菜を栽培したことから、京の伝統野菜の名産地としても知られる。辛味大根・聖護院大根(だいこん)、朝鮮人参、唐辛子(鷹峯とうがらし)、鷹峯ねぎ、鹿ケ谷南瓜(ししがたにかぼちゃ)など、主な京野菜が今日でも栽培されている。
鷹峯学区には、約2000世帯・5000人が居住。以前盛んであった紋彫りなどの西陣織関係や農林業従事者が減少する一方、宅地開発が進み、会社員世帯が増加している[3]。学区内の教育機関としては、京都市立鷹峯小学校ほか、幼稚園1園、保育所2箇所が設置されている。少子高齢化が進む中で、鷹峯小学校の児童数は2009年(平成21年)に202人と、2001年(平成13年)の児童数266人に比べ、8年間で約4分の3に減少している[4]。
大文字山(左大文字)の北方に位置し、当地西南方に連なる丘陵をいう。東から鷹峯(鷹ケ峰、たかがみね)、鷲峯(鷲ケ峰、わしがみね)、天峯(天ケ峰、てんがみね)と称する。古文書に複数記載されるなど、かねてより多くの人に親しまれてきた。花札の8月の絵札でおなじみの「芒」は、この鷹峯の山を模したものとされる[5]。
ちなみに、鷹峯三山自体は隣の衣笠地域内にあり、現在の所在地名「大北山鷲峯町」に名を残している。
古来、現在の鷹峯およびその周辺地域一帯は「栗栖野」(くるすの)と呼ばれていた。この栗栖野の一角に、高岑寺(たかがみねじ)という名称の寺院が存在したとされる[8]が、その具体的な所在地は分かっていない。
平安時代には、代々の天皇が都に程近いこの栗栖野に行幸し、遊猟、鷹狩に興じていたという[9][10]。鷹狩の鷹を捕捉できる場所として知られたこの地の名称「高岑」が、いつしか「鷹峯」に変化したものと考えられている。
1591年(天正19年)豊臣秀吉が外敵の侵入に備えて御土居を構築。1615年(元和元年)に、本阿弥光悦が徳川家康より御土居以北の、約8、9万坪の原野を拝領し、一族縁者を引き連れて移り住んだ。こうして、鷹峯の地に集落(いわゆる光悦村)が形成され、光悦屋敷を中心として街路に面した家々が立ち並んだ。光悦を慕う芸術家や豪商も移り住んで、京都の芸術・文化の一大拠点となった。
一方、御土居付近以南は、寛永年間(1624年 - 1643年)以降、御典医藤林氏が広大な薬草園を開いて管理経営し、辛味大根、朝鮮人参、唐辛子をはじめとする野菜を栽培して幕府に納めたという。
その後、本阿弥家が土地を幕府に返上してこの地を離れたことにより、18世紀初頭に貝原益軒が著した『京城勝覧』では、一時的に賑わいが衰えた様子が伝わる。一方、上述の『都名所図会』には、光悦寺、妙秀寺、常照寺といった法華宗寺院の存在により、宗教色の濃い集落が形成されていた様子が描かれている[2][11]。
1869年(明治2年)に光悦村、千束村および背面の山域(一ノ坂・石拾い・堂の庭)が合併して西紫竹大門村となり、1884年(明治17年)には上ノ町、木ノ畑村、蓮台野村を編入し鷹ケ峯村となった。1891年(明治24年)に、蓮台野ほか鷹ケ峯村の一部地区が野口村(後の鷹野町、今の楽只学区域)として分立した。
20世紀に入り、右京区福王子から高雄を経て北区中川、小野郷へ抜ける周山街道が開通したことにより、当地で営んでいた商家は続々と南へ移転した[12]。
1931年(昭和6年)に京都市上京区に編入され、1955年(昭和30年)に分区・新設の北区に含められた。
鷹峯街道の北部にある鷹峯小学校の標高が約160mあり、これは八瀬の比叡山ケープル乗場と同じで、昭和40年代の宅地開発のピーク時には「京の軽井沢」「百万ドルの夜景」とも宣伝されていた[3]。